記録No.27『伸びた枝葉は分かれて』
同日。セミ地区にて。
ミナトの働く職場。支援施設の窓口は、通りに面したガラス張りの一階にある。予約制ではない。ふらりと入ってきて、青いパーテーションで仕切られた席に座って、それから話し始める人も多い。かなりボランティア活動に似ているが、給料も待遇も良いという仕事場だ。
ユウトさんの仕事に似ているな。
内心で言葉にしてみると、ふわりと心の奥に暖かい液が注がれていくような感覚を持ったのを今でも覚えている。
話すこと自体が苦手で、緊張しいだったはずなのに、今では紡がれる言葉はインプット情報として相手の脳へと容易に侵入できるようになったらしい。
午後の光が、ブラインドの隙間から机の上に細い線を引いていた。ミナトは今、ここで働いている。
今日の活動記録は三件。一件目は、四十代の男性だった。
「なんか、落ち着かなくて」
それが最初の言葉だった。曰く、困り事はないはずなのに、夜になると落ち着かなかったり、何をしていいかわからないのだそうだ。
ミナトは頷きながら聞いた。音楽を聞いてもてんでダメ。趣味のナンプレなんかが身に入らず、ムカムカモヤモヤする日々を過ごすことも増えてきたと、薄くなった髪の毛を更に捻りながら彼は呟いている。
頭頂部は心配なものの、生活状況、就労状況、健康状態自体は問題はなさそうに思える。人よりは小太りで、そういった意味では健康を害しているかもしれないが、病に至るほどでは無い。ストレスの原因になりえそうなものも見つからず、ミナトはペンでこめかみをとんとんと叩いた。
「お仕事の方は、お変わりは無いですか? 特に仕事内容に思うこともなく」
「ええ、まあ。……あれ、さっきそれ聞きました?」
「いえ、初めてです」
「あ、そうか。すみません」
男性は笑った。悪気のない笑い方だ。ただ、少しモヤッとしたのは、この会話自体も2回目だということだった。会話の途中では視線が何度か手元へ落ちているし、側頭部にある少ない髪をねじったりいじったり、癖のようでもある仕草に少し気が散ってしまった。
と、人の頭をそうチラチラ何度も見るのもおかしな話だ。ミナトは気を取り直して質問を続ける。
「最近、誰かに相談されたりは。それで心がスカッとするだとか」
「あー……そういえば、ちょっと前に話を聞いてもらったんですよ」
男性は少し考えてから、そう言った。
「お話を。それはどなたにですか? ご友人とか?」
「んー、友人というか、そもそも知り合いっていうのも怪しいというか。まあ、そういう人がいて。すごい、わかってくれる感じで」
「漠然とした不安を抱えていることの吐露をした感じですか」
「いやぁ、そうなんですよ。こんな歳になってもお恥ずかしい。で、話してる時はよかったんですけどねぇ」
脂汗をハンカチで拭きながら、男性は机の上で指を組んだ。
「……そのあとから、なんか調子悪くて」
それまでの活気溢れた声は消え、その日を思い出すかのように、男性は遠い目をした。
「その方に何か酷いことを言われたとか」
「いやいやいや! 私の悩みについて親身に答えようとしてくれた方ですから。逆に、自分の悩みについて振り返って、そのせいでこうなったんですかねぇ」
同意を求めるような言い回しだが、表情や声のトーンはそれを求めていない。ただ独り言のように呟く相手に対して、深掘りのようにこちらから語るのは得策ではない。
この職場では、あくまで話を聞くのがメインで、場合によっては専門の機関を紹介している。わざわざ機構にまで出向いて相談することでもない、愚痴を聞いてほしい。そういった要望を叶えるためにこの職場は存在する。
「わかりました。またお好きな時間にお話してみましょう。必要ならば専門の相談窓口をご案内できますので。なんでもない人になんでもないことを話してみる。それでストレスが解消されるならば、元の原因も別にあるのかもしれないと進展しますから」
男性は頷いて帰っていった。ガラス扉が閉まる音が、静かな室内に落ちる。
二件目は、二十代の女性だった。
「なんか、ぼーっとしちゃって」
開口一番の言葉。はぁ、と少しこけた頬に指を這わせ、厚化粧気味の女性は身の上話を始める。この地区では珍しくない、食事の質を管理できていないのであろう痩せ型だなと思った。
ふぅ、だとかはぁ、だとかため息が多いせいで、顔周りに目が移ってしまったからかもしれない。
彼女の話は彼氏と別れただの、好きなバンドが解散しただの嘆きの呟きが多い。なんて事の無い日常会話で、こちらも時々何の話だろう?と曖昧な相槌を打った。
そうして身の上話を聞いていくうちに、途中で女性は思い出すようにこう呟いた。
「あーでも、前に公園で話しかけられて」
「公園?」
はい、と彼女は言葉を続ける。
「すごい親身になってくれる人がいたんですよね。話してるうちに、なんか楽になったんですけど。名前も聞けずじまいで」
「それはいつ頃ですか」
「先月とか、そのくらいです」
煌びやかな爪をミナトに向けるように、口を押さえ彼女は笑う。ただ、笑うというのは困ったような笑いだった。
「……でも、それからなんですよね。調子が変になったの」
三件目も同じだった。この話は割愛しよう。
四十代の女性で、不調を訴えており、その根本について深掘りしていくと、直前に誰かに話を聞いてもらっていたという事だった。
相談内容そのものはばらばらで、年齢も職業も多種多様。そんな中、共通しているのは経緯の形だけだった。
言いようのない気持ち悪さを抱えたまま、ミナトは施設での勤務を終えて帰路についていた。
気持ちが落ち着かないだとか、夜眠れないだとか、そういう相談自体は珍しくない。ただ、ここ最近の会話のせいか、しこりのように残っていることがあった。
——声をかけられたということだけは、誰も彼も理解していることだった。
誰とは言わないし、何を言われたのかもはっきりしていないのに、誰かと話したという記憶自体はある。
記憶の混濁。それは、一体何によるものなのだろうか。ミナトが起こした症状と同じなのだろうか。
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街灯の間隔は広く、光の届かない場所が通りのところどころに黒く溜まっている。すれ違う人々やミナトの顔は時々照らされては、ふっと暗闇に染まり、この場を飽きさせないように、チカチカと移り変わっていく。
人波の多さはいつも変わらないな、とミナトが歩いていたところで、右側から小さな鳴き声が聞こえてきた。
音の主——小さな黒猫は、一度ミナトをじっと見つめるとそのまま路地裏へと駆けて行った。その黄色い双眸に魅了されてか、ミナトは少しだけ寄り道のように黒猫の方へと向かう。
大通りの喧騒は遠のき、半分ほど閉まった商店街を抜けて、シャッターの降りた店の前を通り過ぎる。
——と、そこで壁の落書きが目に入った。
大きなFの一文字。
白いスプレーで乱暴に描かれたそれに、ミナトは立ち止まった。文字の端から塗料が垂れて、下の方で固まっている。
最近増えたな、と思った。前はこんなになかったはずだ。誰が何のために書いているのかはわからないが、同じ形の文字が街に増えていく様子は、あまり気持ちのいいものではない。
「あ」
そうして視線を戻した所で、あの黒猫はもう一度だけミナトをじっと見つめると、そのまま細い隙間へと通り抜けて行った。
これでは追いきれないと、ミナトは一息をつく。
「あんた、施設の人だろ」
声が、後ろから来た。不意だったので、呼吸をつく暇もないまま振り返る。
ただ、対面する男について、ミナトは記憶がない。三十代くらいで、薄手の黒のジャケットに、特徴のない顔。街ですれ違っても記憶には残らないかもしれないが、少なくともここ数週間で会話した者の中に、こんな人物はいなかったことは確かだ。
「そうですけど、何か」
「話がある」
人通りがない夜道で、男の声は冷たい。状況を正しく理解したミナトは、一歩、右足を後ろへとずらす。
「すみません、もう業務時間外なので。ご相談でしたら、明日、施設の方へ——」
「そうじゃねえよ」
距離が詰まる。街灯の光が、男の顔を半分だけ照らした。目のあたりだけが暗いままで、ハイライトのないように見えて不気味だなと、咄嗟に頭をよぎった。
——まずい。
そう思ったのに、足は動かなかった。
腕を、掴まれる。
男の指が食い込み、骨ごと軋ませるような握力。腕を引かれ、かかとがアスファルトを擦って鈍い音を立てた。
——痛い。
痛みと恐怖で視界が赤点滅する。まずい、まずいと鼓動が早くなっていくのを感じて、必死にミナトは切り抜ける手段を考えた。
そうして、脳みそと掴まれた腕に熱が帯びていくのを感じて——熱が急激に冷えていく。
心臓の音が、ゆっくりと落ち着きを取り戻す。いつもと同じ速さで、いつもと同じ強さで。
悲鳴を上げるべき場面だ。腕を振り払って、なりふり構わず、走って逃げるべき場面のはずだ。そう頭では理解しているはずなのに、ミナトの手は震えていない。
指先の温度も、変わっていない。掴まれた腕の痛みは今も電気信号を送っているのに、それ以外は、冷たい水の中に立っているみたいに、静かだった。
「話を聞くだけでいい。あんたら、最近うちの連中の記録を——」
「すみません」
自分の声が、驚くほど平坦に出た。
「腕を離していただけますか。痛いので」
男の言葉が止まった。数秒の空白。
予想していた反応と違ったのだろう。悲鳴も、抵抗もなく、事務的な申告をするミナトに、男の指の力が僅かに弱まる。
「てめぇ、あんまり舐めたこと言ってんじゃねぇぞ」
それが男の怒りを買ったのか、さらに一歩、詰め寄られる。だというのに、ミナトの心の底は驚くほどに安定している。
「あんた! 何やってんの」
その緊迫に割って入ったのは、年配の女性だった。買い物帰りか、片腕に袋を携えながら、歩みを緩めずまっすぐこちらへと歩いてくる。その後ろから、自転車を押した男性も来ていた。
「んだよ……クソ!」
舌打ちをして、男は路地の奥へと駆けていった。足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
「あんた、大丈夫かい」
「あ……はい。ありがとうございます」
女性は心配そうにミナトの腕に目をやる。腕は男の掴んだ痕がくっきりと残っており、痛々しいと女性は苦い顔をした。
「気をつけなよ。最近このへん、変なのが増えてるから」
そう言って、女性はミナトの顔を覗き込む。街灯の下で、その表情が少し変わった。不思議そうな、あるいは気味悪そうな顔だった。
「……あんた、ずいぶん落ち着いてるねえ」
「そう、でしょうか」
「震えてもいないじゃないか。今の、怖くなかったのかい」
ミナトは、答えられなかった。
「……あんたが大丈夫ならいいんだがねぇ。夜道には気をつけなよ」
女性はそう言って、また歩き出した。自転車の男性も、軽く会釈をして通り過ぎていく。
ミナトはその場に立っていた。腕がまたじんじんと痛みだす。女性と確認した、赤い痕。指の形をした四つの痕。
その痛みは、確かにある。ただ、それだけだった。
それ以外は、冷たい海の底に置いてきたかのように、何も無かった。
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薄暗い部屋に、端末のブルーライトが浮かぶ。幾重にも繋がれた配線は煩雑になっており、何本かは足先にかかっているのだが、当の本人は気にしていない。
机の端に置かれた紙類は少し端がよれたりしている。そんな中で、一際綺麗なのは「設計思想・原案」だった。ただ、タツヤの目はそんなものに興味がないと言わんばかりに、青白い液晶画面に注がれていた。
キーを叩く音は規則的に続く。止まってはまた叩き、止まってはまた叩き、スクロールする指は——止まった。
薄暗い部屋の中、タツヤは何を思ったのだろう。彼の表情は見えない。ただ、
「……ユウト」
その言葉は、暗く、重く、沈んでいた。




