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記録No.8『崩壊の報告』

 連絡が来たのは、月曜日の朝だった。

 

 ユウトは別件の書類に目を落としている最中だった。淡々と項目を埋めていく、いつも通りの作業。そこへ、机の上で端末が小さく震えた。振動に気づき、いつもの通知かと思いながら開く。


 「――は」


 一瞬、意味を取り損ねる。

 差出人は、ミナトの職場の担当者だった。件名はなく、本文だけが短く置かれている。


 「ミナトさんについて、ご確認いただきたい件があります」

 

 書類の処理をしていた右手が止まる。ユウトはその文字をもう一度なぞるように読んで、そのまま端末から目を伏せた。


 午前中の予定は――確か面談が二件入っていたはずだ。どちらも動かせず、これではすぐに向かうことはできない。

 短く息を吐く。

 

「昼前に折り返します」

 

 短く返信を打ってから、ユウトは最初の面談室に向かった。


 ――――――――――――――――――――


 電話をかけたのは、昼食を終えてからだった。ユウトはいつもの日替わり定食をやめ、提供の早いカレーを選んでいた。味はほとんど記憶に残っていない。皿が空になった、という事実だけが残った。


 時間を見て、発信する。担当者の休憩時間にもかぶらないため、すぐ電話に出ると思うのだが――。


 「ご連絡ありがとうございます。ミナトさんの件ですよね」

 「すみませんお昼時に。お時間大丈夫でしたか?」

 「はい。問題ありません。それで、ミナトさんなのですが……」

 

 一拍。担当者の声は落ち着いていたが、言葉の選び方を慎重にしたいのか、端末越しにでも悩んでいる姿が見えた気がした。

 

「どうやら、金曜日の午後から少し状態が不安定なようで」

「不安定、ですか?」

「はい。彼の同僚の話ですが、業務中に突然泣き出してしまったらしくて」


 そこで一度、言葉が切れる。その後に続くのは、小さく息を吸う音。

 

「それ自体は珍しくないんですが、その後が少し……声をかけても、反応が薄くて。何かを言うでも、何か動くわけでもなく、そのまま……。その対応時点で業務終了時間になってしまったため、会社としては帰宅させる判断になりまして。こちらでの確認が、少し遅れました」

 

 ユウトは手元のメモに、「金曜」「泣く」「反応薄」と書いた。三行、並べてみると、どれも単体では説明がつく。ただ三つ並ぶと、少し形が変わった。


「ありがとうございます。ミナトさんは職場には……?」

「いえ、今は少し休んでいただいています」

「今はどこにいますか」

 

 返ってきたのは、提携の医療施設の名前。移送先の医療機関はコア地区の中だ。ここからなら、そう遠くない。

 午後の予定を頭の中で組み替える。いくつかを後ろへ押し出せば、空白ができた。


「わかりました。これから伺います」

 

 通話を切る。数秒、ユウトは端末の暗がりに視線を落としていた。


 外へ向かう途中、廊下でレナとすれ違った。レナはユウトの顔を見て、何かを言いかけて足を止めた。しかし、ユウトはそれに気づかなかった。


 「お疲れ様です。ちょっと出ます」


 それだけを残して、通り過ぎる。

 背後で、わずかに空気が揺れた気がしたが、振り返ることはなかった。

 

 エレベーターの扉が、静かに閉じる。


 ――――――――――――――――――――


 施設までは電車で三十分だった。座席に腰を下ろして、ユウトは端末を開く。ミナトの今月分のデータを改めて確認した。


 やはり数字は整っている。

 

 今日の欠勤でパーセンテージはわずかに落ちているものの、出勤率は変わらず高かった。業務評価も良好のまま。健康スコアは先月から変化がなかった。

 指で続きをスクロールする。が、どこにも引っかかる箇所はない。


 ――何も、おかしくない。


 そのはずのデータが、逆に「何かが起きた」ことだけを、はっきり示していた。

 ユウトは画面を閉じる。黒くなった液晶越しに、自分の顔が薄く映る。

 すぐに視線を外した。

 

 ――――――――――――――――――――

 

 受付で名前を告げると、すぐに担当者が現れた。白衣ではなく、くすんだ青のジャケットを着た女性、施設職員用の制服だろう。廊下を歩きながら状況を話してくれた。


 「今は落ち着いています、詳しい状況は担当医から説明がありますので、まずはそちらに向かいます。その後、本人のもとへ伺いましょう」

 「わかりました。ちなみに、今朝の容体は」


 歩調を合わせたまま、ユウトが問う。

 

「今朝からやや安定しています。ただ、コミュニケーションの部分がまだ……」

「具体的には?」

「話しかけると返事はするんですが、内容が噛み合わないことがあります。質問に対して、少しずれた返答が返ってくることがあって……。それと、ご自身の状況について話していただく際、言葉が出るまでに時間がかかりました」

 

 その後は静かだった。足音だけが、均等に響く。廊下の空気には、薄く消毒液の匂いが混じっていた。コア地区の建物ではまず嗅がない匂いだ。その変化を感じながら、担当者の後ろに続き、突き当たりで立ち止まった。そこは個室の前で、ドアの横に立っていた男性が、こちらに気づく。

 四十代ほど。白衣の袖口を整えながら、すぐに手を差し出した。


 「ミナトさんの担当医です。オオモリと申します」

 

 差し出された手に応じる。少し骨ばっているその手にしっかりと握手を返し、本題に移る。


 「端的に状態だけ。現状、私の方では感情解離状態にある可能性が高いと見ています」

 「感情、解離状態」

 

 担当医の言葉を、確かめるようにゆっくりとユウトは反芻する。

 聞き慣れた用語ではない。だが意味は、音のまま理解できる。

 

 「ええ、今は会話できる状態ですが、まだ不安定です」

 「原因は。職場でのストレスが知らないうちにあったというわけではないですよね?」


 オオモリはわずかに首を振る。

 

 「特定はこれからです。ただ、ストレスやトラウマによる突発的なモノというよりは、何かが蓄積してきた結果として起きた、という印象を持っています」

 「蓄積、というのは」


 短く復唱する。言葉は理解できる。だが、それに該当するデータは思い当たらない。

 

 「詳しいことは本人と直接お話しいただいた方がいいでしょう。こちらから断定的なことはまだ言えません。また、ご家族への連絡は先の方が良いかもしれません。その判断も含めて、今回はあなたに来ていただいています」

 

 ユウトはそれを聞いて頷く。合理的な判断だ。家族といった話題は特に慎重になるべきだろう。


 「では、二階の方へお願いします。エレベーターを出て右手にまっすぐ進んでください。229号室にいらっしゃいます。私がいては緊張もするでしょう。問題ないですか?」

「はい、問題ありません」

 

 案内の言葉も、過不足がない。ユウトは言われたままに二階へと進んだ。

 

 229号室ーープレートが掲げられたそれは、白いドアを携えている。

 その白さは、廊下の壁と同じ色のはずだった。ただドアだけが、わずかに浮いて見える。塗り分けられているわけでもないのに、境界だけがはっきりしていた。

 

 手を上げる。ノックしようとして、そのまま全身が静止画のように止まった。ドアの向こうから、音が聞こえない。ただただ静かだった。その静けさが、重みとなってユウトの指先にかかってくる。


 「――――」

 

 三ヶ月前の光景が、ふと差し込む。声を押し殺すような泣き方。あのときのミナトと、いまこのドアの向こうにいるはずのミナト。あの泣き方と、今ここにいる理由。繋がるのだろうか、繋がらないのだろうか。


 ——繋がるとしたら。

 

 その先を考えようとして、止まった。今は考える場合ではない。

 数秒、立ち止まってからノックした。


 「どうぞ」

 

 ミナトの声だ。声自体は出ている。感情の起伏を削ぎ落としたような、とても平坦な声が。


「失礼します」

 

 ミナトは窓の近くの椅子に座っていた。光が背中側から差し込んで、輪郭だけがわずかに白く浮いている。

 部屋に入ったユウトを見て、ミナトは小さく漏れ出るような音を出しながら。

 

「……ぁ、ユウトさん。どうしてここに?」

 「お久しぶりです。連絡をもらって、お話をしに来ました」

 

 名前が出たことに、わずかに力が抜ける。椅子を引いて、ミナトの斜め前で腰を下ろした。面談室のものより、少し柔らかい。体重を預けると、遅れて軋む音が鳴った。それは部屋の静けさに、細い矢を射るような音だった。

 

「そうだったんですか。すみませんわざわざ」

「気にしないでください。これも業務の一環です」

「はは、そうですか」


 淡々と、そう述べるユウトにミナトははにかむ。どうやら笑顔にもなれるようだ。ここだけ切り取れば、三ヶ月前の面談室と何も変わらない光景だった。

 

「どうですか、今。先週のことも含めて、話せる範囲で」


 ミナトはすぐには答えなかった。わずかに視線を落とす。その先が膝なのか、窓の外なのか、判別がつかない。

 

「……すみません、わからないです。突然、動けなくなって」

「何がわからないですか。出来事自体ですか。それとも——」


 言葉を選ぶ前に、ミナトが小さく首を振る。

 

「特に、これということがなくて」

 

 ミナトはそこで言葉を切って、膝の上の手を少しだけ動かした。そして、ぽつりと零れる。

 

「助けてください」

「はい」

 

 ミナトの声に、揺らぎがあった。確かな揺らぎ。それは不安か、焦燥か――。


「でも」

 

 ――いや、違う。言葉が嚙み合わない。そうだ、これは

 

「何に助けてほしいのかが、わからないんです」

 

 ――困惑。


 その言葉の意味が形作られ、呼吸だけが一瞬、空白になる。吸い込む息は塞き止められることなくそのまま肺の中に侵入した。その勢いからか、ヒュッと小さい音がユウトの喉奥で鳴り、冷たい空気がユウトを内側から攻撃してくる。

 

 三年間、この仕事をしてきた。相談者に助けを求められることは、何十回もあった。助けを求める言葉にはいくつかのパターンがあって、それぞれに対応する言葉が、ユウトの中には準備されていた。

 ただ、「何に助けてほしいのかわかりません」という言葉には、その準備が機能しなかった。何かを求めている。でも何かがわからない。その状態に対して、どう答えればいいのかが、出てこない。


 探そうとして、手を伸ばす。掴むものが、ない。


 ——何もない場所を、どう指し示せばいいのか。


 当然だ。本人にもわからないなんて。ならば、何を返せばいい。ここの到達点は「無」だ。「無」に、どう答えればいいというのだ。この「無」はこの部屋のように真っ白か、それとも――あかりも灯らない、暗闇なのか。


 ミナトは、特に何かを期待している顔ではなかった。答えを求めているというより、ただそう言うしかなかった、という感じだった。それでも、ユウトは言葉を紡ぐ必要がある。

 

「状態として、困惑が強いように見えます。今、身体はどうですか」

「重いです」

「眠れていますか」

「眠れてます。ただ、起きてもどこかが重くて」

 

 ユウトは一度、視線を落とす。

 何か、何か手掛かりとなるものはないか。繋がる線はないのか。

 

「夢は、見ますか?」

 

 ミナトは少し止まった。止まる前と後で、部屋の空気の質が少しだけ変わった気がした。

 

「……最近また、見るようになりました」

 

 ユウトは頷く。三ヶ月前の面談で「夢も見なくなりました」と言っていた。今は見るようになった、と言っている。

 変化はある。意味はまだ見えない。ユウトは考える。その先が何色なのかを。


 ――ノック音。


 現実に引き戻される。終わりを告げるノックに、ユウトは立ち上がる。


「すみません、今日はここまでにします、明日また来ますから、今日はゆっくり休んでください」

「はい、ありがとうございます」

 

 その声は、三ヶ月前の面談室で聞いた声と、少し違った。言葉の形は同じだったが、言葉の後ろにあるものが薄かった。


 施設を出た瞬間、突風がユウトを襲った。

 「何に助けてほしいのかわかりません」という言葉が、頭の中に残る。

 その言葉の意味を考えようとした。考えようとして、考えの糸口が見つからない。自分に何ができるのかを考えても、鍵が見つかる気がしなかった。

 

 午後の案件に遅れてしまう。足早に駅に向かった。

 

 座席に腰を下ろして、端末を開く。報告書のフォームを出して、今日見たことを順番に入力した。

 担当者からの連絡内容。ミナトの現在の状態。面談の概要。

 「感情解離状態の可能性」と打ちかけて、止まった。

 感情解離状態。それが正確な言葉かどうか、ユウトには判断できなかった。ただ、そこにあった言葉はそれだった。それ以上の言葉が、出てこなかった。

 

 前の面談を思い出す。ミナトが「夢も見なくなりました。それって、いいことですよね」と言った。

 ユウトは「そう思います」と返したはずだ。

 

 言えてしまったのだ。不思議と、喉は痛くなかった。今は少し、チクリと針を刺すような痛みを覚えていた。痛い、というより、何かが引っかかっている感触だった。何が引っかかっているのかは、わからない。


 ポケットの中で端末が振動した。ユウトは反射的に画面を開く。


 「……え」

 

 電車内で、ユウトは声が漏れ出た。

 通知が来ていたのだ。それも、見慣れない通知。

 

 『M-0047、観測データ更新。有効サンプル確認。次フェーズ移行条件:達成』

 

 ユウトはその文字を見た。

 有効サンプル確認。次フェーズ移行条件、達成。

 

 ミナトの状態が、データとして、サンプルとして、条件の達成として、記録されていた。

 読み違いではないかと思って、目をこする。読み違いではなかった。

 

 次フェーズとは――移行条件の達成とは――ミナトが今日動けなくなったことが、何か関係して――


 様々な思考が頭の上をタップダンスする。次の思考がその前を上書きして、またその次が来て。ユウトの思考は固まらない。言葉のこん棒が思考を壊していく。

 

 自分が知らない業務上の処理の一環――いや、これまでこんな言葉は聞いたこともない。

 

 ――有効サンプル。ミナトが有効なサンプルとして確認された、ということが今日の出来事の後に記録されている。

 

 端末の画面を閉じる。また、開く。

 消えていない。通知はそのままあった。

 

 もう一度画面を閉じ、ポケットに入れた。


 やっぱり、何かおかしい。そう思っても――ユウトは、何もできないでいた。

 

 座っているはずなのに、足が鉛のように重く感じる。あるいは、泥の中に足を取られるような感覚。電車が動いていた。それだけが確かだった。


 次の駅が近づいてくるアナウンスが流れてくる。それでも、ユウトの脳内には「有効サンプル確認」という言葉が残り続けた。音として、文字として、残り続けた。

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― 新着の感想 ―
独特な管理社会の世界観から徐々にディストピアの気配がしみ出してきていますね。面白く読ませていただきました。ユウトも過去になにかあったことは間違いないでしょう。よくあるパターンだと自由を求めた行動を開始…
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