記録No.29『マイナス思考に蓋をして』
——相対する男の、穏やかな表情。
そこだけ切り取ればユウトの口元も綻ぶというものを、ユウトは口をきゅっと引き締め、頰を硬くした。
「……そうですね。八年前です」
牽制の意味も込めて、念押しのように告げる。今度は少しわかりやすく、気落ちしていることを伝えるように呟いた。しかし、泥の底のように見えなくなった彼の胸にその睨みを撃ち込んでみるも、言葉の勢いはそのまま呑まれ、泥の海で消失する。
「時間経つのは早いですもんねぇ。まぁいい息子さんを持たれてるってことでしょうし。僕、親に話を聞くことも出来ませんので」
透けてしまうほどペラッペラな薄紙のような言葉。これまでと変わらないトーンなのが、一層彼を不気味に演出している。
「……そう、なんですか」
「はい。二人とも」
「いつ、ですか」
「んー、三年前くらい……っすかねぇ」
三年前。ユウトの中で、何かが引っかかった。三年前といえば、リクがSAFEに移行した頃だ。移行理由の欄には「家族のため」と書かれていた。
理由の欄に書き込むほどだ。彼にとって、家族とは何より大切なものなのではないだろうか。それが、今の彼の言葉の重みたるや。目の前の魚料理と同じ天秤に乗せられてるかのようで、ユウトは気持ち悪さすら覚えてしまう。
「……ご病気で?」
触れてはならない推測をそのままに、ユウトはさらに踏み込む。これ以上、おかしなことを言わないでくれと願うかのように。
だがリクは、気にする様子もなく答えた。
「いや、事件に巻き込まれたんす。フリーゾーンで」
「——」
それは何か劇的に発されるわけでも、必要な予備動作もなかった。ただ、これが事実なのだと、そう淡々と突き付けられただけだ。
だからこそ、ユウトは愕然とし、口をワナワナと震えさせる。腕だけでなく、心の奥底すら冷えていくのを感じる。
「……それは」
「まあ、あのへん治安悪いんで。よくあることっすよ」
よくあると、彼はそう言う。ただ、ユウトが言った時とは明らかに違う重みを持っていた。ユウトはその言葉を言うまでに八年の年月を要した。何度も飲み込んで、飲み込みきれなくて、吐いたりえずいたりしながら、それでもそう言えるようになろうとした。
ただ、少なくともユウトの目からは、リクがその紆余曲折を歩んでいるようには見えなかった。
まるで最初からそこにあったみたいに告げる彼に、ユウトは内側から猛烈な衝撃に撃ち抜かれる。
「……辛くは、なかったんですか」
縋るように、祈るようにユウトは返す。手のひらに爪を深く食い込ませ、ユウトはリクの真意を測ろうとする。だが、リクの表情から答えは明らかだった。考えが変わったわけではない。思惑があるわけでもない。ただ小さく首を傾げ、
「んー、どうっすかね。いや、そりゃ悲しかったとは思うんすけど。もうあんまり、覚えてなくて」
その答えを聞いて、ユウトは急激な吐き気を催した。
——覚えていない。
三年前のことを。自分の親が死んだことを。
必死に記憶を手繰り寄せる。確かリクは契約直前も直後も、家族のことやフリーゾーンでの事を楽しげに話していたはずだ。慈しむように、愛しむように。
「……三年前ですよね」
「そうっす」
「それでも、覚えていないんですか」
聞き方が少し強くなった。自分でもわかっていた。わかっていて、止められない。爪はより一層深く食い込み、爪先に、何か温かな湿り気を感じた。
「なんか、変っすか?」
リクはそれでも笑っていた。笑っていたのだ。貼り付けられた仮面のような笑みではなく、心の底から、笑うという機能を使えていたのだ。
「まあ、もう終わったことっすから」
「そう、ですか」
リクの物言いに、しかし怒りや反論の気持ちは刹那のものだった。自分は八年経っても終わっていない。母に仕送りをするたびに父のことが浮かぶ。何が正しかったのかがわからないまま、その問いを抱えて機構に入った。三年経ってもまだ答えにはノイズが走っており、ユウトはリクの思考の海に潜ることができない。
終わっていない。終われるわけがない。
そうして言葉を聞き、噛み砕き、飲み込み、最悪の仮説が思い浮かぶ。
彼の顔に、無理をしている様子はなかった。強がっているわけでも、話題を避けているわけでもない。本当に、終わったこととして処理されている。
そう、処理されているのだ。機械的な事務のように、それが一つの出来事として終わってしまっているのだ。紡がれた言葉の軽さは、ユウトの仮説を立証するのに十分な代物と言える。
——彼は、変えられてしまったのだと。
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味がしない、というのは舌が何も感じないことではない。
甘い。苦い。塩辛い。舌の上に乗せれば、それが何なのかは分かる。野菜なら野菜特有の苦味があるし、醤油を足せば塩辛さを感じる。料理なら、使われているものだって大体は想像できる。
ただ、今のユウトに、これらの食事を「美味しい」と思えるほどの余白はなかった。
味というものは、舌だけで決まるものではないのだろう。
腹が減っているから美味い。疲れているから甘いものが嬉しい。誰かと食べるから、いつもより少しだけ美味しく感じる。昔食べたものを思い出して、懐かしいと思う。
そういうものが全部重なって、初めて人は食事を「味わう」のだ。
だから、味がしないというのは、舌から味が消えることではない。感じた味に、自分の気持ちが追いついてこないことなのかもしれない。
苦いことは分かる。甘いことも分かる。けれど、それを嬉しいとも、嫌だとも思えない。
ただ、口の中を何かが通り過ぎていく。そんな食事を、人は何と呼ぶのだろう。
——今のユウトは、まさにその状態だった。それほどまでのショックを、ユウトは受けていた。
「そういえば」
「えぁ、はい」
リクが、思い出したように言った。味覚がおかしくなった代わりに、聴覚はより鋭敏になっていたらしい。蚊の鳴くような声を漏らしながら、ユウトはリクに向き直る。
「ユウトさん、こっちの方来る時は気をつけたほうがいいっすよ」
そう言って、家族の話は終いだと言わんばかりに次の話題に切り替えられ、ユウトの胸にちくりと、痛みが走った。だと言うのに、ユウトは話をまた引き戻そうとする気力がなかった。
「そう……ですか。何かあるんですか」
「最近、なんか物騒で」
リクは少し声を落とす。ため息混じりのそのつぶやきに、リク自身が辟易としていることが見てとれた。
「フリーの方でも、セミの方でも。変なのが増えたって話を聞くんすよね。前はそこまでじゃなかったんすけど」
「変なの、というのは」
「なんか、人に声かけて回ってる連中がいるらしいっす。困ってる人に、優しくしてくれるとか」
それだけで一度言葉を区切られて、ユウトは続きを促す。
「優しく、ですか」
「そうそう。知らない人だけど話聞いてくれるもんだから、まぁこっちも話しちゃおーみたいな。ボランティア活動の一環とみて話したらなんか楽になるって。だから最初はいい人だと思うんすよ」
「その後は」
「わかんないっす。僕も又聞きなんで。ただ」
リクは、湯呑みを持ち上げた。
「何人かはその後に警察にお世話になってるらしいっす。とか、普通に行方不明になってるとか」
「え……あ、は?」
あまりにも淡々と言うものだから、ユウトは不可解なものを見るような目を向けてしまう。息を呑むユウトの前で、リクは湯呑みを置き、淡々と話を続ける。
「いやまぁ、そうっすよね。その反応になりますよ僕、お得意さんから聞きまして。何人かが同じような話してるし、そろそろ事件として扱われるんじゃないんすかね」
顎をしゃくり、店員の一人を示してリクはそう言う。が、ユウトはそう言われても、困惑を浮かべるだけだ。そもそも、警察に世話になるとは具体的にどんな内容だろうか。傷害を犯したといったものならば、ニュースに軽くでも乗っているだろう。毎朝の通知はそういった情報も伝えてくれる。ただ、この話は初耳だった。
「まぁ、コアの方はそんなことないんじゃないすかね。あんまり聞かない。でも、そういう話が増えてるってのは気をつけてくださいね。ユウトさんこっちとかに来る頻度多いなら、お人好しが祟って〜なんて。夢見悪いですもん」
「はは、まぁ、善処しますよ」
乾き切った笑いで応じる。得られた情報の割に、ユウトはそれを捌く精神的な余裕もなかった。リクの心配は本当の気持ちに感じられる分、余計にタチが悪い。そのままコロコロと、リクは話題を転換して行く。
「あー、あと、なんか壁に落書きされてるとことかありましたね。あれ、なんなんすかねぇ。ユウトさんに聞いてもしょうがないとは思うんすけど」
「落書き」
「はい。同じマークっていうか、文字みたいなやつ。俺は詳しくないんすけど」
「Fって書いてあるアレですか?」
「あぁ、それですそれです。マークってか文字か。ユウトさん心当たりあるんすか?」
コウから聞いた話を思い出す。セミ地区の壁やシャッターに描かれた落書き。それらが増えているということを。
「いえ、又聞きでして。今の所害はないんですよね?」
「まぁないんじゃないっすかね。ただ、その落書き誰がしたのかーとか、なんでこんなに増えてるんだーとは言ってるものの、その進展自体はないから不気味ではあるんすよね」
「そうですか、ありがとうございます。色々と教えてくださって。諸々、気をつけようと思います」
「いやいや。まあ、気をつけてくださいね。そろそろ時間も良いですし、出ますか」
そう言って、リクは笑った。屈託のない笑顔だった。
会計時は本当に奢られてしまった。ユウトが払うと言っても彼は聞かない。曰く、
「言ったっしょ。担当してもらった恩っす」
そんな優しい彼が、家族をおざなりにしているという事実に、耐えきれなかった。
――――――――――――――――――――
ユウトとリクはその場で別れることにした。
リクは坂の上へ、ユウトは駅の方へ。歩き出す前に、リクが振り返って手を振った。ユウトも軽く頭を下げる。
「僕暫くはこの辺で仕事してるんで、また何かあったら来てください!今度は周りを案内とかもできると思うんで」
「ええ、その時はよろしくお願いします」
お互いを背に、二人は歩き出す。
営業としての貼り付けた笑顔は剥がれ落ち、ユウトはグッと唇を噛み締めた。
もう終わったことだと、彼の言葉が何度も何度も頭の中に響き渡る。
自分は、八年経っても終わっていないのに。これが個人差だと言われれば、そうかもしれない。人によって悲しみの抱え方は違う。三年で立ち直る人もいれば、八年経っても引きずる人もいるだろう。
だが、簡単にポンと飲み込めるほど、人はできていない。あれは、立ち直った人間の顔ではなかった。
立ち直るには、まず落ちなければならない。落ちて、もがいて、それから枯れ果てるまで泣いて、ようやく上がってくる。人の軌跡は、それほどまでに重い。だからこそ、その痕跡はどこかに残るはずだ。
リクには、それがなかった。
落ちたことがあるのか、それすらもわからない。最初から落ちていない人間と言われても理解できてしまうほどに。
彼の心は平穏で、平坦で。家族への辛いという感情が、ごっそりと抜けてしまったかのようだった。
そうしてふいに、足が止まった。
彼の腕にあった傷のことを、ふと思い出す。傷について追及するのは不躾だろうと以降は食事中も触れてこなかったが、彼の傷は記録にすらついていなかった。
彼の傷が、契約後についたものであると。そして、両親の死亡時期も契約後であると。
つまり、ユウトはその時のリクの心境も、起きた出来事も何も知らないのだ。
何があったのか。立ち尽くすユウトは、ジリジリと泣き喚く蝉の声すら聞こえないほどに、自分の頭の中の中へと入り込んでいった。
——その何かを知っているかもしれない。
「向かおう、フリーゾーンに」
小さく、ユウトは呟いた。




