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記録No.7『言えてしまったと、彼は憂う』

 三ヶ月目の面談は、木曜日の午後二時に設定されていた。この二ヶ月の間、ミナトからの連絡は一度もない。珍しいことではなかった。ほとんどの相談者は、面談と面談の間に個別の連絡をよこさない。システムが異常を検知すれば担当者に通知が行くし、職場からの報告も定期的に上がってくる。個別に連絡が必要な状況が発生すれば、機構の方から動く――そういう仕組みになっている。だからミナトからの連絡がないことは、そのまま問題がないことだと解釈できる。


 それは知っている。理解している。それでも、M-0047のデータを開きながら、ユウトは一瞬だけ手を止めた。「問題なし」という記録が二ヶ月分、途切れることなく並んでいる。健康スコアは上昇を続け、業務適性スコアも安定していた。睡眠パターンは「改善継続中」のまま推移していた。

 どこにも、異常はない。画面の中に、「問題なし」が繰り返される。その単語に、わずかに意識を向ける。


 問題がない、ということ。それは良い状態であることと同じなのか。

 問題なし、という言葉を、最初に覚えたのはいつだったか。確か入職して最初の週だったと思う。あの頃はまだ、『問題なし』と打つたびに少しだけ考えていた気がした。本当に契約者は困っていないのか?考える癖があった。

 いつから考えなくなったのかは、出てこない。


 ではミナトはどうだろうか。


 数値は答えない。答えてくれるわけがない。


 端末が、通知音とともに振動する。


「――面談の時間か」


 ミナトは時間通りに来た。廊下を歩いてくる足音が近づき、やがてドアがノックされる。入ってきたミナトは、一ヶ月前と比べて、またわずかに変わっていた。

 靴底は同じままだった。擦り減り方も、最初に会ったときと変わらない。


 けれど、歩き方が違う。以前より速く、迷いがない。室内を見渡すこともなく、そのまま椅子へ向かう。

 声の出し方も変わっていた。一ヶ月前にはあった“間”がない。問いに対して、言葉がすぐに返ってくる。

 どれも、改善と呼べる方向の変化だった。


 ——そのはずだった。


「改善している」という状態が、本当に良いことなのか。その確認を、ユウトは今になって試みる。だが、答えに触れる前に、面談が始まった。


「最近、どうですか」

「仕事には慣れてきました。同僚の方も優しくて、聞いたらすぐ教えてくれるので」

「生活の変化は」

「特にないですけど……なんか、毎日が早いです。気づいたら一週間終わってる感じで」

「身体の調子は」

「いいです。前より寝れてます」


 ミナトは少し間を置いた。


「夢も見なくなりました」


 ユウトは入力しながら、続きを待った。


「前はよく見てたんですけど、最近はほとんど見なくて」

「なるほど、環境が変わると、そういうことはよくありますが」


 ミナトはユウトの相槌を受け、少しだけ視線を揺らした。


「ぐっすり眠れてるってことかなって。いいことですよね」


 ユウトは手を止め、タブレットから目を上げる。

「いいことですよね」という問いには、答えの形があらかじめ含まれている。


 肯定すれば、ミナトは安心する。


 それは、わかる。


 同時に、別の思考が浮かぶ。

 夢を見なくなること。それが良いことである説明は、できた。睡眠の質が上がれば夢を見ることが減ることは科学的にも証明されている。厳密には違ったかもしれないが、安心材料としては十分機能することだろう。


 だが。


 そもそも、確認する必要があったのか。ミナトは、ぐっすり眠れている現在を、良いことかどうかユウトに判断を委ねたことになる。


 前回の面談では、彼は怒らないことについて疑問を呈していたはずだ。「そう思いたいですよね」と、呟いたあのシーンが再生される。

 ミナトは、自分の変化を受け入れられないのだろうか。一体それはなぜか、ミナトの表情も、声も、平坦になっていき、ユウトはつかめない。だから、


「そう思います」


 言葉は、先に出た。言えてしまった。

 考えが終わる前に、口が動いていた。不思議と、喉が痛くなかった。


「ですよね」


 ミナトは小さく笑った。安心したような、力の抜けた笑い方だった。


 その後の面談は滞りなく進んだ。生活のこと、職場での様子、数値の推移。ユウトが確認すべき項目を順に辿り、ミナトは短く答えていく。


 会話のリズムが、一ヶ月前より速い。三十分の面談のはずが、二十分で会話の内容は終了してしまった。特にこれ以上深掘りする箇所もない。面談の終わりに、ユウトはいつもの確認をした。


「何か、聞きたいことはありますか」


 ミナトは少し考えるような顔をした。考えている、というより、何かを探しているような顔だった。


「前回、なんか聞きたいことがあった気がするんですけど」

「前回というと」

「一ヶ月の面談のとき。何か気になってることがあった気がするんですよね。なんだったか、全然思い出せないんですけど」

「情報フィルタリングについて聞いてくれましたよ」

「ああ」とミナトは言った。「そうでしたっけ。聞いた記憶はあるんですけど、内容が」

「覚えていない」

「覚えていない、わけじゃないんですけど、なんか、薄くて」


 薄くて、という言葉が残る。答えとして想定していた形から少しずれていた。


 ——もう少し、具体的に聞くべきか。


「薄い、というのは、内容が出てこない感じですか。それとも、あったかどうかも曖昧な感じですか」

「あった、はわかるんですよ。ただ、何があったかが」

「出てこない」

「そうです」


 ミナトが続ける。


「最近、そういうことが多くて。あ、これ気になってるなって思うんですけど、しばらくすると何だったかわからなくなる。気になってたことは覚えてるのに、何が気になってたかが出てこない」

「日常の中で、そういうことが増えていると」

「増えてるのか、元からそうだったのかも、よくわからないんですよね」とミナトは言った。「ただ最近は、あれって思ったことが多くて」


 ユウトはタブレットを操作しながら「薄くて」という言葉を頭の中でもう一度なぞる。

 気になっていた、という感触だけが残り、中身は抜け落ちている。

 それは、どういう状態なのか。


「困っている、というのとも違くて。なんか、もやっとする、みたいな感じで」

「もやっと」

「はい。でも、困るほどではないというか。生活には支障ないので」

「そうですか」


 ユウトは入力を続けた。

 もやっとする。困るほどではない。生活には支障がない。数値も、それを示している。指は止めなかった。

 それでも。


 引っかかりだけが、残っている。彼が吐露する言葉の意味を、数値は示していなかった。

「薄くて」という言葉と、「もやっとする」という言葉が、頭の中で並ぶ。


 並んで、意味を持ちかけて、そのまま、ほどけた。


「すみません。私自身がそういった経験がなく。生活に慣れ始めると、同時に過去の思い出が消えていくこともあります。メモを取る習慣をつけてみるなどどうでしょうか」

「メモ、ですか。確かに。最近はシステムが教えてくれるからとメモを取ってなかったかも。早速今日から試してみます」

「ええ。それと、次の面談は一ヶ月後になります。何か変化があればいつでも」

「はい、ありがとうございます」


 ドアが閉まった後、ユウトは報告書のフォームに向かった。


 業務適性:良好。生活スコア:安定。睡眠パターン:改善継続。夢の減少:確認済み。前回面談内容の想起:不完全。


「不完全」と打ち込んだところで、指がわずかに止まる。

 ――夢を見なくなりました。いいことですよね。

 ミナトの声が、遅れて重なる。それに「そう思います」と返した自分の声も。


 言えてしまった、と思う。


 あのとき、喉には何の違和感もなかった。いつもと同じ調子で、同じ言葉が出た。

 ——その「いつもと同じ」が、今になって引っかかる。


 三年間、繰り返してきた言葉だった。良い変化です。環境が安定したからだと思います。そう思います。


 どれも、正しかった。何十回と使ってきた言葉だった。

 ——そのはずだった。


 正しいことを言えた、なのに。


 今日は『言えてしまった』という感触があった。どこか引っかかりを覚えたのに、それでも言葉だけが先に滑っていった。

 指先に意識を戻す。入力欄には、当てはまる項目が見当たらない。少しだけ間を置いて、「問題なし」と打ち込む。


 確定のキーを押す感触だけが、やけに軽かった。あまりにも、軽かった。


 ――――――――――――――――――――


 気づけばアパートの前だった。帰り道の記憶が、ほとんどなかった。

 駅のホームで電車を待っていたこと、ドアが開いたこと、それだけはある。

 ただ、その間の空気の温度も、足の裏に伝わる路面の感触も、何も残っていなかった。


 ドアの前、鍵穴に差し込む手つきだけが、いつも通りだった。靴を揃える手つきも、妙に整っている。洗面台で流れる水の音に紛れ、さっきの言葉がまた浮かぶ。顔を上げると、鏡の中にいつも通りの自分がいる。


 少しも変わっていないはずの顔。それでも、どこを見ればいいのかわからなくなる。

 視線を外す。最後に夢を見たのはいつだったか。


 思い出そうとして、何も出てこない。一週間前か、一ヶ月前か、あるいはもっと前か。わからなかった。時間だけが、輪郭を持たないまま広がっている。


 わからない、ということだけが残る。


 誰かに言うべきかどうかを、一瞬だけ考えた。でも、相手の名前が出てこない。


 誰かに言った記憶があった。誰かが聞いてくれた記憶があった。その誰かの顔が、出てこなかった。

 遅れて、レナの名前が浮かぶが、泡沫のように消えていく。


 無意識に開いた冷蔵庫の冷気が意識を引き戻した。いつも通りの夜を過ごし、今日の業務スコアが更新されたことに気づく。+3という、目標通りの数値。


 ――■■■■。


 何かを思って――。


 ユウトは、端末を開いていた。

 開いた先は、業務スコアでも、報告書でもなかった。


 M-0047の記録を、開いていた。

 そこには、ミナトの名前が。今日の日付が。『問題なし』という記録が、あった。


 ——自分が、打ち込んだ言葉。


 ユウトは、画面を閉じられなかった。

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