記録No.3『侵食するはコーヒーの染み』
――その日の夕方――
マンションの入口で、ミナトは端末をかざした。
小さな音がして、マンションのドアが開く。ミナトが自宅の鍵を受け取ったのは夕方の五時過ぎだった。その時から同行してくれていた機構の担当者と一緒にエレベーターに乗り、三階の廊下を歩いて、部屋の前に着く。担当者は無機質な声で「何かあればこちらに」と端末に番号を送ってきて、「では、ゆっくり休んでください」と言って廊下を戻っていった。
「あ、ありがとうございましたっ!」
言い方が整いすぎていた。自分の様な人間を何度も相手にしてきたのだろう。慣れたその言い回しと、下手に距離を近づけようとしないその姿勢に、ミナトは冷たい人だなと思うどころかむしろ好感を持った。
担当者がエレベーターで降りていく所まで見送っても、ミナトはしばらく玄関に立ったままだった。
鍵は、手の中にある。少し強く握っていたのか、跡がついてしまったなと気づいたのは、開いた手のひらが一部赤くなっていたからだ。この鍵が自分のもので、この扉の向こうに自分のための部屋があって、今夜からそこに住む。その事実が、まだ体の中に収まっていなかった。六ヶ月間追い詰められてきたせいかもしれないし、今日一日が詰め込みすぎだったせいかもしれない。処理しきれない感情の置き場をどこにしたとしても、ミナトは中に入るしかなかった。
「えっと……ただいま?」
おずおずとした動きだったが、電気をつけ、視界に広がる景色にミナトは高揚感を覚えた。
白い壁、フローリングの床、揃いのトーンの家具。テーブルと椅子が二脚、ソファ、本棚、ベッドフレームにマットレス。全部が同じ色調でまとめられていた。誰かが考えてくれた部屋だということが、一目でわかった。ミナトが今まで住んできたどの場所よりも、広くて、きれいだった。
靴を脱いで、中に入った。いつもは靴を並べているはずが、この時は粗雑だった。
「食材もこんなに…………」
冷蔵庫を開けてみると、三日分くらいの食材が入っている。野菜、卵、豆腐、カット済みの鶏肉。それから、棚の端に缶コーヒーが三本並んでいた。ミナトはその缶を手に取って、ラベルを見た。
いつも飲んでいるブランドのものだった。前のアパートの近くのコンビニで毎朝買っていた、あのコーヒーだ。
好みを聞かれた記憶はなかった。書類に食の嗜好を書く欄はなかった。午後二時にサインをして、担当者に連れてこられて、冷蔵庫を開けたら、いつものコーヒーがあったのだ。
率直に、便利だと思った。これから食材を買ったり、慣れない新境地で勇み足にならないかと心配していたが、杞憂であり、一日の疲れを癒やす時間に当てることができるらしい。
缶を手に持ったまま、普段なら買わないであろう柔らかなソファに腰掛ける。
「わっ」
沈み込みが予想以上にあり、ミナトは喉の奥が小さく鳴った。誰もいないはずが気恥ずかしさを覚え、少しの間缶コーヒーを手で転がす。
「このコーヒー……」
まじまじと、見慣れた缶コーヒーを見ながら呟く。便利とは言ったものの、知らない間に把握されていた、という感触がゾワゾワと背中の上を歩いている感覚を持つ。それに、最低限の家具ではあるものの、まるで契約することがわかっていたかのように手際が良い。こういうものはたった一日で引っ越せるようなものなのだろうか。コア地区での経験がないミナトには判断がつかない。
缶を開けようとして、指に力を入れるのを止めた。
——昨日も、ここにあった気がする。
自分の感情に、自分で首を捻った。ここに来たのは今日が初めてだ。昨日はまだ、このマンションにいなかった。おかしな感想だなと、そう思う感情をコーヒーと一緒に飲み込む。いつもの味に、考えはそのまま溶けていった。
残るしこりを缶コーヒーごとテーブルの上に置いて、カバンから契約書のコピーを取り出した。重要なところはユウトが説明してくれていたから、全部は読んでいなかった。しかし、契約は契約だ。改めて内容に目を通しておこうと、契約書の一行目から読んでいく。
目を通していると、三つ目の段落に「運用上の調整項目」という見出しがあった。その下の一文にミナトの目が吸い込まれる。
「システムによる情報フィルタリングを含む」
情報フィルタリング、ミナトの目に留まったそれについて、ユウトは説明しなかった。泣いていたから聞けていなかったのかもしれない。
でも確か先生――ユウトさんは黙って続きを促してくれていたはず。それなら次の面談で確認すればいいだろうか。
ミナトが思案し、猫の絵が大々的に描かれたカレンダーに目を通す。次の面談は一ヶ月後だった。
「あぁ……やめておいた方が、先生的にも助かるよな。実は読んでませんでしたなんて困っちゃうだろうし」
法律的な文章ではよくある書き方なのだろうか。自分の無知を少し恥じつつ、それ以上掘り下げる理由がなかった。その他ひとしきり読んでも、分からない言葉がたくさんあるのだから仕方ない。
いつでも連絡して問題ないとユウトは言っていたが、昨日今日の出来事で、しかも書類に関して尋ねにいくのは憚られる。それなら、後でネットで検索でもすれば良い。
――そういえば。
視線の先、段ボールを一つだけ開けた。荷物はほとんど前のアパートに置いてきていたのだが、一部はこのように郵送され、段ボールの中に眠っている。
荷物を選ぶ際、窓際に置いていた観葉植物が目に付いたことを思い出す。小さな鉢植えで、枯れかけていたのだ。原因は単純――水をやり忘れていた期間が長すぎたせいだった。
六ヶ月前まで、毎日水をやっていた。
最初の一ヶ月は、律儀に。二ヶ月目からは、時々忘れるようになった。三ヶ月目には、思い出したときだけになった。
——続けられない。
自分でもわかっていた。だから、最初から期待しないことにしていた。
どうせまた枯らすと思って。続けられないからと思って。
ゴミ袋に入れて、持ってこないことにしたのだ。その記憶が、ミナトの心に何か澱みとなって落ちていく。
ミナトが開いただけの段ボールを閉じるには十分な理由だった。
――――――――――――――――――――――――
翌朝、端末が七時ちょうどに鳴った。
アラームではなく、通知だった。ミナトはこれまで経験したことのない柔らかなベッドに身を包まれていたからか、すっきりとした顔つきで画面に目を向ける。
『おはようございます。本日の天気は晴れ、気温は十八度です。推奨する朝食メニューを確認しますか?』
推奨する朝食。昨日の夕方、冷蔵庫に食材が入っていたことを思い出した。野菜と卵と鶏肉。それを使えということだろうか。
「確認する」をタップすると、簡単なレシピが表示された。所要時間十五分、材料は全て冷蔵庫にある、と書いてあった。
見よう見まねで作って見る。端末には音声機能も備わっているらしく、ミナトがどこまで進んだか伝えると、続きを端末側も音声で表示してくれた、
出来上がったのは簡単な炒め物で、味は案外悪くなかった。
『本日の出勤ルートを確認しますか?電車の混雑状況から、推奨する出発時刻は八時三十分です』
会社までは二十分、乗り換え一回。地図付きで表示された画面をスクロールしてみる。前の会社に通っていたときより、ずいぶん近い。
「この時間なら余裕そうだな」
八時二十五分に家を出ることにした。駅のホームに着くと電車がちょうど来て、この端末の便利さを知る。通勤ラッシュ手前だったのか、昨日の午後電車に乗った時と比べ、人は少なかった。席には座れなかったものの、窮屈感はないので端末をいじりながら電車内を過ごすこととした。
会社の最寄り駅で降りて、端末の案内された通りに歩く。端末は地図を起動しており、方角含めて正確に伝えてくれるため道順には迷わなかった。前の職場に初めて行ったとき、一回道を間違えて遅刻しかけたことを思い出す。あの時は地図アプリを使っていたのだが、それでも間違えた。
今日は間違えなかった。まるで自分じゃないかのような順調さに、思わず高揚感を覚えた。
――――――――――――――――――――――
職場はコア地区の端にある小さなビルの中にあった。
受付で名前を告げると、担当者がすぐに出てきて、そのまま部屋へと案内される。案内された席に座ると、パソコンはすでにログイン画面になっていることに気づいた。
IDとパスワードが書かれた紙は机の上に置いてあり、書かれた通りにキーボードを叩いてみる。ログインすると、今日やるべき作業のリストが画面に表示された。データ入力、書類の仕分け、チェック作業。それぞれに所要時間の目安が書いてあった。
「わからないことがあれば、なんでも聞いてください」と担当者は言った。「まぁ、私に聞くより、システムが教えてくれると思いますがね」
「わ、わかりました」
そうはいったものの、完全にゼロの知識の人間がこの業務を誰にも聞かずにできるものなのか?一抹の不安を抱えながら、ミナトは椅子を引いた。
――――――――――――――――――――――
システムが補助してくれる、という言葉の意味が、午前中ほどなくして少しずつわかってきた。
まず、入力ミスをすると、赤い線が引かれて正しい候補が表示される仕組みになっている。作業の順番が非効率だと、推奨する順番に並べ直すボタンだって出てきた。業務だけでなく、休憩のタイミングになると、「休憩を取ることをお勧めします」という通知が出てくるので便利だという感想しか出てこない。ミナトはその通知が出るたびに席を立って、お茶を飲んだ。
後から知ったことだが、非効率だからと新人の自己紹介の場は設けられていないらしい。研修というものも特にはない。システムの補助により、ミナトの情報はある程度開示されているらしく、逆にミナトも最低限今日の業務をこなすための必要情報の開示からされていた。
要はだんだん覚えていくということなのだろう。
昼食は近くの定食屋に連れて行ってもらった。四人で座って、席が狭くて、肩が触れ合うくらいだった。誰かの笑える話に、ミナトもつられて笑った。久しぶりに笑った気がした。
午後の作業も画面の指示通りに進めた。わからないところは同僚に聞けたので安心する。同僚はすぐに答えてくれるし、今後疑問になりそうな所もまとめて教えてくれた。
前の職場では質問するのに少し勇気が必要だった。忙しそうな顔をしている人が多かったから。だが、ここは違った。みんな穏やかだった。
定時になると、「業務終了時刻です」という通知が出た。
皆が荷物をまとめ始める。残業というものもそんなにないのだろうか。残ろうとしている人物はほんの一握りなのが見て取れた。
「ミナトさん、初出勤お疲れ様でした。ゆっくりお休みになってくださいね」
上司の言葉を受け、ミナトは画面を閉じて荷物をまとめた。帰り道は来た道と同じで、迷わなかった。
――――――――――――――――――――――
家に着いて、鍵を開けて、中に入った。
ネクタイを緩めながら部屋の中に入ると、テーブルに置きっぱなしにしていた缶コーヒーの缶が目に入る。朝、飲まなかったやつだ。冷えていない、生ぬるくなっているだろう缶コーヒーを手に取って一口飲んでみる。
――うえ、生ぬるい。
でも、いつもの味がした。
その瞬間に、肩から何かが抜けた。その状態の名前を安心と呼ぶことに、ミナトは遅れて気づく。いつもの味、しかも少し生ぬるいという特典付きのそれに安心するというのはおかしな話だが。ミナトは、ほぅ、と息を吐いた。
広い浴室で、最初から安定したお湯の温度を提供してくれるシャワーに感謝しながら、今日の疲れを癒す。前のアパートはお湯の出が不安定で、冬は特に苦労した。それがあの地区では普通だった。暖かなお湯にしばらく浸かって、明日の準備をして、ベッドに入った。マットレスも枕も柔らかい。
天井を見上げながら、ミナトは今日のことをぼんやりと振り返った。朝の通知、レシピ通りの炒め物、迷わなかった道、画面に出る補助、穏やかな同僚、生ぬるいコーヒー。
――これでよかった。
自然と、目の奥が熱くなる。暖かな液体が、ミナトの顔に一筋の線となって流れ落ち、枕を濡らした。追い詰められていたのは確かで、出口を見つけられたのは確かで、新しい部屋にいて、明日も画面が教えてくれる。生活の質は、確実に良くなっている。
「これでよかったんだ」
今度は声に出してみた。静かな部屋に、自分の声が思ったより大きく響いた。
もう一度言おうとして、やめた。二回言うのは違う気がした。
眠れるかどうか少し不安だったものの、思ったより早く眠気が来たようだ。自然と、微睡に沈み込んでいく。
眠りにつく前に、情報フィルタリングという言葉が一度だけ浮かんだ。気になっているはずだった。
読んだとき、手が止まりかけた。あれは確かに引っかかりだったはずだ。だから今も気になっているはずだった。
——その気になっている感覚が、薄くなっている。
何だろう、と手放しかけた意識の中で疑問を浮かべる。
引っかかりの記憶だけがある。だが、引っかかりそのものは、どこにもなかった。思い出そうとすると輪郭だけがあって、中身に触れられない。
それを、変だと思うはずだった。
——その「変だ」という感覚も、薄い。
何を確認しようとしていたのかが出てこない。頭の中が透明ではなく、白くなっていくかのようで。諦めて、ミナトはそのまま目を閉じた。疲れも少したまってたのか、視界は海の底に似た何かへと落ちていく。
眠る直前、端末が一度だけ光った。画面には、小さな文字が映っている。
『処理:進行中』
——その言葉は、誰にも知られずひっそりと消えた。
※一部ログが欠損しています
※最適化処理:進行中
※本日の記録が自動保存されました




