記録No.1『最適な人生を提案します』
『前回登録:M-0047 照合済み』
——その表示は、あり得ないはずだった。
M-0047は、今日初めて登録した番号だ。前回などない。照合される記録などない。なのに画面には「照合済み」とある。
貴方は、自分の見たはずのない記録を見たことがあるだろうか。
記録は常に正しい世界で、あり得ないと気づいてしまったのなら。
——物語は、その日の朝まで遡る必要がある。
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──同日、午前九時──
——以下は、市民生活向上機構が発行する「契約制度ガイド(一般向け)」の冒頭部分です。
あなたの人生を、最適化します。
現在、この社会には三つの生き方があります。
SAFE(安定契約)、FREE(自由契約)、そして契約なし。
どれを選ぶかは、あなたの自由です。
SAFE契約者には、就労支援・居住最適化・意思決定サポートが提供されます。
FREE契約者は、全ての判断を自分で行う代わりに、完全な自己責任が伴います。
契約をしない場合、機構のサービスは受けられません。また、就労にも一部制限が設けられます。
一度選んだら、変更には申請が必要です。
18歳になったら、選んでください。
あなたの答えを、待っています。
——機構 市民生活向上部門
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ユウトが事務所に着いたのは午前九時ちょうどで、エレベーターを降りると廊下の突き当たりからコーヒーの匂いがした。
匂いに引かれるように曲がった先、給湯室でレナがポットを傾けていた。ポニーテールが揺れて、こちらに気づく。
「おはようございます」
「おはようユウト。事務的報告だけど、今日は三件入ってる。最後の枠、セミ地区からの相談だって」
「見ました」
「最近セミ地区、多いね」
ユウトは頷くだけで、それに特に返事をしなかった。自分のコーヒーを淹れながら、今日のスケジュールを頭の中で確認する。午前中に二件、午後に一件。午後の最後の相談は二時を予定しているミナトという人物だ。
頭の中でこの後の行動を組み立てるユウトの横でレナは続ける。
「先月の定着率、出た?」
「まだです。月末に出るはずですが」
「うちの部署、今月調子いいと思うんだけど」
「そうですね」
契約件数は目標を超えていて、三ヶ月定着率も平均以上。特に問題はないだろうとユウトは気にしない。
「もー、声のトーンいつも低いなぁ。朝苦手なわけじゃないでしょ?」
「性格の問題です」
「えー、最初に来た時はまだ溌剌としてたと思うよ?」
ハツラツ、という自分に似合わないであろう表現に愛想笑いで返す。レナとは入社したての頃からの仲だが、果たして自分はそんな性格だったろうか。またレナの過剰表現かもしれない。
窓の外、コア地区の朝は整然としていた。通勤する人々の流れは、信号のたびに止まって、またすぐに動いた。一定のリズムで、一定のペースで。
今日の午後、セミ地区からくる彼はこの景色になじみがないだろう。緊張しないといいが……。
「あ、朝のミーティング、多分もう始まるよ」
「……あぁ、そうですね」
熱いコーヒーを飲み干し、紙コップを握りつぶして捨てる。いつも通りの日々が始まる。
――――――――――――――――――――
午前中の二件は問題なく終わった。一件目は離職中の三十代女性で、健康スコアが低く、今すぐ安定した収入が必要な状態だった。そして二件目は二十代後半の男性だった。両親がすでにSAFE契約者らしく、本人も同じ選択を希望していた。
頷き、寄り添い、顧客の笑い話に合わせて笑みを浮かべる。進み具合は順調だった。
昼食はいつもの定食屋だ。テーブルに定食を置いたところ、隣のテーブルで見覚えのない顔の二人組が話しているのが目に入った。
「先週のあの件、どうなった」
「延長になったらしい。本人がまだ迷ってるって」
「FREEからの移行?」
「そう。三十五歳で移行しようとするのは大変だよって、担当が言ってた」
それだけ聞こえて、会話は別の話題に移った。なぜか耳に入ったそれを頭の中で咀嚼しながら、ユウトは日替わり定食を食べ続ける。FREEからSAFEへの移行は簡単ではないと、初日で教わったことを思い出す。
今度は斜め後ろのテーブルの声が耳に入ってくる。若い男性が、隣の先輩らしき人物に話しかけていた。袖口がまだ新品の色をしていたので、恐らく新人だろう。
「先輩、この仕事してて良かったと思うことってありますか?」
「唐突だなぁ。まぁ、あるよ。感謝されるとき。サインしてよかったって後から言ってくれる人がいるんだ。その言葉を聞くと、良かったって思えるね」
「それで十分なんですか?」
「十分だよ。他に何がいるんだい」
『感謝されること。』それは大切なことだろう。ただ、実りのある結果というのは、契約者が真の意味で幸せを享受できたときではないだろうか。ユウトは聞かれたわけでもないのに、心の中で突っ込みを入れる。
……あれ。
向かいのテーブルの端に、見覚えのある背中があった。機構が紹介した職場先の制服。誰だったかすぐに出てこなかった。正確には個人を特定できる要素は持っているのだが、名前というものが出てこなかった。代わりに、何故か数字が脳内で浮かび上がる。
M-0031。
ユウトが過去に応対した人物は、今はどうやらこの会社に勤めているらしい。
彼は、幸せだろうか。
最後に残った唐揚げを口の中に入れ、ユウトはその場を後にした。
――――――――――――――――――――
事務所に戻って、気づけば午後一時五十分になっていた。ユウトは一度PCの画面から目を離して、窓の外を眺める。
コア地区の午後は、いつも同じ顔をしている。等間隔に並んだビルの窓が午後の光を反射していて、歩道を歩く人々は誰も急いでいないし、かといって立ち止まってもいない。
今日も世界は平和だ。
PCに視線を戻し、午後二時の予約者のプロフィールの最終確認を行う。今日で三十二人目になる予定の人物。
「ミナトさん・・・どうだろうな。一回の面談で契約に踏み切りそうな感じがするけれど」
ミナト、二十四歳。職歴三社、いずれも一年未満。離職から六ヶ月。貯蓄残高は月の生活費の三・八ヶ月分で、このペースだと夏を越えたあたりで底をつく。健康スコアは平均の七十二パーセント、対人リスク指数は高め。居住適性のスコアが出ていないのは、現住所の申告が半年近く更新されていないからか。
同じ場所にいながら、機構のシステムへの申告をしていない。それが怠惰なのか、それとも更新するという発想が持てないほど余裕がなかったのかは、数字からだけでは読み取れなかった。
「契約しに来た理由も、仕事を辞めた理由も、しっかり書こうとしてるけど、肝心なことはふわっとしてる・・・」
就労履歴はいずれもセミ地区以南の求人だった。一時入場許可証が今日付けで発行されている。一応、二十代半ばまで未契約でいる人間はいる。この契約自体が発足して間もないのが影響しているのだろう。
だとして、彼は本当に今日で契約を決め切るつもりだろうか。
今日以降の面談予定は組まれていない。肝が据わっているのだろうかと考え、すぐに棄却した。
FREEを選ぶには覚悟が要る。未契約のままでいるには、理由が要る。ミナトはそのどちらでもなく、ただ決めていなかった人間のように思える。
だが、ユウトはそのことを問題だとは考えていなかった。答えが見えているからこそ、相談者の話に集中できる。ここの仕事はそういうものだろう、と誰がいるわけでもないのに机の上を整えながら納得をした。
二時三分、ノックにつられ、視線を向ける。
「どうぞ」
「あ……よろしく……お願い、します」
入ってきた青年は、書類上の年齢より少し若く見えた。薄手のジャケットを着ていて、今日の気温には合わないのではないか、と場違いな感想を抱く。コア地区の建物は空調が効いているから関係ないのだが、それが目に留まった。
髪は清潔に整えられており、服装にも乱れはない。ただ全体的に、余裕のなさと、それを隠そうとする緊張が、同じ身体の上にあった。椅子に座る瞬間ちらっと見えた靴底の擦り減りようにも、彼の苦労が垣間見える。
自分の靴を、最後に確認したのはいつだったか。
場違いな考えが浮かんできて、ユウトはそれをかき消した。
「ミナトさんですね。ユウトと申します。今日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
もう一度ミナトは言った。その声は小さいが、部屋の防音性が高いせいでかえって鮮明に届いてしまう。恥ずかしそうに顔を赤くするミナトにユウトは薄く笑みを浮かべた。
「緊張しなくていいですよ。今日はまず話を聞かせてもらうだけです。何か、喉が乾いたとか、寒いなどあれば遠慮なく教えてくださいね」
ミナトは小さく頷いた。膝の上に置いた手の指先が、一定のリズムで動いている。これはかなり緊張しているようだ。
話を聞く、とは名ばかりで、ミナト自身が今日で契約するか踏み切ろうとしているのだから、ユウトはそれのサポートに努めるだけだ。あくまで、彼を落ち着かせる殺し文句とでも捉えればいい。
それから三十分ほど、ユウトは話を聞いた。三社の職歴、それぞれが長続きしなかった経緯、最初の会社で何があったか、二社目で何が決定的になったか、三社目を辞めた後の半年間をどう過ごしてきたか。
ミナトは最初、短く答えようとしていたが、ユウトが遮らずにいると少しずつ言葉数が増えてきた。だが、声は大きくなっていくのに対し、視線は一向に定まらないままだった。テーブル、窓、自分の手、またテーブル。不規則な視線の動きは、不安によるモノか。
「どうして会社を辞めてしまったのか、もう少し聞かせてもらえますか。書類には一身上の都合とありましたが」
「なんか、もう無理だと思って」
「なんか、というのは」
「うまく言えないんですけど」とミナトは少し苦しそうな顔をした。
少しだけ力の入った声と、かすかにともった熱を見て、ユウトも身を乗り出す。
「毎朝、起きるたびに今日もあそこに行くのかって思って。最初は気合いで乗り越えてたんですけど、だんだん、起きた瞬間から体が重くて。会社がどうとか、仕事の内容がどうとかじゃなくて、なんか、もう、続けるのが無理だなって」
「それ以上は言葉にできない感じ?」
「そ、そうです」
ミナトは少し驚いたような顔をした。ちゃんと伝わった、という顔だった。
その顔を見て、ユウトは自分が正しい言葉を選んだと思った。喜ぶべきことだが、ユウトは表情を変えない。
――レナのハツラツという言葉が、何故かこの瞬間に頭を掠めた。
「分かりました。それでは次に移りましょうか。現状の分析です。数字を見ながら話しましょう」
脳裏を掠めたそれから逃げるように、ミナトに画面を向けて話を続ける。画面に映るのは大量の数字だった。見慣れない数値に分かりやすく彼は視線を行き来させている。
「現状のままでいくと、六ヶ月以内に生活基盤が崩れる可能性が高い。そこは正直にお伝えします」
「わかってます」とミナトは言った。わかっていて、それでも声が少しだけ掠れていた。
「その上で、選択肢を三つ提示します」
一つずつ丁寧に話した。
FREE区分での独立支援。自立サポートプログラムへの参加。そして安定契約。それぞれの内容と条件とリスク。この地区で選ばれる珍しくない選択肢だが、彼の答えは想定できる。
三つの選択肢を並べながら、ユウトは今のミナトの状態でFREE区分の独立支援を選ぶのは転落人生に等しいと判断していた。貯蓄が底をつきかけていて、精神的な余裕がなく、就労の継続性も低い。自己責任で動ける人間向けの選択肢ではない。まだ彼は若い。今の方が選択肢がある。
それでも三つ全部を説明するのは、相談者が自分で選んだという手応えを持てるようにするためだ。これはマニュアルにはなかったが、良いことだと思っているし、正しい手順だと判断していた。
「ここに来る人は、みんな安定契約ですよね」
翳りのある言い回しに、ユウトは咳払いをして続きを説明する。
「そういうわけではないですが、最終的にはご本人の判断になります」
「でも、先生もそっちだと思ってますよね」
ユウトは表情を変えずに続ける。
「ご本人次第です。では安定契約の内容を説明します。端的に言えば、意思決定の一部に、最適化のサポートが入る形になります。職種の選定、居住エリア、日常的な選択への補助。あなた自身の希望が完全に無視されるわけではないですが、システムがより安定した選択肢を常に提案し続けます」
「縛られる感じですか」
「守られる感じ、という方が近いと思います」
ユウトは安心させるために、笑みを浮かべる。
「ただ一度サインすると、変更には手続きが必要になります。移行には数ヶ月単位の審査がかかりますし、生活基盤の再構築も必要になるでしょう。FREEへの移行には、それだけリスクが伴います。その点はご承知おきください」
一呼吸を置き、ユウトはタブレットをミナトの方へ差し出す。これ以上は、ミナトの言葉に返すだけで、こちらからの説明は以上だという合図だ。
「……サインしたら、今より変わりますか」
「変わります」
「……楽になりますか」
「なります」
ここの回答に、迷いはなかった。チリ、と微かに胸奥に何かが点いた感覚を覚える。
「――――」
「……あの?」
気を引き締めるユウトに対し、ミナトは黙ったままだった。返答が途切れ、思わずユウトはミナトのほうに視線を向ける。
うつむくミナト。そんなミナトにかける次の言葉を探し始めて、彼の肩が小さく震えているのに気づいた。
――泣いている。
声を殺した泣き方だったから気づかなかった。俯いて、膝の上の手を少しだけ握って、彼は静かに泣いていた。長いこと堰き止めていたものが、どこかで静かに決壊した、という感じの泣き方。その姿に、ユウトは刹那の対応判断を迫られる。
――途端。
鈍い痛みがこめかみ付近を襲った。何かにぶつかった感覚はない。脳みそ付近を内側から無理やり引き裂かれるような不快感。
苦痛に顔を顰めてミナトを見る。ミナトはまだ下を向いていて、ユウトの異変には気づいていないようだ。短く息を吸い込み、歯を食いしばって表情が柔らかくなるように努める。そのままティッシュを差し出し、黙って待った。涙を拭く彼に、時々声をかけながら。
そのうち、痛みも引いてきてユウトは浅く息をつく。
五分ほどして、ミナトは顔を上げた。目元を赤くしながら。
「すみません」
「いいですよ」
「……サインします。決めました」
「承知しました」
ミナトはペンを受け取った。書類に向く手が少し震えて、ピタリと一度だけ止まった。
何か気に障ることでもあったのだろうか。
「……先生は」
「はい」
「この仕事、好きですか」
ユウトはヒュッと、小さく息を吸った。吸い込む空気は少し苦味を伴って。
——なぜそんな質問を。
「……はい」
「そうですか」
ミナトは柔らかく微笑んで、サインをした。
何故答えに躊躇ってしまったのか。彼の言葉に疑問を持ってしまったのか。なんだか今日はいつもより調子が悪い。
頭の中の情報を一度捨て去り、目の前を走るインクに意識を向けた。
「これで手続きは完了です。今後の流れはこちらに記載されています。わからないことがあればいつでも連絡してください」
一仕事を終えたという表情のミナトに、ユウトは手を差し出す。
「ありがとうございます。本当に、助かります」
照れくさそうに、ただ否定の素振りもなく、ミナトはユウトの手を握り返した。
「それはよかった」
一瞬、頬がひきつった感覚があった。握手を解いた後、ユウトは一瞬だけ自分の手のひらを見る。
嘘じゃなかった。
良かった、という感情は確かにそこに存在する。ただ確認しようと、指先で触れれば、静電気のように痛みが伴ってしまう。常々抱えるそれを、ユウトはいつからか「達成感」という名前の曖昧な袋で包み込むことにしていた。それがこの三年間で覚えた、営業成功の秘訣だ。
「本当にありがとうございました」
「――ええ、お気をつけて」
ミナトの言葉に半拍反応が遅れた。ユウトは達成感という袋を抱えて、ミナトに退室の案内をする。
「この後は案内に従ってください。すぐ、お部屋は用意されますから」
「分かりました。それじゃ、先生」
ミナトがドアを閉めた後、ユウトは机の上の契約書のコピーに目をやった。ミナトの名前と、今日の日付と、サイン。
報告書の下書きは直ぐにPCに入力した。相談内容の概要、提案した選択肢、契約に至った経緯、次回の定期面談の予定日。事務的な作業は手が先に動く。考えなくても手が進む。
このことを、最初の頃は少し不思議に思っていたのだが、いつの間にかそれが当たり前になっていた。いつからそうなったのかは、もう覚えていない。
これで今日の仕事は終わりだ。ユウトは最後に軽く伸びをする。肩甲骨周りがポキポキと音を立て、肺の中の空気全て吐き出すかのように長く息を吐いた。
「帰ろう、お疲れ様でした」
大通りに鎮座する街灯は、等間隔にユウトを照らす。夜の心地よさが祝福のように感じられ、気分よく歩くユウトに。
――振動。
ポケット越しのそれに気づいて、ユウトは立ち止まる。
通知だった。
『観測番号登録完了:M-0047』
今日で三十二人目だ。
M-0047。ミナトに割り当てられた番号。こういう通知は、契約が完了するたびに自動で来る。毎回来るため特に珍しいものではないのだ。
せっかくだからと詳細も確認しよ――
「――――?」
スクロールしようとして、止まった。
通知の下に小さな文字があって、それに吸い寄せられたのだ。
『前回登録:M-0047 照合済み』
ユウトはその文字を二度読んだ。
——そんなはずはない。
M-0047は今日初めて登録した番号のはずだ。前回などない。ミナトは今日来たばかりのはずで、照合される記録などはなかった。
ただのバグだろうか。それでも形容できない気持ち悪さを覚え、続きをスクロールする。
『来訪記録:確認』
「……何の記録なんだ?」
詳細は書いていなかった。確認されたという、ただそれだけの記載。
少し考えこみ、システムのエラーだろうとユウトは判断した。気持ち悪さは残るが、そう判断するしかない。
画面を閉じ、歩みを進めた。
大丈夫だろうと。おかしくないだろうと。
ただ、見慣れない言葉たちは頭の中でシャボン玉のように浮かんでいる。ふわふわと浮くそれらは、ユウトの頭の中で浮かび上がり続け、やがて弾けた。
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この物語は、答えを出しません。ただ、問いだけを、置いていきます




