記録No.26『M-0031について』
ミナトとの対話を経て、その夜、ユウトは自室で自分の担当記録を開いていた。担当が外れた契約者については、当然ながら見られる記録も限られている。それでも、名前を辿れば、その後どうなったかくらいは分かる人もいる。
三年間分の記録。電子の海を浮かぶ文字の羅列を一つずつ、目で追った。名前を見て、顔を思い返し、ログから会話内容を拾う。面談室で向かい合って、三十分から一時間、話を聞いた相手だ。彼らの経歴がどうなっているかと、数十件ほど読み進めて気づく。
浮かぶ顔は、思っていたより少なかった。名前を見れば、確かに思い出せる。けれど、名前と顔がすぐには結びつかないのだ。読めば、確かにそういう人がいた事も思い出せるし、会話内容も声色もなんとなく思い出せた。
しかし、顔が出てこない人がいる。ユウトは、画面から目を離した。
三年間の仕事の記憶。全員を覚えているほうが不自然かもしれない。人の記憶にはそもそも限りがあるし、仕事で会っただけの相手だ。
——それとも。
その先を考え、やめた。考えたところで確かめる手段がない。そうやって思考を止める癖が、この三年でずいぶん上手くなってしまったことにも、遅れて気づいた。
画面に視線を戻す。自分がここまで人に無関心だったのかと自虐していた所、画面をスクロールする指が止まった。
M-0031。
定食屋で見た男の番号。ユウトは、記録の詳細を開いた。
フリーゾーン出身。FREE契約者として登録され、後にSAFEへ移行した男だ。
記録を読み進めるうちに、火花が散るようにカイとの会話が掘り起こされた。初めてカイの店を訪ねた日。ユウトが担当していた契約者の話をした時、カイの目つきが変わった。値踏みするような目から、別の何かに。
ぶっきらぼうで、吐き捨てるような言葉だったが、その中にはユウトに読み取れない複雑な思いがあったのは分かっていた。
彼とM-0031には繋がりがあるのだろう。担当記録をざっと見返してみるが、フリーゾーン出身の契約者は他にも数人いる。だが年齢が合わない。移行理由が違う。両方が重なる人物は、この一人だけだった。
——カイさんは、この人を知っている。
ユウトが特徴を挙げた時、既に誰のことか分かっていたはずだ。それでも「そうか」とだけ返した。知らないと言えばよかった。あるいは、知っていると言えばよかった。どちらでもなく、彼は黙るという方法を選んだ。
M-0031。名前はリク。記録によれば、現在はコア地区で働いているらしい。ここからは少し遠い、セミ地区付近の場所を指していた。
——会えるなら、会ってみたい。
メモ帳を開く。
『明日、リクさんの勤務先へ行く』
そう書いて、ページを閉じた。
——————————————————
翌々日、外回りの帰りに、ユウトはコア地区の縁へと向かっていた。
セミ地区とコア地区の境界に近い通り。夕方の五時前は少しずつ気温も下がっており、ビルとビルの隙間風がユウトの髪を揺らした。
業務時間に私情を挟み、記録に残らない形でこんな場に来るとは、我ながら、まともな人間がやることではないなと思う。
カイにも、タツヤにも、後ろめたさがあった。カイにとって触れられたくないはずの場所を、ユウトは強引に探ろうとしている。タツヤには、危険だから止まるよう言われている。それでも、その忠告を聞かずに先へ進んでいる。
2人の用意した枠の外に、勝手に足を伸ばしているのだ。
それでも、知らないまま終われなかった。ユウトは手のひらを強く握りしめ、前を向いた。
リクの勤務先はこの先の角を曲がったところにあるはずだ。フォローアップといった形の定期面談を取り付けたわけではないので、訪ねるつもりはない。ただ、この時間なら退勤の頃合いだ。運がよければ、姿くらいは見られるかもしれない。
尾行と大差ないと考えると、途端に気が重くなる。そう考えていた所で、ユウトは足を止めた。
——視線の先を、缶詰が転がっていた。
一つではない。二つ、三つと、坂道を跳ねながらこちらへ落ちてくる。その後ろを、高齢の女性が危なっかしい足取りで追いかけていた。
何事かと坂の上へ目をやると、買い物袋がひとつ、道の真ん中に転がっている。どうやら袋が破れたらしい。飛び出した缶詰が坂の勢いを拾って、女性の手を離れていったようだった。
通りすがりの何人かは足を止め、転がる缶詰へ手を伸ばす。けれど、坂道を転がるものを捕まえるのは思いのほか難しい。伸ばした指先をすり抜けるたび、缶詰はさらに下へと転がっていった。
そのうち、勢いを付けた缶詰はユウトのすぐ傍まで、甲高い音を立てて走ってきていた。
「……」
そのまま見過ごすのも気分が悪い。ユウトは腰をかがめ、足元まで転がってきた缶詰を二つ、三つと拾って——
その場の光景に目を奪われた。若い男が、坂道の勢いを借りるように大股で走り、缶詰を拾っていく。野生児地味た身のこなしで一つ、二つ、三つ、腕で作った籠の中に缶詰を抱え込んだままこちらへ突進しかけ、
「おわ、ちょっち横に動いてください!」
声に押されるように、ユウトは反射的に身をよじった。進行方向にスペースが空いたことで男はさらに大股になり、最後の一つの缶を手に取ると、そのまま跳躍し、両足で強く大地を踏みしめる。そうして彼は後ろを振り向き、抱え込んだ缶詰を両腕いっぱいに掲げた。
「ほら、全部ありますよ!」
成り行きを見ていた何人かはホッとしたように笑い、女性は坂の上で何度も頭を下げていた。その光景を見て、男が笑いながらこちらへ戻ってきた。
「いやぁ、急に大声出しちゃって申し訳ないです。お婆ちゃんのところへ持っていきましょっか」
特徴的な八重歯を覗かせながら、彼はそう言う。ユウトも頷き、翻って坂道を上がることとした。
「気にしていませんよ。それにしても、すごい脚力でしたね」
「いやぁ、運動得意で……で、そのぉ」
「どうしました?」
両手が塞がっているからか、指先を合わせる代わりに、リクは身体を小さく揺らしている。
「……えっと、設計士さんっすよね。僕リクと言います。覚えてますかね?」
「……あ、あぁ。はい。以前リクさんを担当させていただきました、ユウトです。覚えててくださったんですね」
「いやぁ、忘れられませんよ。人生で一番でっかい書類にサインしたんですもん」
屈託のない笑顔に、栗毛色の髪が揺れる。そうして話しているうちに、リクが抱えていた缶詰のうち二つが、いつの間にかユウトの腕へ移っていた。
「これ、お願いします」
「ああ、分かりました」
あまりにも自然に、はい、と差し出されたものだから、断る理由もなかった。
「えー、ユウトさんはなんで今日こっちに? 営業です?」
「外回りの帰りで。この辺りは確かにあまり来ないですね」
「まーそうっすよね。ここコアの端っこだし。ここら辺、空気緩いから僕好きですけど」
坂の上につけば、女性はリク、ユウトそれぞれの手を強く握った。
「リクくんいつもありがとう。私ってばおっちょこちょいで……そちらのお方は、ご友人?」
缶詰を受け取りながら、女性は改めてユウトの方へ目を向けた。
「まー、ダチみたいなもんっす。つか、お婆ちゃん大丈夫? 今日予定あるんじゃないの?」
「え……あ、そうだったわ。ありがとうリクちゃん、それじゃ、またねぇ」
腕時計に目をやり、女性は慌ただしくその場を後にした。夕方の風が、坂の下から吹き上がってくる。
「……随分、周りの方とは親しいようですね」
「え? あぁ、そうなんですよ。今それこそ外回り的な。契約者さんの様子を見たり、住宅やらなんやらに不満はないか聞いたり。そういうのです。たまに機構の方にも行くんすけど……あのお婆ちゃんとは長くて」
リクは、腕を頭の後ろで組んだ。瞬間、映ったものにユウトは目を細めた。細くもがっしりとした左の前腕。肘の少し下から手首の方へ向かって見えるその白線に、ユウトは目を奪われた。
古い傷跡なのか、もう色は抜けていて皮膚と同化しかけている。線は途中で少し曲がったりしていて、太さも一定でなかった。ただ、深く裂けて、縫った跡が両側に残っているのが痛々しい。
「充実してますよ、けっこう」
「——あ、あぁ。そうですか」
あっけらかんとした物言いと、目に入った古傷との落差で反応が一拍遅れる。
「職場も近いし、給料も安定してるし。この辺の人にもよくしてもらってるんで。何も困ってないっすね」
淀みのない返答だった。そういえば、担当が変わる直前の評価も悪くなかった。むしろ、ほとんどの項目で問題はなかったはずだ。
「——本当に」
リクが、そう続けた。半歩遅れた言葉。後ろ姿からは表情はつかめない。声の調子も、さっきと変わらない。ただ、自分の言葉を、自分で確かめたような言い方に聞こえた。
「……それは、よかったです」
「いやほんとアレですけど、SAFEにしといてよかったですよ。前は色々あったんで」
「色々、というと」
「んー、まあ、フリーの時はやんちゃしてたっていうか」
リクは笑って、腕を頭の後ろから下ろした。そこで思わずユウトは切り込む。
「……それは」
ユウトの視線が、リクの左腕に落ちる。
「その傷も、ですか?」
「——あぁ、これっすか」
リクは、一拍置いた。
「これは……ちょっと、転んじゃって。別の意味のやんちゃっすね。」
「別の意味の……小さいころとかに?」
「そうっすそうっす」
さっきまでと同じ調子の声だった。八重歯を見せて笑ってもいた。
ただ、それ以上は何も言わなかった。
「そうですか。すみません、変なことを聞いて」
「いえいえ、全然。もう昔の話なんで」
いつの間にか、坂の下まで来ていた。
「じゃ、僕こっちなんで。缶詰、ありがとうございました」
「いえ。こちらこそ」
リクが軽く頭を下げて、通りの向こうへ歩き出す。数歩行って、思い出したように振り返った。
「あ、そうだ」
「……はい?」
「そういえば、なんか変わりましたね」
「え」
「顔つきっていうか、雰囲気っていうか。三年前より、なんか」
言葉を探すように、リクは首をひねった。
「うーん、人間っぽい?」
不意打ちだった。ユウトは、返す言葉を持っていなかった。
「あ、前が人間じゃなかったって意味じゃないですよ。すいません。えっと、なんか、前はもっとこう、冷たい人みたいな。取りつく島なくって。今は、なんか普通に喋ってる感じがして」
「……そう、ですか」
「はい。僕今の方が好きなんで、嬉しいですね」
そう言って、リクは手を振った。
「またこの辺来ることあったら、声かけてくださいよ。飯くらい奢りますんで」
「……いいんですか」
「担当してもらった恩ってやつです。ま、僕なんかに奢られたら困るかもですけど」
笑って、今度こそ背を向けた。その背中を、ユウトは見送った。
夕方の人混みの中を、リクの姿が遠ざかっていく。誰かとすれ違うたび、軽く道を譲っているのが、後ろからでもわかった。
――――――――――――――――――――
駅へ向かう道を歩きながら、ユウトはさっきの光景を頭の中で並べ直していた。
いい人だった。三年前も明るかったが、前はより好戦的というか、もっとフリーの人らしさがあった。今はよく笑い、よく動き、人に親切だった。困っている人を見れば駆け出して、坂道を跳ねて、缶詰を掲げて笑う。
それから。
——ちょっと、転んじゃって。
彼のあの言葉を思い出す。あの返答はおかしかった。
リクは転んだ傷だと言っていた。だが、あの裂け方で転倒はありえない。転んだだけで、あんな傷になるだろうか。真っ直ぐでもなく、太さも揃っていない。何か尖ったものが皮膚を裂いた結果のように見えた。
それに、三年前の面談ではあんな傷はなかった気がする。健康状態の欄にも、外傷歴の記載はない。SAFE契約の際には身体状況の申告が必要で、目立つ外傷があれば記載される。
——嘘を、ついている。
その結論に辿り着いた時、ユウトはもう駅の改札の前に立っていた。
いつ、その傷がついたのか。なぜ、隠したのか。
考えても、答えは出なかった。




