記録No.30『思い込みの狂気』
フリーゾーンの夜は、昼の熱をまだ手放していなかった。
アスファルトが日中に吸い込んだものを、今になって少しずつ吐き出しているようだ。歩くたび、足元から生温い空気が這い上がって来ており、コア地区にはない独特の熱気を味合わされている。コア地区なら空調の効いた建物が熱を抱え込んでくれるのだろうが、この街にはそんな仕組みはない。熱は熱のまま、人の間に居座っている。
ジリジリとしたこの街で、ユウトはいつものようにタツヤの作業場についた。最近は何度も訪れるものだから、そろそろフリーゾーン訪問用のパスでも買おうかと思っている。
「入れ。暑いだろ」
戸をノックすると、タツヤはそう言ってすぐに応じた。いつもと変わらない表情。変わったことといえば、部屋の内装くらいか。前は扇風機が一台、首を振っていたものが、今はエアコンも備え付けられ、機械の熱を強制的に冷やしている。
服装もいつものように半袖で筋骨隆々な腕を見せているわけではなく、長袖姿だ。
「あれ、エアコン買ったんですか?」
「あー? そうだな。ちょっとしたツテでな。これでPCがアホみたいな熱噴き出す心配も減ったよ」
カラカラと笑うタツヤの話を聞きながら、いつもの部屋に入る。と、部屋の中に近づけば近づくほど、ひんやりとした空気に包まれる。なるほど、これなら長袖にしたくもなる。ユウトは前腕をさすった。
「よう。で、今日は何の集まりだ」
椅子に胡座をかきながら、カイがそう言った。カイも寒いのか、今回は暖かなコーヒーを淹れてるようで、湯気が立ち上がっている。
「いやなに、一度状況や知ってる限りの情報を整理しようと思ってな。色々、俺が調べた中で気になってることがあるし、聞けるもんは聞いときたい」
「整理ですか?」
「あぁ。ここ最近、きなくせー噂話もあるし、ユウトとも集まれてなかったからな。そっちの方でも変な噂があるんなら確認したい」
タツヤが机の上に紙を広げる。テーブルいっぱいに広がるのは、手書きの雑な図だった。丸が三つ並んでいて、それぞれにコア、セミ、フリーと書いてある。大雑把な性格だからか、あまり字は上手くないようだ。
「そうだな、俺も色々調べて気になった話がある。そこに時間を使うのには賛成だ」
「というと?」
椅子の背にもたれたカイの言葉を皮切りに、作戦会議が始まる。
「まず、FREEからSAFEに移る奴が増えてるって話は知ってるよな。特に境界に近いエリアだ。これは前に話した通り」
「そうだな。カイの方でなんか進展があったか。例えば理由とか」
「ああ。本人に直接ってわけじゃないし、又聞きなのは前提だがな。どうやら正規の手続きを踏まないで、SAFEの方に移行してるらしい」
その言葉に、タツヤがピクリと片眉を吊り上げた。不可解であることを隠す気のない顔だ。
「らしいだとか又聞きとか随分な予防線だな。それはなんだ。当のSAFEに行ったやつが言い切らなかったとかなのか?」
「そうなる。まぁ向こうに行ったやつがAだとする。そいつの知人のB曰く、歯切れの悪いAを問い詰めたら、機構のやつがSAFEに来ることを推薦したらしくってな。普段の入国審査見てーな厳しい条件も緩和されてたらしい」
そこまで聞いてユウトも首を傾げる。機構側が態々フリーの人間に契約を勧めることは規約違反のはずだ。あくまで機構は『選択』を待つ側として機能しているとされているのだから
「それは、私と同じような仕事をしている人がいるということですか?」
「いや、全然違うな。押し売りみたいなもんだ。機構側が態々出向いてる。何より、移行してから三年は再移行は不可能のはずだ。審査もあるし、規約的に無理な事例だろ?」
「あぁ、確かに……移行にはその他にも就労状況の申告や健康状態の確認、身元保証とかもあるので。正規の手続きを踏んでないとなると、そこら辺もすっ飛ばされてるのかも」
呟きながら、ユウトは頭の中で規約類の文章を思い返す。少なくとも、機構側でそう言った話を聞いたことはないし、それが推奨される環境に切り替わっているという記憶すらない。ともすれば、ユウトの中でまた機構への猜疑心が高まる。
「ユウトも知らないとなると、表向きの活動とは言い難いな。設計士って営業とかもするものなのか?」
「禁止自体はされてません。よくセミ地区の方に訪問するのも営業の意図が強いです。一応、紹介自体は本来他の部が実施しますが……一度FREEを選んだところに態々向かうというのは聞いたことがないですね。基本はセミ地区近辺で行ってるはずです」
そう告げると、そうかと言ってカイは腕を組んで黙り込んだ。一度、この件は中断にして他の話を深めた方がいいかもしれない。
「あとは、人に声をかけて回ってる連中がいるって話だな。純粋な不審者かと思うが、そいつらに感謝してるって話が多い。し、声かけられた奴らの一部は音信不通になっている。コア地区と比べりゃここの治安はそこそこ悪いが、んな出来事本来ポンポンとおこらねぇからな」
タツヤも同じことを考えていたのか、話を切り替える。リクも同じ話をしていたが、照らし合わせると、どうやらフリーとセミ両方の地区で頻発しているようだ。
「そのお話、セミ地区でも起きているらしいです」
「誰から聞いたんだ?」
初耳だと、タツヤはユウトの方へ向き直る。顎に手を添え、睨むような目つきは苛立ちが募っているようだった。
「えっと」
そのまま喉元までリクの名前が出かかる。だが、この場でリクの名前を出したくはない。最後に、カイに個別に聞けるなら聞く程度がありがたい。
大きな飴玉を飲み込むように、強引に口を閉じてからユウトは小さく咳払いした。
「契約者ヅテで。なんなら、警察のお世話になった方もいるだとか」
「タツヤ、その辺は俺も色々聞いている」
驚くタツヤに対し、カイが割って入る。腕を組み、一つ息を入れ、
「正確には病院送りになった奴らが何人もいる。その後に警察って流れだ」
「病院……? 暴力沙汰になってるのですか?」
「いいや、違うな。暴力沙汰になってるってのもあるんだが、それだけの話じゃない。話を遡って説明はするが、まずはこれだな」
首を横に振り、カイは数枚の紙をテーブルの上に並べた。紙の質や字の独特の滲みから、それがコピー品であることが伺える。
「コレは……」
「フリーの中でも特にデカい院のカルテだ。手に入れた方法は明かせないが、これに書いてあるとこには……さっき言った奴らの何人かがぶっ倒れちまってるんだよ。やつれて、クマも引っ提げてな」
まるで見てきたかのように、カイは目を細める。
「まぁ、途中までは元気なんだがな。行動も活発になって意欲的になったかと思えば、その後には物壊したり意味不明なこと口走ったりして、俺んところにも相談が来たんだ。あぁ、だから正しくはぶっ壊れちまうって方があってるのかもな」
何でも屋を営むカイの所にはそう言った話も飛んでくるのだろう。
テーブルの上のカルテに目をやる。コレもツテで得たものだとして、内容からフリーゾーン内での病院のカルテだということはわかる。ただ、症状や検査結果はこと細やかに記されているものの、
「原因不明……?」
その四文字を、ユウトは呟く。呟きながら、考えるためのエネルギーを得ようと空気を吸い込んだ。
ざっと目を通したが、どれも症状や所見については多岐にわたって記載されているのがわかる。幻覚症状だの破壊衝動に駆られているだの、物騒な言葉が並べ立てられていた。しかし、そのような強い言葉に対し、どのカルテにも判を押したように、原因不明という病院の無力も同時に書き記されていた。
『病因、特定に至らず』『既知薬物呈色反応:陰性』『経過観察のほか処置なし』
「呈色反応にも出ていない……」
「ああ、そうだ」
ユウトの呟きにカイが頷く。確かにこうなってくると、きな臭い。
「あ? カイ、そいつはなんだ」
ただ一人、状況を飲み込めていないタツヤがカイに尋ねる。
「そっちで医学的なことは学んでないのか。これは薬を調べる時のやり方だ。血だの尿だのに試薬を垂らして、色が変わりゃ症例がわかる」
「あぁ? 薬? 別に話してただけなんだろう? 精神的に参った奴らってだけじゃあねぇのか」
「あぁ、恐らくその時に渡されたのさ。もしくは取引が行われたかだな」
まだピンと来ないという表情のタツヤに、カイはもう一度大きなため息をついた。この出来事のスケールの大きさに。そしてその火の粉が、このフリーゾーンに回っていることに。
「こいつぁ、数十年前に出回ってたモルヒネを使った麻薬の症状によく似てんだよ」
その単語に、ユウトは学生の頃に読んだ教科書の一頁を思い出す。麻薬、と呼ばれる代物が生まれた事件。歴史の教科書に載るほどの凄惨な事件。教科書に載っていた白黒の写真には、壁一面に走る、無数の引っ掻き傷があった。人の指で刻まれたとは思えないほど深く、乱雑なそれを。
「天音白湯事件……」
「そうだ。その事件の時に出た代物。それがモルヒネだ」
カイが、もう一度大きなため息をついた。
「数十年前に何人もの人間を壊したアレと同じか、それ以上のヤバいものが、出回ってる可能性がある」




