第1話 承知しましたわ
「お前を愛することはない」
その一言が落ちた瞬間、ハーヴェル邸の大広間は静止した。
白い大理石は蝋燭の光を受けて蜂蜜のように揺れ、
白百合の香りが空気いっぱいに満ちている。
祝福のために整えられた、完璧な場だった。
だからこそ、その一言はひどく異物だった。
列席した貴族たちの扇が、一斉に止まる。
誰かが息を吸い込んだまま戻せずにいる。
最前列の老伯爵夫人は、祝杯を口へ運ぶ途中の姿勢で固まっていた。
「……誓いとしては、不適切ですね」
進行役の司祭が、慎重に言葉を選んで言った。
「誓いではない。事実だ」
セドリック・ハーヴェルは即答した。
真面目な男である。
相手に隠し事をしたまま婚約式を挙げるのは不誠実だと、彼は本気で考えていた。
それを式の真っ最中に言うことが、誠実から最も遠い振る舞いであるという点には、残念ながら思い至っていなかった。
そして、ほんの少し遅れて、柱の奥から音がした。
――ババーン。
見得を切る役者の背後で鳴るような、あの音である。
参列者は一斉に天井を見上げ、音の出所を探した。
セドリックだけが、静かに目を閉じた。
(……言ってしまった。うちで)
ハーヴェル家の当主の言葉は、屋敷が聞いている。
代々そう言い聞かされて育った。
だから彼は言葉を選んだ。
考えうる限り、最も無難で安全そうな言葉を。
愛すると言えば、屋敷が何をするか分からない。
ならば、愛さないと言っておけばいい。
少なくとも、彼女の心まで屋敷に決められることはない。
そう思っていた。
「承知しましたわ」
静まり返った広間に、澄んだ声が通った。
マリエル・カスタニアは微笑んでいた。
取り乱すでも、青ざめるでもなく、
「今日は良いお天気ですね」
と言われた時のような顔で。
「……承知?」
「ええ。婚約のお話は、すでに決まっておりますもの」
「いや、だから俺はお前を」
「愛さない、と。確かに承りましたわ」
マリエルは丁寧に一礼し、それから少しだけ首を傾げた。
「ただ、その『愛する』の範囲は、後ほど詳しく伺ってもよろしいかしら」
「……範囲」
「ええ。曖昧なままですと、わたくしのほうが、
うっかり違反してしまいそうですもの」
司祭が小声で
「違反する側なんですか」
と言った。セドリックも同じことを思った。
婚約式はその後、異様な速さで進んだ。
誰も何も言えなかったからである。
指輪の交換は事務的に終わり、祝辞は半分に削られた。
貴族たちは、
「素晴らしい式でしたわね」
と言いながら、競うように出口へ向かった。
* * *
式のあと、セドリックはマリエルを屋敷の奥へ案内した。
「部屋は二階の東だ。俺の部屋は西。食事は食堂で、書斎は――」
「あの、少し歩幅が違いすぎますわ」
マリエルが小走りに追いついてくる。
振り向くと、彼女は思いのほか近くにいた。
「近い」
「適正な距離だと思いますけれど」
その言葉が終わるのと同時に、廊下が、ぐう、と伸びた。
床板が音もなく継ぎ足され、壁の燭台がひとつ増えている。
気づけばマリエルは、さっきの倍の距離を隔てて立っていた。
「……なるほど」
遠くから、マリエルが言った。
「屋敷が、距離を管理してくださるのですね」
「管理というか、これは」
「声は聞こえますわ」
「聞こえている」
「では、この距離でも問題ありませんわね」
問題はあった。
セドリックの案内は、そこから先ずっと大声になった。
* * *
夜。
ハーヴェル邸の食堂には、二人分の夕食が用意されていた。
長いテーブルの端と端。蝋燭が揺れ、料理は温かい。
ここまでは、ごく普通の屋敷の普通の夕食だった。
「いただきましょうか」
とマリエルが言った。
「その前に、確認しておきたい」
セドリックはナイフを置いた。
「昼の発言は変わらない。俺はお前を愛することはない。
誤解のないよう、改めて言っておく」
「承知しておりますわ」
「その上で、不便はかけない。部屋も使用人も自由に使ってくれ」
「ありがとうございます。では、塩を取っていただけます?」
「……塩?」
「そちらの手元に、ございますでしょう」
セドリックは塩の小瓶を取り、テーブル越しに差し出した。
マリエルが受け取ろうと席を立ち、一歩、歩み寄る。
その足元の絨毯が、するりと滑った。
マリエルは前へ進んでいるのに、体は後ろへ運ばれていく。
絨毯がベルトのように彼女を元の席まで送り返し、椅子の前でぴたりと止まった。
気づけばマリエルは座っていた。立ってもいないのに。
「…………」
「…………」
「あの、わたくし、今、自分では動いておりませんわ」
「見ていた」
セドリックは額に手をやった。
「屋敷だ。当主の言葉を聞いて、履行する」
マリエルは絨毯と天井と塩の小瓶を順に見た。
「つまり、あなたが『愛さない』とおっしゃったので、
屋敷が愛さないよう取り計らってくださっていると」
「……そういう傾向がある」
「ご親切ですのね」
「親切じゃない。判断が雑なだけだ」
食事が終わるころ、マリエルは給仕係にポットを持ってこさせた。
自分で紅茶を淹れ、もう一つのカップにも注いで、セドリックの前へ置いた。
「どうぞ」
その瞬間、二つのカップの水面が、ぴたりと止まった。
揺れていたはずの液体が、揺れた形のまま固まっている。
傾けてもこぼれない。
マリエルが指先でつつくと、ほんの少しだけ弾力が返ってきた。
「こちらは阻止ではなく、保留でございますのね」
「……何がだ」
「紅茶を淹れて差し上げることが『愛する』に当たるのか、屋敷は判定できなかった。
ですから、止まっている」
セドリックは何も言えなかった。
理屈が通っていたからである。
(なぜこの女は、初日で屋敷の挙動を分類しているんだ)
「怖くはないのか」
思わず訊いていた。
「怖いより先に、興味が出てしまいまして」
マリエルは、どこからか小さな手帳を取り出し、ペンを構えた。
「本日分、記録しておいてもよろしいかしら」
「……何のだ」
「判定の」
屋敷のどこかで、柱が小さく軋んだ。
たぶん、あれは笑ったのだと思う。
セドリックは、考えないことにした。




