第3話 異世界転生の正体
「あーー……。帰るのだるっ」
会社を出ると、もう九時を回っていた。
今日は、上司が八時半まで残っていたせいだ。
上が残っているなら、下も帰りづらい。
そんな空気だけが、令和の今も律儀に残っている。
労働基準法なんて言葉は、この会社には最初から存在していなかった。
十年間、使い続けている駅までの道のり。
頭に浮かぶのは、面倒くささだけだった。
『ホームレスになればいいじゃねぇか』
だが、今夜はホームレスの男の言葉が、やけに頭から離れなかった。
まるで、そこに居座っているみたいに。
「……簡単に言うなよ」
駅が近づき、人の流れに飲まれながら、誰にともなく呟く。
あの男の言っていることは、極端なだけで、本質は間違っていない気がした。
『ここ』から逃げるとして、どこへ行くのか。
異世界は天国、転生は輪廻。
結局、人間の考えることは昔から変わらない。
あるとされているだけで、それを体験したやつなんていない。
しょせん、人が生み出した希望か、あるいは戒めに過ぎない。
「まっ、今夜も酒のんで寝るだけだ」
信号が青に変わる。
人の流れに合わせて、横断歩道に足を踏み出した。
ポケットからスマホを取り出し、いじる。
適当な動画を選んだ、その瞬間。
クラクションが鳴った。
やけに近い。
反射的に振り向くと、トラックがこちらに突っ込んできていた。
「……は?」
間の抜けた声が出る。
周囲で、悲鳴が上がった。
トラックのライトが、眩しさごと視界を焼いた。
「うぐっ!?」
凄まじい衝撃。
身体が、宙に浮く。
時間が、やけに遅くなる。
「あっ……。これ、死ぬやつだ」
指先すら動かせない。
「どうせなら……。」
思考が、そこで途切れかける。
異世界にでも、行ければいいのに。
******
「……は?」
気づくと、そこは真っ白な空間だった。
上下も、奥行きも、分からない。
「……は?」
思わず、もう一度声が漏れた。
体は動く。
痛みはない。
さっきまでの現実が、嘘のようだった。
「おお、我が勇者よ! 休暇は堪能できたか!」
背後から声がした。
振り返る。
そこにいたのは、理解できない『何か』だった。
人の形をしているようで、していない。
光の塊のようでもある。
だが確かに、それはこちらを見ていた。
「……誰だよ」
「誰とはひどいな。いつも会っているだろう?」
まるで、久しぶりに旧知に話しかけるような口調だった。
「……は?」
「ああ、力を封じたその身体では、分かりにくいか。
ほら、これならどうだ?」
全身に、何かが流れ込んだ。
見た目は変わらない。
だが、確かに『ある』と分かる。
「……は?」
同時に、『何か』の光が弱まってゆく。
白いドレスに、赤い鎧。
長い赤髪が、白い空間の中で揺れていた。
凛とした顔が、こちらを見ている。
右手に円盾、左手に三叉の矛。
その肩には、紅蓮の羽を持つ鳥が静かに止まっていた。
「まあいい。細かいことは後だ。次の世界を救ってもらうぞ」
「……は?」
理解が、追いつかない。
「くふふっ……。次はすごいぞ?
魔王が五人もいる! お前も大満足間違いなしだ!」
「いや、待て」
思わず口を挟む。
「なんだ?」
「何言ってんだ、お前」
「何とは?」
「世界とか、魔王とか……。意味分かんねぇだろ」
沈黙が落ちる。
「うん?」
『何か』が、わずかに眉を寄せた。
頭の奥が、きしんだ。
何かが割れる音がした。
いや、違う。
これは音じゃない。
記憶だ。
知らないはずの景色が、視界の内側に流れ込んでくる。
剣を振るう感触。
手に残る重み。
鉄の匂い。
血の熱さ。
燃え落ちる城壁。
叫び声。
歓声。
そして、満ちているのに満たされない感覚。
「……あ」
息が詰まる。
思い出した。
全部、戻ってきてしまった。
「ようやくか」
『何か』が、くつくつと笑う。
その声に、全てが繋がった。
闘争の女神だ。
「我が勇者よ!
戦いを楽しめ! 一心不乱の闘争を!
死してもなお、再び立て! それが『勇者』という役割だ!」
頭が痛い。
思い出したものが、そこに居座っている。
追い出せない。
否定できない。
それは確かに、俺の記憶だった。
「ふざけんな……。」
思わず、吐き捨てる。
「うん? 休暇は堪能できなかったのか?」
「……あれが、休暇かよ」
会社。
上司。
コンビニ弁当。
ホームレス。
全部が、急に意味を持ち始める。
「そうだ。お前が望んだ休暇だ。
たまには平凡な人生を歩んでみたい。そう言ってただろ?」
「ふざけんな……。」
喉の奥から、同じ言葉がこぼれた。
「で?」
闘争の女神は気にした様子もなく続ける。
「準備はいいか?」
問いかけは軽い。
だが、拒否できない。
分かっている。
もう、何度も繰り返してきた。
死んで、戦って、救って。
そのたびに、ここへ戻ってきた。
口を開きかけて、閉じる。
言葉に意味はない。
原初に結んだ契約から、逃れられない。
「……分かったよ」
諦めたように、呟いた。
「いい返事だ!」
闘争の女神が、楽しげに笑う。
「では、楽しめ! 我が勇者よ!」
足元が消える。
落ちる。
暗い。
深い。
どこまでも。
その中で、ひとつだけ思う。
ホームレスのほうが、ずっとマシだった。




