第2話 異世界転生未満の現実
「おいおい、この数字は何だよ!
まさか、これで給料もらうつもりか? 会社が倒産するぞ?」
「頑張ります」
始業十五分前のラジオ体操から始まり、社訓を唱和する。
昭和かよ、と言いたくなるような朝礼が終わる頃には、すでに上司の機嫌は最悪だった。
まだ集合時間、五分前だ。
この時点で、パワハラと労働基準もへったくれもない。
「頑張らねーでいいんだよ! 普通にやれ!」
「頑張ります」
だが、誰も何も言わない。
明日は我が身とばかりに、嵐が過ぎ去るのをただ待っている。
俺自身、落ち込んだふりを決め込み、上司の怒鳴りを聞き流す。
心の中では、神に与えられた聖剣で上司を切り刻み、経験値に変換していた。
このモブは、無駄にHPが高い。
「もしもーし? 聞こえてないんですか? お馬鹿さんですかー?」
「頑張ります」
どうせ、三十分もしたら、上司は怒鳴り疲れる。
その退屈をどうやってやり過ごすかが、この会社で生き残る唯一の技術だった。
******
『名刺を百枚渡してくるまで、帰ってくるな!』
上司から渡されたオーダーは、実にイージーだった。
名刺束を駅のゴミ箱にシュート。
あとはパチンコに行き、上司が帰った頃に帰社すれば、問題ない。
そもそも、名刺を百枚配ったところで意味はない。
それでノルマが達成できるなら、千枚でも一万枚でも配ってやる。
「あーー……。午後からどうすっかなー……。
1パチなのに、一万も負けるって、おかしいだろ」
問題があるとすれば、午前中で資金が尽きたことだ。
公園のベンチに座り、コンビニ弁当を開ける。
自炊をしたほうが節約になるのは、分かっている。
だが、それができていれば、大学一年の春に挫折していない。
ラーメン屋や定食屋、弁当屋と色々と巡った。
結局、コンビニ弁当で落ち着いた。
味と値段を考えれば割に合わないが、探したり、出向いたりするのが面倒くさい。
コンビニ弁当か牛丼の二択になって、何年になるだろうか。
「……やべ、もう食いたくない」
昨夜は飲みすぎたか。
唐揚げを頬張った瞬間、すでにうんざりしていた。
ご飯に箸をつけると、胃が熱くなった。
結局、それ以上は食べられず、蓋をした。
見るのも嫌になり、弁当を隣に置いた、その時だった。
「それ、食わねぇならくれよ」
背後から声がした。
反射的に振り返ると、男が弁当を覗き込んでいた。
年齢はよく分からない。
五十前後だろうか。
伸び放題の髪に、無精髭。
くたびれた服を着て、男自身も全体的に薄汚れている。
いわゆるホームレス、というやつだった。
警戒する気力すら、湧かなかった。
「どうぞ」
気づけば、そう答えていた。
男は当然のように隣に座り、弁当を受け取ると、がつがつと食べ始めた。
「……ははっ」
思わず笑みがこぼれた。
「どうした?」
「すみません。箸を裏返したのが、ちょっとおかしくって」
身なりは汚れていても、道徳は失っていない。
「まあ、そのへんはな。最後の一線ってやつだ」
男は、少し照れくさそうに笑った。
なぜホームレスになったのか、少し興味が湧いた。
だが、それを初対面で聞くのは、礼儀に欠く気がした。
******
「ふーー……。ごちそうさん」
「どういたしまして」
男は、空の弁当箱をレジ袋に入れ、手を合わせた。
そして、じっとこちらを見た。
「で、お前さんは何悩んでんだ?」
「……いや、別に」
「別に、って顔じゃねぇな」
間を置いて、男は続けた。
「飯の礼に、話くらい聞いてやるよ」
俺は立ち上がろうとしたが、口が勝手に動いた。
「……異世界に転生とか、したいなって」
言ってから、しまった、と思う。
だが、男は笑わなかった。
「死にたいってことか?」
思わず息が止まる。
「いや、そういうわけじゃ……。」
「じゃあ、人生をやり直したいってことか。
だったら、別に転生しなくてもいいだろ」
俺が買ったまま、封も切っていなかったジュースを、男は当然のように開けた。
喉を鳴らし、それから続けた。
「お前も、ホームレスになればいいじゃねぇか」
「……は?」
「仕事も会社も全部やめて、ここで寝てりゃいい。転生と変わらねぇだろ」
冗談なのか、本気なのか。
ただ、その言葉だけが妙に残った。
現実から逃げるなら、どこへ行くのか。
異世界でも、転生でもなく、この公園のベンチなのかもしれない。
「……そういうもんですかね」
そう答えるのが精一杯だった。
「知らねぇよ」
男は立ち上がった。
「でも、ありがとよ。飯はうまかった」
それだけ言って、ジュースのペットボトルを呷りながら歩いていく。
残されたのは、ゴミと、少しだけ軽くなった頭だった。
「……昼寝でもするか」
結局、自分はどこにも行けないのだと、分かっていた。




