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記録No.9『今はまだ、少しだけ痛い』

 翌朝、ユウトはまた施設に向かっていた。

 推奨出発時刻の通知は来なかった。いや、来なかったのではない。ユウトが意図的に端末を開かなかったのだ。いつ家を出たのか。電車で何を考えていたのか。受付で名前を告げるまでの間、何があったのか。


 229号室のドアの前に立って、初めて気づいた。


 昨夜も、眠れなかったわけではなかった。ただ眠りが浅く、目の下に少し影が落ちている。特段見た目が悪くなったわけではないが、髪のセットなどその他の細部には注意を払って家を出たはずだ。それでも、影は残っていた。


 そんなユウトには、「次フェーズ移行条件:達成」という文字が、脳内と瞼の裏で何度もフラッシュバックしていた。サブリミナル効果のように何度も浮かぶそれは、頭を振ろうとも顔を洗おうとも変わることがない。それが出るたびに確認しようとして、確認できなくて、229号室の前に立った今も、未だ結論は出ていなかった。


 229号室のドアは、昨日と同じ白さで、一際目立っているような印象を持つ。周りの足音が規則正しく床を叩く音。薄く漂う独特な消毒液の匂い。昨日と変わらないそれらに相反するは、ユウトの内心だった。


 一度、深呼吸をする。昨日の答えは出ず、今日彼の悩みを解決する手段を、ユウトは持ち合わせていない。


 では、そんな無力なユウトは、何故今日もこうして足を運んでいるのか。何も進展しないかもしれない。余計なストレスを与えてしまうかもしれない。


 ――だがしかし。


 ミナトのあの表情。穏やかで、――そのままにしてはいけないと、警鐘を鳴らした己の意思を。ユウトは、それを信じた。


 ノックする。少し遅れて届いた返事を聞き届け、ユウトは229号室内へと入った。


 ――――――――――――――――――――


 ミナトは昨日より起き上がっていた。ベッドに腰掛けて、窓の外を見ている。朝の光は、カーテン越しに部屋の端まで伸びており、ミナトの輪郭が、その光の端に少しだけかかっていた。


「おはようございます」

「あ……おはようございます」


 振り返ったミナトの顔は、昨日より少し血色があった。ただ、目の焦点が定まるまでに、少しだけ時間がかかった。


「昨夜は眠れましたか」

「眠れました。夢も、見ました」


 椅子を引いて、斜め前に座る。


「どんな夢ですか」

「前の会社の夢でした。怒られてる夢」とミナトは言った。「起きたら、変な感じで」

「変な感じ、というのは」

「怖くなかったんですよ。怒られてる夢なのに」


 苦笑するミナトに対し、ユウトは同意するような笑みを浮かべることができなかった。その代わりに続くのは、続きを促す質問だ。


「以前は、そういう夢を見ると怖かったですか」

「見るたびに、朝ずっと引きずってました。なのに今日は、全然なくて。あ、夢見たな、ってだけで」

「その違いを、どう感じましたか」


 ミナトは少し首を傾けた。考えているのか、言葉を探しているのか。


「わからないんですけど……慣れた、とも違くて」

「違う、というのは」

「怖くなかった理由が、慣れだったらわかるんですよ。でも慣れた感覚がなくて。ただ、怖くなかった」


 怖くなかった。それだけだった、とミナトは言う。ユウトは頷いて、会話を続けようと試みる。ただ、「その感覚分かります」も、「それは変です」も、回答としては不出来なように感じて、言葉が出なかった。


 少し間があって、ミナトがまた口を開いた。


「ユウトさん」

「はい」

「植物、育てたことありますか」

「……はい?」


 唐突だった。ユウトは間の抜けた返しをしてしまう。


「……特には」

「そうですか」


 ミナトは窓の外を見た。


「小さい頃、実家に犬がいたんですよ。茶色い小さな雑種で、僕が中学の時に引き取ってきた子で」


 ユウトはペンを置いた。


「エサをよく忘れてたんです。母親にしょっちゅう叱られて。でも、その子は毎日、玄関で待っててくれて。可愛かったなぁ。でも、酷いことしてたなぁって」

「はい」

「だから、引越しの時に、枯れかけてた植物を捨てたんです。どうせまた続けられないと思って。僕、何かを継続することが苦手みたいで。要領も悪くて」


 ミナトは少し笑った。力の抜けた、自嘲混じりの笑い方だった。

 ユウトには、なぜミナトがそれを話したのかが、すぐにはわからなかった。


「——ユウトさん」

「はい」

「昨日、助けてほしいって言ったじゃないですか」

「言いましたね」

「何に助けてほしいのかわからないって」

「そうですね」


 ミナトは膝の上の手を少しだけ動かした。


「少し、わかった気がします」

「何が、ですか」

「わからない、ということが」


 ユウトはまた、すぐには理解できず、繰り返す。


「えっと、どういう意味ですか」

「怒れない、って前に話しましたよね。夢を見なくなった、ってことも。なんか、変だなって感じはあったんですよ。でもそれが何なのかがわからなかった」

「はい」

「それが、わかりました」とミナトは言った。「わからない、ってことが」


 部屋が静かだった。空調の音だけがしていた。


「——どういうことか、もう少し」

「何かが変だってことはわかるんですけど、何が変なのかが出てこない。その状態のことを、ちゃんとわかってなかった気がして。変だとは思ってたけど、どう変なのかが言葉にならなかった。今も、言葉にはならないんですけど」


 ミナトは少し間を置いた。


「なんか、それだけでも、少しましになった気がして」

「わかりました、ということが」

「はい。わかりません、ということがわかりました。だから、わからないを、少しずつ探っていきたいなって。継続することも下手だし、多分、うまくいかないことだらけだけど……変ですかね?」


 ユウトは頭をかきながら笑うミナトのその言葉を、もう一度頭の中で繰り返した。わかりません、ということが、わかりました。


 逆説だった。でも逆説ではなかった。ミナトが昨日「何に助けてほしいのかわからない」と言ったとき、その「わからない」自体に名前がついていなかった。今日はそれに名前がついた。名前がついた、というだけだった。それだけで、何かが動いたということだった。


 ミナトは、変わろうとしている。


「——それは、前進だと思います」


 口が先に動いた。意図していないのに、言えてしまった。その言葉には、痛みが伴っていたようで、昨日より、喉が少しだけ痛い。


 ――――――――――――――――――――


 面談は一時間で終わった。

 退室の挨拶をして、ユウトは廊下に出た。施設の廊下は白く、等間隔に照明が並んでいる。ユウトは歩きながら、「わかりました」というミナトの言葉を頭の中に置いていた。


 ——■■■■■。

 刹那、何かが、問うてきた。


 わかりません、ということが、わかりました。

 その言葉に、別の言葉が重なる。

「次フェーズ移行条件:達成」

 ミナトが「わかりません」と気づいた瞬間が、条件の達成として記録されていたあの言葉。


 ——ということは。


 ——■■■たい。

 また、繰り返される。


 ミナトが昨日動けなくなったこと。その状態が「有効サンプル確認」として記録されていること。

 別々の出来事だと、本当に言えるのだろうか。


 答えは出ない。ただ、胸の奥で何かが鳴っていた。このままでいいのかと、施設の外に出たユウトに、強風が叫ぶ。


 ――ミナトさんは、前進してると証明したい。


 夜、走って帰った。別に走ったところで、数分程度の時間の空きを作ることしかできないが。

 過去の自分や、疑念、おそれ、躊躇い。そういった後ろ髪を引く諸々を置き去りにするように、ユウトは駆けた。息も絶え絶えになりながら、アパートに帰って、報告書を入力した。ミナトの状態、面談の内容、回復の経過。「問題なし」とは書かなかった。三年間で何百回と打ってきた言葉だった。打つたびに正しかった。打つ前に考えたことは、ほとんどなかった。

「問題なし」とは何か。問題がない、ということが、良い状態であることと本当に同じなのか。


 ミナトの声が来た。「わかりません、ということが、わかりました」


 ――あれが問題なしであってたまるか。


「経過観察継続」


 正しい記録ではない。「問題なし」とは、書けない。送信した後は、画面を閉じなかった。


 自分は何かを見落としているかもしれない。そう思い、持てるだけの時間で、資料を見返す。

 それは、根拠のない憶測だった。ただ、その憶測を、今日初めて否定しなかった。


 ユウトは過去の担当記録から順番に開き始めることとした。M-0001から、順番に。かなり膨大な量だ。画面を切り替え、集中するユウトは、時計を確認することもなかった。こめかみに汗が滲む。


 端末のファン音が、低く一定に部屋に響いていた。時刻だけが、確実に積み重なっていって——


「……これ、って」


 M-0031で、手が止まった。


 定食屋で見た背中。機構が紹介した職場の制服を着て、誰かと話しながら笑っていた彼の表情が浮かぶ。


 そんな彼の記録の右上に、おかしな表示があった。


 『最終参照:外部端末』


 おかしいと思う根拠はあった。機構内部からのアクセスなら、参照者の名前が記録される仕組みになっている。要は社内端末からの参照は、必ず閲覧者名が残る仕組みになっているのだ。


 それが、外部端末、とだけ書かれている。名前がない。


 ——誰が、見た。


 脳内を活発させるため、ユウトはコップに水を注いで、一口だけ飲んだ。水が喉を通り過ぎていくのを感じる。


 M-0031は、フリーゾーン出身の人物であること。機構が紹介した職場は、コア地区の縁、フリーゾーンとの境界に近いエリアにあることがわかった。ミナトは別にフリーゾーン出身ではない。だが、拭えない違和は点から線になっていく感覚があった。


 何か情報が得られるかもしれない。根拠のない憶測だが、ユウトは二度、否定しなかった。


 そのまま、担当記録ではなく、今度はフリーゾーン周りの記録を読み進めていくと、一件だけ、見慣れない備考欄があった。


 『契約区分変更履歴:SAFE→FREE (申請理由:機構職員 自己都合)』


 機構の職員が、自分でFREEへの移行を申請した記録だった。こういう事例があることは知識として知っていた。ただ実際の記録を見たのは、初めてだった。

 欠けていたピースが一つ、音を立てて嵌った気がした。両の目に映るそれは、ユウトの意思を後押しするには十分な理由だった。


 その後も、担当記録を読み進めていく。特にその他で気になる点はない。だが、最後、M-0047の通知履歴を確認して、ユウトは喜びのような、そうであってほしくなかったような、複雑な表情を浮かべた。


 昨日受け取った通知。「次フェーズ移行条件:達成」という文字は、そのまま残されている。ただ、想像通りと呼ぶべきか、変化があった。


「――また、追加されてる」


 その下に、今日付けで追加された一行があった。


 『次フェーズ移行:開始』


「達成」が「開始」になっていた。昨日、条件が達成されて、今日から何かが始まった、と。その「何」については、記載がされていない。


 やはり、何かが進んでいる。


 理解して、ミナトとの会話が脳裏で再生された。シーンは、ユウトがミナトに言葉を返したあの時。


「言えてしまった」のだ、今日も。言葉にしたとき、喉は痛かった。昨日は痛くなかったから、今日の痛さがより鮮明だった。


 ――どうしたい。


 どうしたいのか。


 三年間、そういう問いを立てなかった。立てる必要が、なかった。通知が来て、スコアが出て、それに従えば、答えは揃っていたから。


 ——どうしたい。


 問いだけが、繰り返される。ノイズ交じりの声は、ユウトの答えを待っている。誰の声か、ユウトは分かっている。ああ、そうさ。そうだとも。何もできないなんて、一体だれが決めたのか。


 ――できることを、したい。


 具体性も、妥当性も、論理性もないその感情。

 ただそれが、それだけが、ユウトにとっての答えだった。


 画面を切り替える。スケジュール管理の画面を出して、明日の欄に入力した。


 『フリーゾーン境界周辺 情報収集 ※私用』


 業務申請ではない。それが、ユウトの意思の表れだった。

 

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