第2話 セディと呼んでもいいですの?
翌朝、セドリックはほとんど眠れていなかった。
理由は三つある。
屋敷が静かだったこと。
……静かすぎたこと。
それから、マリエルの部屋のほうから、
ペンの走る音が夜通し聞こえた気がしたことだ。
「おはようございます」
「……おはよう」
「本日は十二件、試したい項目がございますの」
「項目」
「まず、お名前の呼び方から」
マリエルは手帳を開いた。
「セドリック様では、少し堅いかと存じます。
セディとお呼びしても、よろしいかしら」
紅茶を飲みかけていたセドリックの喉が、止まった。
「それは」
「愛称ですわ。愛とは別の」
「愛称の『愛』は愛だ」
「文字の上では。ですが、意味は親愛とされておりますもの」
どこかで、かち、と音がした。
壁の時計が止まっていた。秒針だけではない。
振り子も針も、食堂の三つの時計がそろって動きを止めている。
「審議中ですわね」
「やめろ。屋敷を煽るな」
「煽っておりませんわ。観察です」
しばらくの沈黙のあと、時計は一斉に動き出した。
ババーン、は鳴らなかった。
「許可、ということでしょうか」
「許可されたのか?」
「ですって、セディ」
「許可するな!」
セドリックは天井に向かって叫んだ。
天井は何も答えなかった。
「当主ではなく、屋敷のお墨付きをいただきましたのね」
マリエルは満足そうに、手帳に一行書き足した。
* * *
昼前の廊下で、マリエルは壁際に立ち、廊下の先を指さした。
「次は接触の確認ですわ」
「必要ない。俺は指一本触れない」
言ってから、セドリックは気づいた。
柱の奥で、何かが、すう、と息を吸う気配がした。
――ババーン。
「……今のは、宣言になっていないよな」
「なっておりましたわ。確かに」
次の瞬間、廊下の床が波打った。
マリエルが一歩近づく。
絨毯が引く。
二歩。
引く。
三歩目で彼女の足元の絨毯がごう、とうなった。
彼女は、絨毯ごと廊下の入口まで運ばれた。
「素晴らしい強度ですわ」
「感心するな」
しかし、マリエルは諦めなかった。
しばらく廊下を見渡して、階段の手前で足を止める。
「絨毯は、段差の上では走れないようですわね」
彼女は階段を一段上がり、そこから手を伸ばした。
指先が、セドリックの袖口にちょんと触れた。
「一回目」
「数えるな」
踊り場でもう一回、階段を降りながらもう一回。
屋敷は唸ったが、床は動かなかった。
「三回、触れましたわ」
「記録するな」
「ただ、袖でございますので、布の判定が割れたのかもしれません」
「何の分析だ」
* * *
午後、書斎。
セドリックは机に突っ伏していた。
屋敷の判定を読み切れず、マリエルの実験に付き合わされ、朝から一歩も気が休まらない。
「もういい。好きにしろ」
言ってから、彼は顔を上げた。
「待て。今のは違う」
――ババーン。
さっきより、少し嬉しそうな音だった。
書斎の扉が、すべて一斉に開いた。
廊下の扉も、隣の部屋の扉も、倉庫の扉まで開いた。
本棚の本が、するりとマリエルの前へ並んだ。
窓は、庭の景色が一番よく見える角度に調整された。
そしてその間も、二人が近づけば廊下は伸び続けた。
屋敷は迷っていた。
「好きにしろ」
と
「愛さない」
の両方を、同時に履行しようとしているのだ。
廊下が、伸びたり縮んだりしている。
「判定が割れておりますわね」
「俺の言葉が、割れている」
「ご自分で認められるのですね」
「認めたくはない」
* * *
夕方、王立学院の客員教授、エルヴァン・ルーベルが到着した。
セドリックが呼んだのである。
この種の事案に最も詳しいのは、王都ではこの男だった。
ただし、最も詳しいことと、最も役に立つことは、必ずしも一致しない。
教授は玄関に入るなり立ち止まり、手帳をめくった。
「状況を整理する」
「頼む」
「婚約成立。当主による宣言あり。屋敷、履行中。解釈は屋敷の裁量」
「知っている」
「複数の言葉が矛盾した場合、屋敷は全部を同時に履行しようとする」
「それも見た」
「では、何を知らない」
「止め方だ」
教授は眼鏡を押し上げた。
「簡単だ。取り消すと言えばいい」
「……それだけか」
「それだけだ。ハーヴェル家の記録に、そう書いてある」
セドリックは本当にそれだけなのかと疑った。
が、教授は真顔である。
そして教授が真顔で言うことは、たいていほとんど合っている。
教授は食堂へ移動し、テーブルの上に固まったままの紅茶に目を留めた。
小さなスプーンを取り出し、水面にそっと触れる。
紅茶はぷるん、と揺れた。
「硬度は、中の下のプリンだ」
「……プリンの基準は」
「私個人の感覚だ」
「信頼できるのか」
「最も信頼している」
マリエルが手帳に書き込んだ。
「中の下、と」
「記録しなくていい」
教授は「明朝、また来る」と言い残して帰っていった。
* * *
夜、回廊。
秋の夜は冷える。
薄いドレスのままのマリエルが、手帳を抱えて小さく肩をすくめた。
セドリックは無言で上着を脱ぎ、彼女の肩にかけた。
窓の外の風が、ぴたりと止んだ。
屋敷が、ほんの一拍だけ審議したのがわかった。
やがて、回廊の窓が、一枚だけ、ぱたんと閉まった。
「……なぜ窓を閉める」
「寒いから、ではありませんかしら」
「俺が上着をかけた意味は」
「判定は、セーフでございますわ」
「基準が分からん」
ありがとうございます、とマリエルは上着の襟を引き寄せた。
セドリックは、しばらく夜の庭を眺めた。
それから、決めた。
「明日、取り消す。全部だ。教授の言った通りにする」
「……それで、止まるのですわね」
「止まる」
「そうですか」
それだけ言って、マリエルは手帳を閉じた。
いつもなら、何かもう一言、足すはずだった。
セドリックは、そのことに気づかなかった。
柱の奥で、屋敷が、ほんの少し身じろぎした。




