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記録No6『怒るって、どんなだっけ』

 事務所に着いたのは午前九時ちょうどだった。エレベーターを降りると、廊下の突き当たりからコーヒーの匂いが漂ってくる。

 吸い込まれるように突き当たりを曲がり、その先――給湯室でレナがコーヒーを飲んでいた。


「おはようございます」

「おはよう。ユウトもコーヒー飲みに来たの?」

「ああいえ。匂いにつられてきました。それに多分レナがいるんじゃないかと思って」

「何それ、お世辞みたいになってるよ」


 コーヒーを置き、レナは思わずこぼれた笑みを指先でそっと押さえていた。喉奥からほどけるそれを聞いて、ユウトは訂正をかける。


「いえ、そういうわけではなくてですね」

「はいはい、知ってるよ。コーヒー、砂糖2個とミルク1個だっけ?」

「あ、はい。すみません、ありがとうございます」


 レナは小さく肩をすくめると、まだ残る笑みを引きずるようにポットに手を伸ばした。傾けられた先から細い湯の筋がカップへと落ちていき、コーヒーの匂いがふわりとたちのぼる。手慣れた手つきで続けて、角砂糖をひとつ、ふたつと落としスプーンで静かにかき混ぜた。


「はい、どうぞ。今日は午後に面談一件。ミナトさんの一ヶ月だよね」


 差し出されたコーヒーをユウトが受け取るのを見届けてから、レナはそのまま業務の話に移った。


「はい」

「どうなってるの、あの人」

「数値は良好です。スコアも上がっています」

「そう、それは良かった」


 まだ湯気の残るカップに口につけながら、レナは呟くように言葉を返す。


「特に相談とかもない感じ?一応、向こうから連絡があれば対応はできるような仕組みにはなってるわけじゃない」

「そうですね、特に何も来ていません。まぁ、スコアを見る限りは順調なんじゃないでしょうか」


 ここでは契約者に明確な変化がない限り、こちらからどうこうすることはない。基本は契約者側からの申請に応じる形で対応し、それ以外は定期面談が主な接点となる。必要であれば例外的にこちらから働きかけることも可能だが、その必要がないことは数値が物語っていた。


「……気になるんですか?ミナトさんのこと。知人とか、そういう訳では」

「いや、知人って訳じゃないよ。シンプルにこれまで契約してこなかった人が契約したってことで、問題はないのかなーっていうやつ。老婆心とかって思ってくれたらいいよ」

「そうですか。まぁ、今日の面談で質問はないか聞いてみますよ」


 まだ若いだろうというツッコミ待ちのボケをスルーして、ユウトはミナトのことを考える。データとしても特に問題はない。むしろ順応は早い部類で、与えられた環境に素直に適応できているように見えた。


 そうした点は、ミナト本人の資質によるものだろう、と結論づける。


「そうね。業績は大事だし。ユウトがしっかりしてるとこっちも安心だよ」

「はい、善処します」

「ん、流石」


 レナは満足したように頷き、カップを手にそのまま給湯室を出ていった。

 ユウトはレナの淹れてくれたコーヒーを飲みながら、もう暫く給湯室内にいることにした。今日も滞りなく進むであろうと予見し、その気持ちをコーヒーごと胃に流し込む。


 ――そういえばこれまでも自分から面談を取り付けることはなかったな。


 ふと浮かんだ考えは、次の瞬間、端末の振動に遮られる。

 午前中の案件に関する通知だった。画面を開くと同時に先ほどの思考は途切れ、そのまま意識の外へと流れていった。


 ――――――――――――――――――――


 定期面談の予約は、午後三時に入っていた。

 ユウトは十分前に部屋に入り、PCで最後の確認をする。


 M-0047、ミナトのデータの確認だ。契約から一ヶ月。職場の出勤率は百パーセント。業務評価は良好。健康スコアは契約時の七十二パーセントから八十一パーセントに上昇。居住状況の申告も適切に更新されており、定期報告には「問題なし」が続く。


 機構のシステム上は、どの指標を見ても成功を記していた。


 ――三十二人目。


 ユウトはその数だけを短く意識して、PCを閉じた。


 三時ちょうど、時間通りのノックに応じる。


「どうぞ」


 扉が開き、ミナトが入ってくる。その一歩目で、ユウトは前回との違いを認識した。靴底の擦り減りようは変わっていない。だが、踏み出し方が違う。踵から迷いなく床を捉えている。一ヶ月前は部屋に入るまで少し間があったのに、今日は間がない。おどおどとした態度ではないのは一目で明らかだった。

 目線も変わっていた。一ヶ月前は室内をいくつか見渡してからユウトに視線を向けていたが、今日は入室と同時にこちらを捉えている。まっすぐとした瞳には迷いがなく、ユウトはその瞳に応じてから、軽く席へと視線で促した。


「お久しぶりです」

「そうですね。一ヶ月ぶりです。座ってください、最近はどうですか。随分と、落ち着いた雰囲気になったように感じられますが」


 ミナトは促されるままに座った。膝の上に置いた指先は、今日は動いていなかった。


「おかげさまで、だいぶ落ち着いてきました」


 穏やかな調子で、ミナトは話し始める。職場の様子、同僚のこと、通勤のルーティンが決まってきたこと。話しながら笑うことがあった。一ヶ月前は笑う余裕すらなさそうだった彼は、自然な笑みでこれまでのことを話している。

 ユウトはそれを聞きながら、順調だな、と判断する。


「全体的に安定しています。業務の方はどうですか」

「思ったより、慣れました。ミスもまだありますけど、画面が教えてくれたり、隣の席の……オカダさんと言うのですが、その方がフォローしてくれるので」

「隣の人が親切な方で良かったですね。それでは職場の人間関係の方も問題はなく?」

「はい、良い人たちです。昼食も一緒に食べることが多くて」

「それは良かったです」


 ユウトはタブレットを傾けてミナトに画面を見せる。この一ヶ月のデータが並んでいた。健康スコアの推移、業務適性スコアの変化、睡眠パターンの安定化。いずれも良好な数値を示している。


「生活面は」

「新しい部屋、住みやすいです。朝の通知も来るので、あまり迷わないというか。前は道、よく間違えてたんですよね」

「食事は取れていますか」

「取れています。冷蔵庫に食材があるので」

「朝食の提案も来ていますか」

「来てます。最初は少し不思議な感じがしましたけど、今は普通に使ってて」


 ミナトはそう言って、わずかに笑った。


「なんか、考えなくていいのが楽で」


 考えなくていいのが楽。確かに、機構のサポートは手厚く、おおよそそれに従っていれば間違いはないので言いえて妙かもしれない。


「困っていることは」

「特には」


 返答はすぐに来た。

 だが、その直後にわずかな空白が残った。


「何か聞きたいことはありますか」

「えっと」


 ミナトは少し止まった。何かを言いかけて、口が止まる。

 形だけ開いた唇が、一度閉じられ、わずかに息を吸い直した。


「契約書に、情報フィルタリングって書いてあったんですけど」

「はい」

「それって、どういう意味ですか」


 ユウトは端末から視線を上げ、そのままミナトの目に合わせた。


「意図としては生活最適化のための情報整理です。不要なノイズを減らすための仕組みと言えばよいでしょうか」

「ノイズ」

「日常生活に必要のない情報を、システムが整理します。本人への負担を減らすためのものとして作成されたと私の方では認識していますね」

「たとえば、どういう情報ですか」


 ミナトの掌が机の上に乗る。わずかに前のめりになった姿勢を見て、ユウトは少し間を置いた。


「たとえば――過度なストレスになりうる情報、判断の妨げになる情報、そういったものですね。これらは特定の条件下というわけではなく、当人ごとによってフィルタリングになるものが変わります。私としても、正確な数値としては出せませんが」


 言いながら、ユウトは自分がどこまで知っているか、自分の知識の範囲をなぞった。マニュアルに記載された公開層の内容。その焼き直しに過ぎない。


「調整区分詳細」


 グレーアウトされた項目が一瞬よぎる。

 その先に何があるのかを、ユウトは知らない。


「……回答になっていませんね。申し訳ございません。必要があれば他の者

 に伺い、後日回答もできますが」

「いえ、大丈夫です。なんとなくわかりました」


 ミナトは手で抑止のポーズをとって、この会話の終わりをユウトに伝える。その代わり次に提示されたのは別の話題だ。


「あの、もう一つ聞いていいですか」

「どうぞ。私の知る限りのことをお伝えします」

「いえ。僕自身のことで。その、最近、怒れなくなったんですよね」


 ユウトの指が、タブレットの上で止まった。


「怒れない、というのは」

「前は、しょっちゅう何かに苛立っていたんです。前の職場でも、自分の思い通りにいかないことがあるたびに、胸の奥が熱くなる感じがあって。でも今はそれがなくて。良いことなのかなとは思うんですけど、なんか」


 ミナトは少し首を傾けた。言葉を探すような仕草だった。


「なんか、違う気もして」


 ユウトはタブレットを置いた。置いて、ミナトの方に向き直った。


「なんか違う……。それは、どういった意味での?」


 面談では時々こういうことがある。言葉にしたいのに、形が見つからない。

 そういうときは、少し待つ方がいい。それはユウトが三年間で覚えたことだった。


 ミナトの首がさらに傾く。指先が顎に触れ、空に浮かぶ言葉を掴むように――


「うまく言えないんですけど、怒らなくていい状況になったから怒らなくなったのか、そもそも怒れなくなったのか、その二つの違いがよくわからなくて。結果は同じなんですけど、なんか、違う気がして」


 部屋の隅に目が飛んでいたミナトの瞳が、静かにユウトの方に向く。


「怒るって、どんなだっけって思い始めちゃったんですよね」


 ユウトはそれを聞いて、何かを言おうとした。

 言おうとして、止まった。


 言葉が出てこなかったのではなかった。言える言葉はいくつかあった。「環境が安定したからだと思います」「それは良い変化です」「慣れてきた証拠ではないでしょうか」そういう言葉は出てきた。

 ただ、どれも正確ではない気がした。


 ——怒るって、どんなだっけ。


 ミナトの言葉が、反響する。

 正確ではない、というのが何を意味するのかを、ユウトはその場で考えようとした。環境が安定したから怒りが減った、という説明は、一つの正しい説明だった。ただそれが全部なのか。

 ユウトは自分の過去を思い返す。怒ったことは、あったはずだ。出来事としては覚えている。


 そして気づく。それを思い出しても、「あ、そういうことがあったな」という感触しかないことに。


 ——自分も、同じかもしれない。


 その考えが脳内を一周し、同時に思考を止めた。仕事の場でする考えではない。今は面談中で、ミナトが答えを待っている。


「怒りが少なくなるのは、精神的に安定してきた証拠だと思います」


 ユウトは言葉を続ける。少しだけ早口になって。


「環境が変わって、余裕ができたということではないでしょうか。実際、業務でも余裕があるようにデータでは見て取れます」

「そうですね。時間的にも精神的にも余裕ができました」

「怒りの原動力が弱くなれば、必然的に怒りの感情は沸きにくくなります。前までの生活との違いから、違和を感じているのかと思われますが……」

「……そうですよね」


 ミナトは目線を少し下、ユウトの胸元かあるいは画面か、いずれかに向ける。


「――そう思いたいですよね」


 ユウトは少しの間、その言葉を聞いていた。返す言葉を探したが、ミナトはもう視線を下に落としていた。

 続きを待っているのではなく、自分の中で何かを収めようとしている顔だった。


 そう思いたい、それは誰に向けて言った言葉だったのだろうか。対象はユウトだったか。あるいは――。

 ミナトはそれ以上そのことには触れなかった。ユウトから切り出すこともなく、話題は次に移っていく。


「次の面談は二ヶ月後になります。何か変化があればいつでも連絡してください」

「はい」

「今日はありがとうございました」


 ミナトは立ち上がる。踵を返し、背筋を伸ばしたまま帰ろうとして――ドアの前で一度だけ振り返った。


「あの」

「はい」

「聞けて、よかったです」

「……何か、解決しましたか」


 ミナトは少し考えた。


「よくわからないですけど」と言った。「なんか、聞けてよかった気がして」


 ドアが閉まる。

 音だけが、少し遅れて残った。


 ユウトは机の前に残った。ドアの閉まる音は、もう残っていない。


 そのまま報告書のファイルを開き、相談内容の概要、変化の記録、次回面談の予定へと視線を滑らせる。事務的な作業は指が迷いなく動く。内容をなぞるより先に、項目が埋まっていった。


 業務適性:良好。

 生活スコア:安定。


 相談内容:情報フィルタリングについての質問。

 怒りの変化についての感想。


 対応:公開層の範囲内で説明。


 一瞬だけ、指が止まる。


 ——怒るって、どんなだっけ。


 ミナトの言葉が、報告書の入力欄の上に重なった。

 自分には、答えられなかった。答えるための言葉は持っていた。でも正確な言葉は、持っていなかった。違和という澱は、やはり今も残っている。

 だが、ユウトはそれを飲み込み、「問題なし」と打ち込んだ。飲み込んだ澱は、無味無臭だった。


 送信。ほどなく受理通知が返る。M-0047、処理完了。


 席を立ち、上着を手に取る。

 廊下に出たところで、レナとすれ違った。


「お疲れ」

「お疲れさまです」


 レナは一度、言葉を出しかけて飲み込む。気のせいかもしれない。


「面談、どうだった」

「うまくいっています。スコアも上がって」

「そう」


 わずかな間。


「それは良かった」


 それだけを残して、レナは歩いていく。


 到着音――扉が開く。乗り込んで、ボタンを押した。閉まりかけたドアの隙間から、廊下を少しだけ振り返ると、レナの背中が給湯室の角へと消えていくところだった。


 外の空気は昨日と打って変わって冷たく、頬を突き刺す風にユウトは思わず歩調を速める。


 歩道を覆う等間隔の光と対象に、ユウトの心には、筆舌しがたい翳りが残っていた。

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