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記録No.2『いつもの日常、素知らぬ顔で』

 翌日の午前、事務所はいつもより少し賑やかだった。


 朝のミーティングにあたって、部署全員が会議室に集まった。先週の数字が出たからだ。画面に並ぶグラフを見ながら、上司が淡々と説明した。

 

「先週の契約件数は週間目標比一〇八パーセント、先月からの三ヶ月定着率は九十一パーセントです。いずれも前週を上回っています」

 

 誰かが小さく「やっぱり」と言った。上司はそれに構わず続けた。

 

「セミ地区からの相談件数が先週比で増加傾向にあります。今週も同様の流れが続くと見ています。対応の優先度を上げてください」

 

 ミーティングが終わって、席に戻る廊下で、隣の部署の職員が話しているのが聞こえた。

 

「あの人、結局どうなったの。フリーゾーンから来てた」

「まだ検討中だけど、ほぼほぼ移行申請するだろうって。奥さんが先に契約してたから、その流れで」

「そっちの方が安定するよね、結果的に」

「まあ、代償はあるらしいけど」

 

 代償、という言葉のところで、声が少し下がった。それ以上は聞こえなかった。

 ユウトは自分の席について、PCを開いた。今日の午前の案件を確認した。午後に一件、昨日のミナトの手続きについて、書類による事後確認が入っている。特に問題はないはずだ。


 ――――――――――――――――――――

 

 昼前、レナが席を立ちながら言った。

 

「ランチ、今日はどこ行く」

「いつものところで」

「了解」

 

 にっと笑うレナの表情を見て、ユウトは少し早めの昼食にすることを決める。二人で定食屋に向かう道で、レナが少しだけ話した。

 

「昨日の件、順調に進んだみたいね」とレナは言った。

「引っ越しも終わったって、担当から連絡きてた」

 

 ユウトは頷いた。レナが担当から連絡を受けるのは普通のことだった。

 レナはユウトより二つ下だが、この会社では先輩にあたる。事務系の仕事はかなり手広く取り扱っている様で、引越し業務の連携もレナに行き届いているらしい。また、うちの会社はかなり大規模かつ慎重な取り扱いを意識している様で、基本部署間の情報共有は制限されているが、手続きの完了確認は別のルートで動く。そういう仕組みになっている。

 

 食堂は混んでいた。ただ、視線の先、いつもの席が空いていたのを見つけ、レナを誘導してそこに座った。選ぶのは日替わり定食。料理が来るまでの間、レナが会話を続ける。

 

「やっぱりセミ地区の件、多くなってるね。ここ最近」

「ミーティングでも出てましたね」

「何かあったのかな、向こうで」

「わからないです」


 興味がないと言わんばかりのユウトの態度に、レナはさらに会話を続ける。

 

「あんまり向こうとか行かない?」

「まぁ、業務上向かわなくても支障がないですし」

「フリーゾーンの方も?」

「そうですね。訪問する必要がこれまでなかったので」


 そこで食事が来て、会話は途切れる。レナは何か言いたそうだったが、ユウトが気づくことはなかった。


 食堂の中は賑やかだった。ただしばらく聞いていると、声の大きさが揃っていた。誰かが突出して大きくない。誰かが急に笑い転げるわけでもない。水面の波がどこも同じ高さに収まっているような、そういう均一さがあった。

 学生のころ、友人たちと昼食を食べたときの騒がしさを、少しだけ思い出そうとした。誰かが何かを言って、誰かが笑いすぎて、という輪郭だけがあった。内容が出てこなかった。

 良い環境だと思った。今の方が、集中できるから。


 ――――――――――――――――――――――――

 

 午後の書類確認は問題なく終わった。ミナトの手続きに不備はなかった。「完了」のスタンプを押して、ファイルを閉じる。

 報告書を送信して、デスクの上を片付けて、上着を手に取ったのは夕方だった。処理は全部終わっている。廊下に出ると、エレベーターの方からレナが歩いてきた。

 

「お疲れ」

「お疲れさまです」

「今日の手続きもうまくいった?」

「ええ、問題なく終わりました」

「ミナトさん、いい人生歩めるといいね」

 

 それだけなら和やかな会話だった。ユウトは半歩だけ、足を止める。レナの言葉は疑問形ではなく、確認でもなかった。ただ名前を置いた、という感じだった。

 だが、今回の相談者の名前をレナが言った事に、ユウトは一瞬首を捻る。話した記憶はない。昼に話したのはミナトの手続きの完了確認の件で、名前は出さなかった。

 

「あれ、話しましたっけ、名前」

 

 こちらを見るレナの返答は一拍置かれていた。


 「ああ、記録か〜何かの書類で見たのかも。ほら、先週、似たような案件があったから」

 「昨日の案件の記録は、事後承認前は部署をまたいで参照できないはずですが」

 

 レナは笑った。

 

「そうだっけ」


 それだけだった。それ以上は続かず、レナは口元に笑いを浮かべながら、給湯室の方に向かっていった。


 その様子をユウトは無言で見送り、暫く廊下に立っていた。誰もいないはずなのに、足音の残響だけが一定の間隔で続いていたのは、きっと空耳だろう。

 

 レナは仕事が丁寧な人だ。書類の角を必ず揃える癖があるし、誰かのミスも、面倒見がよいのか指摘する前に一度自分で整えてから渡す。それが、ユウトから見たレナという人物像だった。

 だから、混乱して別の案件の名前を口にすることが珍しく感じた。そんなことこの三年間で一度もなかった。

 「見れるよ」でも「知らない」でもなく、「そうだっけ」。

 疲れているのだろうか。明日彼女の好きな甘いものでも渡そう。ユウトは帰りにコンビニにでも寄ることを決め、事務所を出た。

 

 ――――――――――――――――――――

 

 外は昼と比べて涼しさを増し、太陽が顔を隠すこと夜になりかけていた。紫がかった空には数羽のカラスが鳴きながら向こうの山に向かって飛んでいる。

 等間隔に、整然と並ぶ街灯の光を浴びながら、ユウトはミナトのことを少し思い返した。ペンを持つ手が震えていたこと、声を殺した泣き方をしたこと、「本当に助かります」と言ったこと。「ここに来る人は、みんなそっちですよね」と言ったときの声のことも、少しだけ。そして、最後に「この仕事、好きですか」と聞いたこと。

 

 良かった、と思った。それは確かだった。ただその「良かった」の手触りが、昨日感じたものと今とで、少しだけ異なっていた。何が違うのかは、うまく説明できない。

 はしゃぎながら帰る子供たち。注目を浴びたいという意思が漏れ出るかのような音楽と共にある大型ビジョン。ふと、前を歩く人たちの歩幅が、妙に揃って見えるなと気にしていると、ポケットの中で端末が振動した。大方予想はつくが、立ち止まって画面を開く。予想通りの通知だった。

 

 『M-0047 手続き完了確認:受理済み』

 

 今日で三十二人目だ。今月に入ってから、という意味では少し多い。

 スクロールしようとして、止まった。

 通知の下に、小さな文字があった。普段は見た記憶がない文字だった。

 

 『照合済み 来訪記録:更新済み』

 

 ユウトはその文字を読んだ。読んでから、もう一度読んだ。一度目は、意味が入ってこなかったから。

 昨日は「来訪記録:確認」だった。今日は「来訪記録:更新済み」になっていた。

 更新された。ということは、昨日「確認」されたものが、今日「更新」されたということになる。

 

 ――記録が、積み重なっている。

 

 システムのエラーだろう、と再度ユウトは判断した。表示の不具合はたまにある。大きな問題ではない。

 ただ「照合済み」という言葉が、昨日と同じように、その判断に少しだけ抵抗した。

 

 明日、システム担当に確認しよう。

 

 もう一度画面を見て、端末をポケットに入れた。

 

 道中、「照合済み」という文字列がユウトの頭の上でスキップを踏んでいた。等間隔の街灯が後ろに流れ、前を行く人の後ろ姿が、一定のペースで遠ざかっていく。

 

 アパートに着いて、鍵を開けて中に入った。誰もいない部屋。丁寧に靴を揃え――今日初めて、自分の靴の底を確認した。

 擦り減っていた。少し。ミナトの靴底ほどではないが、擦り減っていた。

 いつからだったか、わからなかった。

 上着をハンガーにかける。洗面台で手を洗う自分の顔はいつも通りだ。

 

 冷蔵庫にある昨日の残り物を温め、テーブルで食べ始める。テレビはつけなかった。最近はテレビ番組もクイズなどが多くなり、あまりユウトの好みの番組が放送されなくなってきたからだ。

 その後の必要作業を終え、ベッドに横になる。

 照合済み、という文字が、瞼の裏の暗闇の中にうっすらと浮かんだ。

 エラーだ、そう決めたはずなのに、並ぶのは廊下でのレナの顔だった。笑いが浮かんで、すぐに引っ込んだあの顔。

 二つのことは関係ない。レナの件はレナの件で、端末の表示は端末の表示だ。ただ今夜に限って、その二つが同じ棚に並んでいる感触があった。

 何となく気になって、意識の中で棚の中身を確認しようとしてーー眠った。その必要はないと、どこかで判断したから。

 いつもより、眠るのに少し時間がかかった。

※本記録は自動保存されました

※次の記録へのアクセスが可能です

※途中離脱は推奨されていません


(第3話も本日投稿予定ですので、そのままゆっくりとお待ちください)

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