記録No.5『無音のサイレン』
ユウトが家を出たのは八時二十分。雲一つない晴れた朝だった。
端末が最適な出発時刻を通知してきたのは、その十分前。「現在の交通状況から、八時二十分出発を推奨します」という文字を、ユウトは確認してから閉じた。到着したい時間、進行ルート等を事前入力しておけば毎朝来る通知で、いつもその通りに準備して家を出る。言われた通りに進んで、失敗したことはなかった。
自宅から駅までの道は十二分程だ。端末が言う通りの時間に家を出れば、人混みに揉まれてペースが遅くなったり、工事などで急な進行変更を余儀なくされ、遅刻してしまうということはなくなる。
朝のコア地区は、いつも同じ顔をしていた。信号が変わるたびに、前を歩く人々が一斉に止まり、また一斉に動くのだ。誰も急いでいなかった。誰も遅れていなかった。ユウトはその流れの中で、同じペースで歩いていた。
改札を抜けたところで、端末が一度振動した。
「今日の業務スコア目標:+3」
通知の続きには、目標を達成するための方法や、やることリストのようなものが並べられている。ユウトは画面を見て、閉じた。特に感想はない。+3という目標スコアが高いのか低いのか特にわからないまま三年間過ごしてきた。ただ、この目標通り、もしくはそれ以上を達成すれば、自然とタスクもこなし、社内での成績も上がっていった。
今日どうすれば達成できるのか、何をしたらいいのかを考える必要がなく、通知に従い、それに達成できていればまた達成報告の通知が来る。達成できなければ、また別の通知が来るだけで、皆、それに従うことを良しとしていた。
ユウトも、その一人だ。
ホームで電車を待っていると、隣に立った男性が端末を開いていた。少し離れた場所にいた女性も端末を開いている。信号待ちのように、同じタイミングで開き、何かを確認したのかまた画面を閉じる。いつもと変わらない日常風景。
でも、この前の違和は、ユウトの心の中にまとわり続けていた。それを拭うように、ユウトはイヤホンを指した。お気に入りの音楽が流れ始め、外界の音が、シャットアウトされる。
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事務所に着いたのは午前九時ちょうどで、エレベーターを降りると廊下の突き当たりからコーヒーの匂いがした。
立ち寄ると、いつものように、給湯室でレナがポットを傾けていた。
「おはようございます」
「おはよう、ユウト」
レナはポットを置いて、ユウトの方を見る。名前を呼ばれ、レナの顔を見ると、何か続きがあるのか、レナの口が少しだけ開いていることに気づいた。
何かを言おうとしているのだろうかと続きを待つ。しかし、レナの口は開きかけて、止まった。止まったまま、カップに目を落とした。
「今日、午後に二件入ってる。どちらもセミ地区から」
「見ました」
「まぁ、セミ地区からの件って最近どこも似てきてるらしくて、心配はしてないんだけどね」
「かなりの頻度で来ているから、頑張ってねとかそう言った労いの意味ですか?」
「あぁ……そう。そういう感じ。業務をぜんぶ見切れないからさ。大丈夫かな〜頑張って欲しいな〜ってやつだよ」
ユウトの解釈に、レナは同意とも取れない曖昧な返しをする。
「とりあえず、頑張って。私別の作業朝イチでしなきゃだから、またね」
それだけ言って、レナは先に給湯室を出た。
ユウトは自分のコーヒーを淹れながら、今しがたのレナの動作を頭の中で一度だけ繰り返した。何かを言おうとしていたとは、思う。その内容を聞けばよかったのかもしれない。ただ、聞けなかったのは、その時のレナの表情が一瞬翳りを見せていて、言わないという選択をとったレナの行動を奪うような気がしたからだった。きっとレナなら、自分から言いたいことは言ってくれるはずだろう。
コーヒーを持って席に向かう廊下で、ユウトは一人納得する。歩幅に合わせて揺れるコーヒーは、まだ熱を帯びていた。
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午前中の二件は問題なく終わった。
一時半の案件は三十代の男性だった。セミ地区在住で、職歴が途切れがちで、家族の状況から早めに安定収入が必要な状態だった。数値の並びを見た瞬間に、ユウトが提案する内容の答えは出ていた。
それでも、ユウトは三十分かけて話を聞いた。男性は最初、端末を膝の上でいじりながら話した。途中から端末を鞄にしまって、ユウトの方を見て話した。その変化を、ユウトは見ていた。見ていて、彼が何に食いついたのか、冷静に分析をしていた。
選択肢は三つ並べた。男性は一つ目を聞いたあたりで、それしかないと言った顔をしていた。それでもユウトは三つ全部を説明する。男性は最初と打って変わって丁寧に聞くようになっており、最後には「やっぱり安定契約で」と言って書類にサインを始めた。
手続きが終われば、男性は「ありがとうございます」と言って握手を求めてきた。
「良かった」と、ユウトは握手に応じる。少なくとも、目の前の彼は笑顔だった。
三時の案件は二十代後半の女性で、両親がすでに契約者だった。本人も同じ選択を希望していた。こちらは話を始める前から答えが決まっていて、面談は三十分もかからず終わった。
どちらも、終わってみれば普通だった。特に何か障壁があったわけでもない。何の齟齬もなく、話し合いは終了したため、ユウトは安堵しながら体を伸ばす。
昼食はレナと二人でいつもの定食屋だ。混んでいたが、いつもの席が空いていたため、日替わりを頼んで、少し待つ事にする。
席について軽くレナと談笑している手前、斜め後ろのテーブルから、声が聞こえてきた。入職したばかりらしい若い男性が、隣の先輩らしき人物に話しかけている。袖口はまだ新品の色をしていた。
「この仕事してて、良かったと思うことってありますか」
先輩は少し笑った。「あるよ」と言った。
「何ですか」
「感謝されるとき。サインしてよかったって、後から言ってくれる人がいる」
「それで十分なんですか」
「十分だよ。他に何がいる」
ユウトはその会話を聞いていた。聞きながら、日替わりと一緒に咀嚼する。
十分だ、と思った。十分だろう、と。
提案し、顧客が笑顔でいてくれる。ユウトも感謝をされて、それを喜びにこの三年間頑張ってきたはずだ。そう、咀嚼し続けようとして、変な感触に顔を顰める。唐揚げが、ゴリゴリと異常に硬い箇所があり、不快感と共に口の中に押し寄せてきていた。硬くて、噛めない。十分だ、という言葉も、そこで一緒に止まった。
ここは食べれないなと悩んでいるユウトをよそに、レナはユウトに尋ねる。
「最近、どう?」
「最近……って、どういう」
「業務でも、私生活でも」
なんて事のない会話のように、レナは唐揚げを頬張りながら続ける。どうやら彼女の方は特に硬い部分はないようで、何度か噛み締めた後、飲み込んでいた。
「あえていうなら、普通です。毎日、嫌なことも特になく、契約も取れているので」
「そう」
つまらない回答だったろうか。特にレナはそこに対して返答しない。
「ユウトって、昔自分がどんな人だったか覚えてる?」
唐突だった。あまりに唐突で、ユウトは答えを用意していない。反射的に、
「普通だったと思います」
と答えた。
「普通」とレナは繰り返した。
「普通、普通ねぇ……それ、今と同じ?」
笑う彼女に、ユウトはひっかかりを覚えた。心の底から、ユウトの回答に笑っている様子はなく、答えを知っていて、それを確かめるために聞いた人の顔に見えた。笑い方というより、笑った後の顔の落ち着き方が、そういう感じだった。
「変な質問だった?」
「いや……えーと、何故、そんなことを聞いたんですか?」
「なんとなく。昔のこと、そんなしっかり言えるんだなぁって」とレナは言って、スープを飲んだ。
「自分のことって、あんまりはっきり言えなくない?普通だったって言えるだけでも、結構すごいことだと思うけど」
回答を求めないようなつぶやきをして、レナは来週の研修の日程の話をし始めた。それにはユウトも自然と答えられる。
ユウトは今のやり取りを少しだけ反芻した。昔どんな人だったか、という質問の意味を考えようとして、うまく考えられなかった。
普通だった、と反射的には答えた。
記憶もある。学生の頃のこと、この仕事を始めたばかりの頃のこと。出来事としては覚えている。どこに行って、何をして、誰と話したか。それも出てくる。
ただ、その時に感じていたはずの感情が、どこにもなかった事に遅れて気づいた。
出来事は覚えているのに、感情だけがない。怒ったことも、悲しかったことも、出来事としては覚えているのだが、その時の感触が、今から振り返ると薄かった。
薄い、というより、ない、に近い。おかしい、と思った。だが、思って、その『おかしい』もどこかひとごとのような感触があった。
黙々と、考えながら食べ続けるユウトはレナの視線に気づかない。しばらくして、レナが「魚、今日はちょっと味が濃いね」と言った。
「そうですか」
「うん。まだ食べてないでしょ?ユウト」
言われて、魚を一口食べた。確かに少し塩が強かった。味が濃くて、なかなか箸が進まないそれを、ユウトは水と一緒に流し込んだ。
食事が終わって、二人で事務所に戻る道を歩いた。レナはユウトの少し先を歩いていて、揺れるポニーテールに自然と視線が奪われていた。
だから、振り返るレナの視線と、ユウトの視線がバッチリとあったのだ。目が合った。
——なぜ今、この顔をしているのか。
答えは出なかった。出す前に、レナが笑った。
「何?バッチリ目が合うじゃん」
「いや、たまたまです」
「えー?そうなの?」
ケラケラと笑う彼女に、ユウトは視線を下に向けた。何となく考え事をしていて、その対象がレナで。レナのことを考えてましたと言ってみたとする。余計に変な拗れ方をしてしまうだろう。何も言えなかったのではなく、言えばもっと変なことになる、という計算だけが先に来た。
「あのさ、ユウトは第3条項、読んだことある?」
「一応、契約書の中に記載されたこととは認識してますが……どういう」
「なんか、別の部署の人がそれについて話してるのがたまたま聞こえてきたんだよね。詳細はわかんないけど、なんか不備とかあったのかなと思って」
レナはそれだけ言って、また前を向いて歩き始めた。
――第3条項。契約書の中にある項目だ。確か、運用上の調整項目という説明があった気がする。感情適正化プログラム、とも記載されていたはずだ。詳細は非公開層に分類されており、担当者には開示されない。それに、何のための調整か、それによってどうなるのかという詳細は事は特に聞いた記憶がなかった。
なぜレナは、そんなことを聞きにきたのだろうか。その内容を考えようとして、事務所のドアが開いた。
レナは特に何も言わない。自分の席について、PCを開いて作業を開始する。であれば、ユウト側からアクションをかけることもない。ユウトは自分の報告書に向かった。
報告書を入力中、ユウトは今日の業務スコアを確認した。目標は+3だったが、結果は+4だった。
ただ、その詳細。何が良かったのかは把握しきれなかった。記載には報告内容や面談内容と記載されているものの、これはどこからの相対評価なのか。
考えてみたら、ユウトは何も知らなかった。
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退勤してアパートに向かう電車の中で、ユウトは自分の端末を開いた。開いた内容は、自分の契約プロフィールについてだ。
名前、年齢、契約区分、業務適合型SAFE。自分について入力した内容について、ユウトはこらまで特に気にしていなかった。しかし、報告書を書いていた時に感じた、自分の無知さから、今日初めて、しっかりとプロフィールから確認しようと思ったのだ。
意外とかなりのボリュームがある。ユウトは画面をスクロールしながら、契約日、更新履歴、スコアの推移。それぞれが数値として並んでいるのを確認していく。
――そこで。
途中。かなり長いなと雑なスクロールになっていたところで、ユウトはストップをかけた。
何故なら、プロフィールの一部に、グレーアウトされたフィールドがあったからだ。
項目名だけは読める。
「調整区分詳細」
ただ、その下の内容がグレーアウトされていた。タップをしても反応しない。もう一度タップしても、やはり反応がなかった。
「なんだ、これ」
三年間の中で、このプロフィールを正確に確認したのはいつだったか。記憶がない。だから、このフィールドがいつからあったのか、わからなかった。最初からあったのかもしれない。今日初めて追加されたのかもしれない。確かめる方法がなかった。それに、権限不足、という表示すら出なかった。
電車が駅に着く。ユウトは電車から出るために端末を閉じた。
こんなこと、三年間、一度も気にしなかった。
——なぜ今日、気になったのか。
三年間、一度も確認しなかった。「調整区分詳細」が何を意味するのかも、自分に何が適用されているのかも。入職したときは、何かを信じていた気がした。何を信じていたのかも、今は出てこない。出てこない、ということだけが残っている。
三年間で、何かが変わったのか。それとも、最初からこうだったのか。
その問いの答えが来る前に、改札を抜けた。
何も、わからない。ユウトの中に、何かが落ちた気がした。ただ、その音は、無音だった。




