第2話 オリバー視点②
クラーク夫妻の別邸へ着いた頃には、朝日はすっかり高く昇っていた。
馬車が門をくぐり、玄関前で緩やかに速度を落として止まった。
俺は先に降りると、出迎えてくれた家令と数人の使用人へ軽く頭を下げた。それから振り返り、馬車を降りようとしたアシュレイへ手を差し出す。
俺の手を取って地面へ降り立つと、アシュレイは屋敷を見上げ、「素敵なお屋敷ね」と小さく言った。嬉しそうに顔がほころんでいる。
白い壁に赤茶色の屋根。窓辺には蔓草が這い、王国の屋敷とはずいぶん趣が違う。
アシュレイが隣国語で挨拶をすると、家令は愛想よく笑った。
『お待ちしておりました。どうぞ、中へ』
開かれた玄関へ足を踏み入れた途端、アシュレイが立ち止まった。
高い位置に嵌め込まれた色ガラスから、赤や青の光が差し込んでいる。
床には淡い色のタイルが幾何学模様に敷き詰められ、壁際には見慣れない葉を茂らせた鉢植えが並んでいた。
アシュレイは興味深そうに辺りを見回しながら、家令のあとをついていく。
『こちらが食堂でございます。朝食は七時からですが、ご希望でしたらお部屋へお持ちいたします』
家令の説明を聞きながら階段を上がり、二階の廊下を奥へ進む。
突き当たり近くの扉の前で、家令が足を止めた。
『こちらをお使いくださいませ』
扉が開かれると、大きな窓が目に入った。そこから日差しが差し込み、窓の向こうには庭が見える。
寝室の隣には、小さな居間もあった。
窓辺には寝椅子が置かれ、その横の棚には物語や旅行記、植物についての本まで並んでいる。
『奥様より、ゆっくりお休みいただくよう申しつかっております』
部屋で待っていた侍女がそう言って、一礼した。
アシュレイは部屋を見回し、口元に手を添えた。
『まあ……こんなにしていただくなんて』
『奥様は、アシュレイ様にお越しいただくのを楽しみにしておられました』
その侍女の後ろから、別の使用人が銀盆を運んでくる。
卓上へ置かれたガラスのポットから、柑橘の甘酸っぱい香りが広がった。
『どうぞ遠慮なくお使いくださいませ』
続いて、荷物を抱えた使用人たちが部屋へ入ってくる。
「アシュレイ様は、こちらへ」
マリアベルに促され、アシュレイは窓辺の寝椅子へ腰を下ろした。
マリアベルは、長旅の疲れなど感じさせない手つきで使用人から衣装箱を受け取ると、すぐに蓋を開けた。
その横では、若い侍女シィラが、取り出された衣類を次々と仕分けていく。
俺も床へ置かれた箱を一つ持ち上げようとした。
そのとき、マリアベルと目が合った。
「…………」
何も言わない。
ただ、その視線が俺から扉へ移った。
「……外にいます」
箱から手を離し、両手を軽く上げる。
俺はマリアベルを筆頭に、侍女たちからあまり好かれていない。
心当たりはあった。
『オリバー、これ読んで』
『オリバー、見て』
『オリバー、一緒に来て』
幼い頃のアシュレイは、何かにつけて俺を呼んだ。
王太子妃教育が本格的に始まってからは、侍女たちへ子供らしく甘えること自体がほとんどなくなった。
俺も逆の立場なら、マリアベルのような目で相手を見ていたかもしれない。
廊下の窓から庭を眺めながらそんなことを考えていると、背後で扉が開く音がした。
振り返る。
着替えを済ませたアシュレイが立っていた。
桃色の軽やかなドレスの胸元には小さなリボンが結ばれ、袖には柔らかなレースがあしらわれている。
「少し散歩しない?」
「今からですか?」
「ええ。馬に乗って、散策したいの」
「着いたばかりですよ。休まれた方がいいのでは?」
「だって、初めて来た国なのよ。到着してすぐ部屋へ籠もるなんてもったいないわ」
緑の瞳が、子供の頃のように輝いている。
その顔を見てしまえば、断れるはずもなかった。
「……分かりました。では、厩へ行ってきます」
背後からマリアベルの視線が刺さる。
振り返らないことにした。
◆
厩番に案内され、別邸のすぐ脇にある厩へ向かった。
中へ入ると、何頭もの馬がこちらを気にするように鼻を鳴らした。
近くで見ると、どの馬も毛艶がよく、脚もしっかりしている。鞍や鐙もよく手入れされていた。
その中から大人しそうな一頭を選び、手綱を取る。
厩から連れ出すと、馬は俺の後ろをゆっくりとついてきた。
屋敷の前まで戻ると、アシュレイはすでに玄関先で待っていた。
俺の連れてきた馬を見るなり、軽く首を傾げる。
「一頭だけ?」
「療養中の方を一人で馬に乗せるわけにはいかないでしょう」
「大丈夫よ。これでも乗馬は得意なのよ?」
「知っています。だからといって、今は安静にしなければなりません」
「少しくらいなら平気よ」
「駄目です」
「もう、オリバー」
唇をわずかに尖らせて見上げてくる。
このままでは埒が明かない。
アシュレイの両脇へ手を入れ、そのまま馬上へ持ち上げた。
「きゃっ」
腕の中から身体が離れる、その一瞬の軽さに眉を寄せる。
相変わらず軽い。
もう少し食べてもらわなければ。
そんなことを考えながら鐙へ足をかけ、その後ろへさっと跨がった。
アシュレイの腰へ腕を回し、手綱を取る。
その途端、腕の中で身体がわずかに強張った。
「どうしましたか?」
「……なんでもないわ。進めて」
俺は前を向き、馬を歩かせた。
正門へ近づくと、重い門扉がゆっくりと左右へ開いていく。その間を抜けたところで、アシュレイが顔を上げた。
「もっと速くても大丈夫よ」
「それはまた今度にしましょう」
「今でも平気なのに」
聞こえなかったことにして、先ほど馬車で来た街道とは反対へ馬首を向けた。
しばらく進んでから街道を外れ、畑の間を通る細い道へ入る。
「わあ……」
アシュレイが小さく声を上げた。
馬車の窓から眺めていた農地も、こうして間近を通ると随分と印象が違う。
畑では、ちょうど豆の収穫をしているところだった。
大人たちが枝から実を摘み取り、籠へ移していく。その横では、十歳にもならないような子供たちが、小さな籠を両手で抱えて運んでいた。
やがて遠くで鐘が鳴った。
畑にいた大人が何か声をかけると、子供たちは籠を畑の端へ置き、一斉に道の向こうへ駆けていく。
子供たちを目で追うと、その先に石造りの建物が見えた。
「学校でしょうか」
「そうみたいね。収穫期には、午前だけ畑を手伝う地域もあると聞いたことがあるわ」
風が吹き、アシュレイの金色の髪が俺の胸元をくすぐった。
「あの木は何かしら」
アシュレイが道の先を指差す。
その方向へ目を凝らすと、畑の向こうに何本もの果樹が並んでいた。
「葉だけでは分かりませんね」
「クラーク夫人がね、この辺りで採れた果物を使ったお菓子を、ぜひ食べてほしいとおっしゃっていたの」
「それは楽しみですね」
「ええ。それに、別邸の菓子職人は王都で修業した方なんですって。果物を使ったお菓子がとても得意らしいわ」
「最初から食べすぎないでくださいね」
「分かっているわ」
アシュレイがぷうっと頬を膨らませる。
その様子に、思わず目を細めた。
――この人は、王宮の一室へ閉じこもっているより、こういう場所の方が合っていたんじゃないか。
風に髪を揺らし、目に入るものを楽しそうに眺めている。
王宮で見るより、ずっと生き生きとしていた。
だが、しばらく進んだところで、アシュレイが不意に黙った。
「どうされました?」
「……お父様、どうしているかしら」
先ほどまでより、声が小さい。
「わたくしのこと……失望しているわよね」
何と答えるべきか迷った。
旦那様が、公爵家の立場を気にしていないはずはない。
それでも――
「……旦那様が、今のアシュレイ様をご覧になったら」
アシュレイがゆっくりと顔を上げた。
「そんな気持ちも、なくなると思いますよ」
「……どうして?」
「自分の娘が、こんなに楽しそうにしているんですから」
母親に捨てられた俺が、親の気持ちを語るのも妙な話かもしれない。
それでも、もし俺に娘がいて。
ずっと張り詰めた顔で生きていたその子が、ようやくこんなふうに笑えるようになったのなら。
「それを見ても失望したままでいられる父親なんて、そうはいないでしょう」
「……ありがとう、オリバー」
アシュレイが小さく笑った。
そして、そのまま身体から力を抜くように、背中をこちらへ預けてくる。
胸元へ、柔らかな金色の髪が触れた。
身体が揺れないよう、腰へ回した腕に少しだけ力を込める。
それから、手綱を握り直した。




