第2話 オリバー視点①
時系列遡ります。隣国到着した話です。
ガタガタと続いていた馬車の振動が、いつの間にか小さくなっていた。
窓のカーテンをわずかにずらし、外を覗く。
街道の脇には、広い農地が続いている。
麦畑の間を細い水路が走り、その縁には低い石垣が伸びていた。果樹は等間隔に植えられ、荷馬車へ収穫物を次々と積み込んでいる。
王国の田園とは、どこか景色が違った。
――隣国は小国だからこそ、水路の整備や土地の使い方にはかなり力を入れている。
以前、アシュレイがそんなことを言っていた。
「ん……」
小さな声がした。
俺は視線を落とし、その呼吸に合わせるように手を動かした。
起こしたかと思ったが、顔をわずかにこちらへ向けただけで、すぐにまた寝息を立て始める。
気持ちを伝え合ってから、アシュレイはよく眠るようになった。
領地へ向かう馬車の中でも何度か眠っていたが、あの頃とは表情の力の抜け方がまるで違う。
馬車が揺れるたび、頭が動かないよう髪を撫でる。
そうすると、目を覚ましかけても小さく身じろぎするだけで、また眠ってしまうのだ。
今、眠っている顔は昔とほとんど変わらない。
まだ幼かった頃、物語を読んでやっている途中でいつの間にか眠り、開いていた本をそっと取り上げたことが何度もあった。
柔らかな頬へ、指先でそっと触れる。
するとアシュレイは眠ったまま、こちらへ顔を寄せた。
頬が指へ擦り寄るので、こちらの頬まで緩んだ。
「……やっとだな」
声が漏れた。
こんなふうに力の抜けた顔で眠るアシュレイを見るのは、いつ以来だろう。
ふと、婚約解消を告げられた日のことを思い出した。
『わたくしと共に死ねる?』
あの言葉を思い出すたび、胸の奥が詰まる。
ここまで追い詰めたあの男にも、その隣で何も知らず笑っていた女にも、今でも奥歯を噛みしめたくなる。
それなのに――俺を選んでくれたのだと思うと、胸の奥が熱くなった。
『私は、あなたの命を守るためにいるんです。そんなことはできません』
アシュレイの目から、わずかに力が抜けた。
『……そう』
そのまま視線が落ちる。
『ただ――』
俺はアシュレイの前へ跪き、その手を取った。
俯いた顔を下から覗き込む。
『あなたが幸せになるためなら、どこまでもついていきます』
アシュレイの瞳が揺れた。
『どこまでも……?』
『はい』
その目を見ながら、握った手へ力を込める。
『永遠に、あなたから離れません』
アシュレイの瞳から、涙が一筋だけ落ちた。
今、俺の膝の上で眠る金色の髪を一房すくう。
指の間をさらさらと滑り、そのままこぼれ落ちていった。
ここまで来ても王宮から何の使者も来ないということは、ギルベルト様が止めてくれているのだろう。
出発前、あの人は俺に一通の封書を押しつけた。
『しばらくアシュレイの好きにさせてやってくれ。こっちは私が何とかする』
本当にこれでよかったのかは、まだ分からない。
アシュレイがこのまま隣国で暮らすことになれば、俺もここで生きていくことになる。
ギルベルト様の紹介状はあるし、言葉も日常会話程度なら通じる。護衛の仕事なら探せるだろう。
それに――
『お前、いつまで護衛だけで食っていくつもりだ?』
二十五の頃、旦那様にそう言われたことがある。
執務机の向こうで、旦那様は書類から顔も上げなかった。
『お前は元々、随分な野心家だろう』
ようやくこちらを見ると、片眉だけを上げた。
『見ていれば分かる。領地から王都まで来たんだ。せっかくなら、もう少し上まで行ってみろ』
それからだった。
領地経営や商取引の見方、使用人の動かし方から、貴族社会で恥をかかないための立ち居振る舞いまで。
暇を見つけては、旦那様から次々と叩き込まれた。
ギルベルト様には、
『お前、ご婦人方には「寡黙で真面目な騎士」だと思われてるらしいぞ。よかったな。お前も立派な駒の一つだ』
と笑われた。
余計なお世話だと思ったものだ。
だが、今になってみれば、何が役に立つか分からない。
「……オリバー?」
膝の上で、アシュレイがゆっくりと瞼を開いた。
まだ眠気が残っているのか、何度か瞬きをしてから目元を擦る。
「今、どこ?」
「もう国境を越えましたよ」
「まあ、もう?」
アシュレイは慌てて身体を起こし、窓のカーテンへ手を伸ばした。
隙間から外を覗いた途端、緑の瞳が輝く。
「すごいわ。本当に綺麗に区画されているのね」
「そんなに珍しいんですか?」
「ええ。遠い農業国から、灌漑や土地利用の技術を取り入れたと聞いているわ」
「わざわざ他国から?」
「この国は使える土地が少ないでしょう? だから、一つの土地からどれだけ安定して収穫できるかを、とても大切にしているの」
アシュレイは窓の外を指した。
「それに、国土が小さいから、新しい仕組みを国中へ広めるのも大国よりずっと早いのよ。中央で決めたことを、各地まで行き渡らせやすいのね」
「なるほど」
もう一度、窓の外へ目を向ける。
先ほどまでただ整然と並んでいるだけに見えていた畑が、今度は水路の位置や果樹の間隔まで気になった。
「では、王都も楽しみですね」
「ええ……でも、その前にクラーク夫妻の別邸で、しばらく療養することになっているのよね。王都へ行けるのは、もう少し先よ」
「いいじゃないですか。その間に、読みたかった本を読むんでしょう?」
「ええ。何冊か持ってきたわ」
アシュレイがこちらを振り返る。
「オリバー、読んでくれる?」
「……読み聞かせですか?」
「ね? いいでしょう?」
首を傾げ、ねだるような目でこちらを見る。
「……分かりましたよ」
途端に、ぱっと笑った。
その顔を見た瞬間、俺は窓のカーテンをさっと閉めた。
「オリバー……?」
不思議そうに見上げるアシュレイの肩を抱き、そのままこちらへ引き寄せる。
胸元へ金色の頭が収まったとき、ほのかな薔薇の香りがした。
「ど、どうしたの? 急に……」
「少しくらい、いいでしょう」
顔を寄せ、耳元へ口を近づけた。
「私も、ずっと我慢していたので」
アシュレイが目を見開く。
それから、白い頬がみるみる赤く染まっていった。
離れようとはせず、むしろ頬を俺の胸元へ寄せてくる。
俺の手に、細い指が重なった。
その指を包むように握ると、軽く握り返される。
馬車は一定の揺れを刻みながら、隣国の街道を進んでいった。
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