記録No.28『飲み込んでしまいそうだから』
一週間ぶりに訪れたコア地区の縁。昼下がりのこの場所はアスファルトが熱を孕み、押し返すような熱気が木々の匂いをより濃密にさせている。
ジリジリとした熱に当てられながら、ユウトは汗を拭って人を待っていた。
ちらと、ユウトの視線が空の方へと上がっていく。ユウトの視線が向いたのは、燦々と煌めく太陽の方だ。今日は夏並みの気温になり、夕方以降も蒸し暑さに焼かれる思いをすることになるのは明白だった。コア地区、ひいてはフリーゾーンすらも呑み込んでいるであろう熱に当てられながら、それでもこの場所にいる理由。
——その理由たる人物を見つけ、ユウトは再度汗を拭った。
一週間前に出会った坂の上で、大きく腕を振ってこちらに向かってくる青年——リク。栗毛色の髪の毛を揺らして走ってくるのに対し、ユウトはゆっくりと歩みを進める。
「ユウトさん!」
「お疲れ様です。そんなに走らずとも、集合時間の十分前ですよ?」
「いやぁ、お呼びたてしたのは僕なんで」
顎を伝う汗を拭い、カラカラと夏の花のように笑うリクにユウトの口元も緩む。
今回この場に来たのはリクによるものだった。昼下がりのこの時間に、初めて会った場所でまた話したいと言われて来てみたのだ。本当ならば猛暑日とも言える今日は、冷房の効いた部屋に一日中避難しようと思っていたのだが。
「要件って結局何だったのでしょうか? 雑談とかそう言った趣旨なのかなと受け取りましたが」
「まーまーまーそれもあって。ユウトさん午前業務終わってそのまま来てくれた感じっすよね」
話しながらリクは足先の方向を90度変え、来た道とは違う方へ歩き出す。着いてこいということだろうか、ユウトはリクの斜め後ろを着いていく。
この通り、朝に電話がかかってきて、そこでユウトはリクに会うことにしたのだ。午後は特に予定もなく、向かえるの返事を受けると、電話越しのリクの声が跳ねた気がしたのを覚えている。
「まぁそうですね。なんだかんだここへの移動時間はまちまちですから」
「交通の便もう少し増やして欲しいっすよねぇ」
「まぁわかります。ところで、どちらへ?」
純粋な疑問の一言に、リクは照れ笑いのような笑みを浮かべる。童顔寄りの優男の笑みに気を取られそうになりつつ、大事を考え一段階警戒を上げる。一応、要件は何も告げられていないのだ。もしもカイやタツヤ周りの、裏でのつながりについての話なのだとしたら、ユウトは彼に対して数枚壁を張らねばならない。
「よかったら、飯行きます? この前言ったやつ」
「——あ、えと……いいんですか」
と、その答えのせいで、一瞬だけ引き締まった警戒心は一気に壊されてしまった。そんな面を食らった顔のユウトに対し、
「言ったっしょ、奢るって」
当然と言わんばかりにリクは八重歯を見せて笑った。
「ええと、では。お言葉に甘えて」
その愛嬌に、ユウトが断る理由などどこにもなかった。
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連れて行かれたのは、坂を下りた先の小さな定食屋だった。
カウンターと、四人がけのテーブルが二つ。壁に貼られた品書きは日に焼けて、端が丸まっている。厨房からの油の跳ねる音と、常連客の会話。厨房から飛んでくる調味料の匂いが鼻腔に響き、舌の根が湿っていくのを感じた。
「ここ、安いのに量あるんすよ。お互い体力仕事っぽいっすから、栄養蓄えれる所見つけるのは大事なんすよねー」
リクは慣れた様子で奥のテーブルに座り、品書きも見ずに注文し始める。
「あ、嫌いなものあります?」
「いえ、特には」
「アレルギーとかも?」
「ないですね」
「じゃ、色々勝手に選んじゃいますね。これ品書きなんで、他にも頼みたかったら色々選んじゃってください」
そう言ってリクは注文を続ける。ユウトは頼まれた品を聞きながら、十分だと思い飲み物だけ頼んだ。
食事が来るまでの間、リクはよく喋った。契約直後もよく話していたのだが、それでも話題が尽きないとばかりに、彼の話は新鮮なものばかりだった。それに、昔あったようなギラつきや、誰かを貶すような文言もなかった。
以前はフリーゾーンで起きてた不平や不満も吐露していたものの、今はそう言った所作がない。フリーゾーン自体は好きだが、やはり環境の問題か。人によっては良くない者もいるのだと、それを退治するのも昔はしていたのだなんて武勇伝のように彼は語っていたはずだ。
今は職場の話に同僚の話。友人がやたら猫の写真を見せてくるものだから、ペットを飼ってみたいと言った話。どれも他愛のない内容ではあるものの、話し方のせいだろうか。ユウトは相槌を打ちながら聞き入るようになっていた。
「ってな感じでぇ——」
身振り手振りも使って面白おかしく話そうとするリクだったが、ふと思い出したかのようにこちらに向き直る。
「そういえばユウトさん、家族とかいるんすか」
不意にそう聞かれた。唐突だったものだからグラスを持つ腕が震え、人中周りを水で濡らしてしまう。
口周りを拭いながら、一つ咳払いをした。
「……母が一人、います」
喉を鳴らして息を呑むが、リクは機嫌が良いのか、気にすることなく言葉を続ける。
「へえ、お母さん。近くに? 今一人暮らしっすか?」
「はい、少し離れたところに。3年前ほどから一人暮らしをしています」
「あれ、まだ若かったはず……あ、あと仕送りとかしてるタイプっすか、ユウトさん」
クイズを当てるかのような視線に射止められる。楽観的な考えか、危機察知能力が低いのか、続きの会話を予測して、一つ嘆息を入れてユウトは言葉を返した。
「してますね」
「うわ、絶対そうだと思った」
リクは笑って、水を一口飲んだ。楽しそうなリクと正反対に、ユウトの表情は翳っていく。
「じゃあお父さんは」
「亡くなりました。八年前に」
自分の中で、空気が凍りついた気がした。
間髪も入れず、いつもより声の圧が伴った返事。
「——亡くなられた」
そう小さく呟くのを聞いて、ユウトは目を伏せる。「お気になさらず」とだけ告げて、気を紛らすかのようにテーブルに腕ごと差し出した。
金属独特の冷たさがさらに熱を冷ましていき、ユウトは一度短い息を吐く。
初対面同然の相手に話すことではない。それはわかっていた。ただ、この人はさっき自分の家族の話を、あっさりと聞いてきた。
だからだろうか。ユウトも返すべきだとそう思ったのかもしれない。
「八年前に亡くなりました。汚職に、巻き込まれまして」
リクの箸が止まったのを見る。続きを促してくれているのだろうか。もちろん、身近な人の死についてだ。中断することも可能だったが。
「父はSAFE契約者で、セミ地区の会社で懸命に働いていました。ただ、当時はまだ制度もまとまっていなかったからでしょうか。汚職も横行していたようで。父は人一倍責任感の強い人でしたから。責任を、押しつけられたんだと思います。……最後は、自分で」
言葉の最後は、濁した。言い切る必要はなかった。伝わるはずだからとも、言いたくないとも、両方の感情が混ぜこぜになって小さく唇を噛む。
「そうだったんすか」
リクは短くそう言った。ユウトはその後の沈黙を待った。同情されたいわけではない。かと言って相手を恨んで黙っているわけでもない。
次の言葉を予想するが、返る言葉は戸惑いの混じったものだろう。リクのような人物だとしても、楽観的な言の音を吐き出せるのかと、そう冷めた声が自分の心の中で響く。
そして、ユウトの予測の正否を答えるように――、
「大変でしたね」
そう言って、リクは箸を動かした。
「八年前なんて、だいぶ経ちますね」
——え。
ユウトは反射的に顔を上げた。店内の煌めく装飾の輝きを受けるリクの顔。その様相は穏やかさすら感じられ、その箸が魚の腹部を刺し、解体している。
不謹慎な言い方をしたつもりは、たぶん向こうにはない。同情がないわけでもない。ただ、「大変でしたね」と、確かに言った。
「え、えっと」
「……なんすか?」
ただそれだけだった。




