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記録No.4『慣れる、ということ』

 翌朝、二日目の午前中に、ミナトは最初のミスをした。

 ミスにすぐ気づけたのは、画面に赤い線が引かれていたからだ。入力欄のひとつが赤くなっている。右側に修正候補が三つ並んでいて、一番上を選ぶと赤線が消えた。

 隣の席の女性は、自分のモニターを見ていた。向こうの席の男性も、電話をしていた。誰もミナトの画面を見ていなかった。入りたての新人に対して、研修という工数を浪費せず済むのは、この画面による恩恵が大きい。

 システムが教えてくれて、ミナトが直して、それで終わる。前の会社でミスをしたときは、胃のあたりが少し重くなった。怒られることが当然で、ミスをしない様にと心がけると逆に別のミスをしてしまうという悪循環は嫌な思い出だ。

 ただ、今はそれがなかった。新人だからと気を使ってくれているのだろうか。積極的な会話もないが、かと言って隅に追いやられてる感覚もない。前にいた会社との環境の違いは感じるものの、それが居心地悪いとは思えなかった。


 三日目、なんと同じ欄に赤線が出た。ミナトは少しだけ手を止めた。二日続けて、同じ場所だった。修正候補を選んで、消す。


 四日目も出た。

 キーボードの上に指を置いたまま、ミナトはその欄を見た。数字が並んでいただけで、特に難しい箇所ではなかったはずだ。それなのに三日連続で、ここを間違えていた。画面は正しい答えを教えてくれるが、なぜ間違えたかは出てこない。ミナトは足場が崩れる感じがした。


 ——なぜ、ここだけ。


 答えは来なかった。指先だけが、それでもキーボードの縁でわずかに止まっていた。


 隣の女性が、ミナトの手が止まっていることに気づいたのか、ふと顔を上げる。


「どうかしました?」

「あ、いえ」とミナトは言った。「同じところを三回間違えてて」

「ああ、そこですか」


 画面をちらりと見て、女性は身を乗り出すでもなく、また自分のモニターに視線を戻した。


「最初みんな間違えますよ、そこ。並び方が直感と逆なんで。段々そう言ったミスも減っていくので、私たちもそこまで敏感にならないんです。ほら、画面が間違いをちゃんと教えてくれるんですから」

「皆さん同じ所を間違えちゃうんですか?」

「同じ所というとちょっと違いますが……私も入力作業に関してはミスをしましたよ。確か五回くらいだったかな」


 ミナトの疑問に、女性は指を折りながら答えてくれた。首を捻る回数が極端に少ない彼女でも、初期にはミスをしていたのか。それに安堵を覚えつつ、ミスが減っていく様については思わず心境を吐露してしまう。


「慣れたら間違えなくなりますか」

「慣れたら間違えなくなります」


 それだけだった。女性は作業に戻った。

 ミナトは少しだけ画面を見た。「慣れた」と呼べる状態がなんなのか分からなかったからだ。自分はミスをしていないつもりが、ミスをしている。しかも同じ箇所を。

 だが、その心配は杞憂に終わった。


 五日目は赤線が出なかった。

 赤線がない画面を、ミナトは少しだけじっと見た。正しかった。何か感じるかと思ったが、特に何も感傷はない。——良かった、という感触に触れようとして、触れる前に次の項目が来た。


 午後、画面の右上に小さな通知が出た。


 『業務適性スコア更新:+2』


 ミナトは一度見て、閉じた。何が上がったのかは書いていなかったからだ。そのままミナトは午後の作業に進むことにした。赤線が出なかった理由も、画面は教えてはくれなかった。


 ――――――――――――――――――――


 ユウトは、週明けの午前中にシステム担当へ問い合わせを入れていた。


 「M-0047の通知に、照合済みという表示が出たんですが、これは何ですか」


 返答は、その日の夕方に来た。


 『ご確認ありがとうございます。該当の表示は、複数部署間でのデータ共有に伴う自動照合の結果です。システム上の正常な動作です。ご不明な点があれば改めてご連絡ください』


 返答は端的で、正常な動作と記載されていた。


 正常な動作であり、複数部署間での、データ共有であると。


 ユウトはこの文章が、肝心なことは何一つ書かれていないことに気づいた。この動作が何の部署で、何のためにデータ共有されるのか、返答には書いていない。


 返答に対する感情は、納得と不安とが入り混じり、煙のように混ざり合って外へと漏れ出て行った。


 ――――――――――――――――――――


 二週間目の水曜日、会社の最寄り駅を降りて歩き始めたところで、ミナトは端末を開いていないことに気づいた。

 いつもなら改札を出た瞬間に地図を起動する。それが習慣になっていたはずだった。なのに今日は、気づいたら二つ目の信号の前に立っていた。右に曲がって、少し歩いて、ビルが見えてくるところまで、端末を一度も見ていなかった。

 立ち止まって、少し後ろを振り返った。来た道は、確かにいつもの道だった。

 ミナトは極度の方向音痴だった。前の会社に通っていたときは、半年経っても時々迷った程だ。物覚えも悪いのか、普通の人なら間違えないだろう道でも間違える。昔は三つ目の交差点と四つ目を間違えて、知らない路地に入ったことがあった。確かあの朝は七分遅刻したはずだ。かなり怒られて、昼食の味がしなかったのも懐かしい。

 なぜここは、そうならなかったのか。

 ミナトは端末を取り出して、地図を開いた。現在地が表示され、会社まで残り二分と出ている。いつもの道と同じである何よりの証拠だ。

 覚えた、というより、体が先に知っていた感じがした。砂が水を吸うように、ではなかった。気づいたら知っていた、という感じだった。端末を閉じる前に、画面の端に『来訪記録:更新済み』という表示が出ていた。いつから出ていたのかは、わからなかった。わからないまま、ビルの入口に着いた。


 三週間が経つころには、一日の流れに名前をつけられるようになっていた。

 朝の通知を確認するのが最初で、次にパソコンを起動して、タスクリストを開く。午前中に入力系の作業をこなして、昼に定食屋に行って、午後は書類の確認に移って、定時通知が出たら荷物をまとめる。それが毎日だった。

 隣の席の女性は、ミナトが質問するたびに、親切に答えてくれた。前の会社でそれをやると、相手の眉が少しだけ動いた。そういう細かいことを、ミナトは覚えていた。

 ある日の午前中、ミナトはわからないことが出て、隣の女性に聞いた。親切な彼女にしっかりと頭を下げたが、彼女は「いいですよ」と柔らかい表情で手を振って教えてくれた。午後にまた同じことがわからなくなって、もう一度聞いた。


「あ、さっきも聞きましたっけ」


 ミナトは喉奥が冷えていくのを感じた。

 しかし、隣の女性――オカダさんは眉を動かさず穏和な態度だ。


「大丈夫ですよ、そこわかりにくいですよね」


 今回はオカダさんは席を立ち、画面を指差しながら一つ一つ丁寧に教えてくれた。


「私も最初、同じこと三回聞きました」

「三回も」

「システムが変わる前の話なんですけど」とオカダさんは続ける。


「今はまあ、画面が教えてくれるので」


 それで会話は終わって、彼女は自分の作業に戻った。

 ありがとうございます、と言いながら、ミナトは少しだけ待った。続きがあるかもしれないと思ったからだ。でも続きはなかった。会話が終わった、という感じでもなく、ただ続かなかっただけだった。


 昼食は四人か五人で行くのが当たり前になっていた。


「昨日のあれ、見ました?」

「何ですか」

「駅のとこの、新しいやつ」

「ああ」と隣の女性が言った。


「あそこ変わりましたね」

「前の方が良かったな、個人的に」

「それはちょっと分かるかもです」と別の男性が言って、小さく笑った。

「俺は今の方が綺麗で好きですよ」

 向かいの男性も少しだけ笑った。

 ミナトも、つられるように口元が緩んだ。

 男性は定食の魚に箸を向けながら、「まあでも使いやすくなったのかな」と言った。


 それには誰も答えなかった。食事の音だけが続くが、そこに居心地の悪さはない。


 ミナトは味噌汁を飲みながら、前の会社の昼休みのことを少し思い出した。あの時は早く戻らないといけないという感覚がいつもあった。今はそれがなく、何かに急かされるわけでもない。安定という言葉がぴったりに感じた。


 その夜、シャワーを浴びながら、前の会社のことを少し考えた。

 上司の言い方を思い出してみた。会議で名指しで指摘されたこと、メールの返信が遅いと言われたこと、残業を頼まれて断れなかったこと。出来事としては覚えていた。順番に並べることもできた。


 ――ただ。


 ただ、それを思い出しても、何も来なかった。

 感情が、来なかった。

 あの会議の日、自分は怒っていたはずだった。家に帰ってから、一人でずっと反芻していた記憶がある。なのに今それを思い出しても、「あ、そういうことがあったな」という感触しかなかった。怒りの手触りが、どこにもなかったのだ。地図はあるのに、建物がない感じがした。

 シャワーの温度を少し上げた。お湯が肩に当たり、熱ッとあわてて温度を調整する。

 今度は別の記憶を引っ張り出してみた。二社目の最終日、挨拶もなく帰ったこと。あの時は悔しかったはずだ。言いたいことが山ほどあった。でも今それを思い出しても、出来事の輪郭だけがあって、感情の部分がなかった。

 環境が変わったから、とミナトは思った。嫌なことが減ったから、怒る理由もなくなった。随分と穏やかな性格になったのかもしれない。


 タオルを取りながら、鏡の中の自分の顔を見た。疲れのない穏やかな顔。良いことだと思った。思って、もう一度だけ鏡を見た。


「――――」


 穏やかな顔が、少しだけ知らない顔に見えた。


 ベッドに入って、天井を見上げた。

 前のアパートに住んでいたころ、朝に目が覚めると、何か重たいものが胸のあたりに残っていることがよくあった。夢の内容は覚えていなかったが、何かが続いている感じがした。引きずっている感じ、というのが一番近い。

 でも、今はそれがない。

 目が覚めると、何もない。昨日の続きがない。端末の通知音がして、すっきりした頭で画面を見る。それだけだ。

 熟睡できているから夢を見ていないのだろうか。ただ、良い夢も悪い夢もどちらも最近見れていないのは、少々味気なく感じる。

 眠る前に一度だけ、最後に夢を見たのはいつだったかを思い出そうとした。


「……あれ」


 思い出せなかった。一週間前か、二週間前か、あるいはもっと前か。わからなかった。

 前のアパートでは嫌な夢をよく見ていた。起きると頭が重たくて、気分の悪いまま準備をしていた。今はすっきりとした目覚めをしている。

 すっきりしている、ということの方が、正しい状態のはずだ。

 そう思ったのに、あの朝の重たさが何だったのかが気になった。何かがそこにあった。今はそれがない。

 ——薄くなっているのか、なくなっているのか。


 それすら、わからなかった。


 眠りかけたとき、端末が一度だけ光った。薄目で見て、それが何かの通知であることだけは読み取れた。しかし、内容を読む前に、画面が暗くなったので、詳細はわからない。


 かろうじて見えたのは、


 ——参照、低下、という単語だけだった。


 ――――――――――――――――――――


 四週間目の月曜日、職場の端末に通知が来た。


 『一ヶ月定期面談の日程調整について』


 ミナトは少しの間、画面を見た。面談。ユウトという名前が表示されていた。先生のことだ。

 何か聞こうとしていた気がした。

 部屋のことだったか。仕事のことだったか。端末の通知の話だったか。思い返そうとして、何も出てこなかった。契約した日の夜に、何かが気になっていた気がする。読んでいて引っかかった箇所があった気がする。

 そもそも何の書類に対して気になったんだったか。

 ミナトは端末を持ったまま、少しだけ考えた。となりの席で、キーボードの音がしていた。向こうで誰かが電話をしている声が聞こえた。


「どうかしました?」


 オカダさんが、またふと顔を上げた。


「いえ、面談の通知が来てて」

「ああ、一ヶ月のやつ」

「そうです」

「何か困ってることありましたか。それこそ、この仕事のこととか」

「いえ、特には。皆さん優しいですし、業務もミスが起きてもすぐ直せる様な環境になってて」

「……ただ、何か聞こうとしてたんですけど、それが何か思い出せないんですよね」


「まあ」とオカダさんは少し間を置いた。「行ったら思い出しますよ、たぶん」

「そういうもんですかね」

「そういうもんです。向こうも営業なので、ふわっとしたことでも伝えれば親身になって聞いてくれると思いますよ」


 それだけだった。彼女は自分の作業に戻った。


 視線を画面に戻す。画面は継続して「承認する」のボタンを映していた。


 やはり、内容は思い出せない。少しも出てこない。会えば何か思い出すだろうか。


 一抹の期待を指先に乗せて、ミナトはボタンをタップした。

 来週の水曜日、午後三時に設定された、という確認画面が出た。ミナトは「閉じる」をタップして、端末をテーブルに伏せて置く。


 次のタスクの対応だ。ミナトはそちらに向き直り、業務を再開した。

 面談のことは、テーブルの上に置かれたままになった。

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