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「その救済、同意してますか?」 ——契約社会の幸福証明——  作者: 久遠 蓮見


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記録No.25『貴方の受け売り』

 店は、セミ地区の駅から二本裏に入った通りにあった。

 茶を基調とした褪せた色味が特徴的な、古い喫茶店だった。個室が二つだけあり、予約も名前だけでいい。ユウトがこの店を選んだのは、三日かけて候補を回った末のことだった。

 監視カメラは、入り口にも店内にもない。それは通りを歩いて外観を確かめ、一度客として入り、天井の四隅と棚の上を目で辿って確認した。


 ——盗聴器ってのはな、コンセントの差込口とか、照明の傘の裏とか、そういう「あって不自然じゃない場所」に化けるんだよ。


 いつだったか、カイが店で話していたことがある言葉を思い出す。フリーゾーンでは盗聴器の売買も珍しくないらしく、出回っている型の形状まで、半分冗談のように教えられた。物騒な話だと話半分で聞き流していた知識を、まさか自分が使う日が来るとは思わなかった。

 個室のコンセント周り、照明、テーブルの裏。下見の日に、注文した珈琲を待つ間、それとなく確かめた。結果として何もなかったように思う。少なくとも、カイの言っていた型のものは。

 完全ではない。それはわかっている。小型の監視カメラが実はどんな場所にも取り付けられているかもしれない。しかし、それらは目視で置かれている場所にはないだろう。であれば、あとは堂々と構えるだけだった。


 約束の五分前、扉の鈴が落ち着いた室内で一際響く。


「すみません、お待たせしちゃって」


 ミナトだった。数ヶ月ぶりに見るその顔。頬の強張りは少し抜けていて、顔色も悪くない。ただ、何かを探すように揺れていた瞳が、今は静かに凪いでいた。


「いえ、私が早かっただけです。どうぞ」


 個室の席に向かい合って座る。ミナトはこういった店が初めてなのか、店内を物珍しそうに見回した。


「いいお店ですね。こんなところ、あったんだ」

「たまたま見つけて。個室席ですし、コーヒーも美味しいですよ」

「へぇ、コーヒー……じゃあそれにしようかな」


 和やかな談笑。珈琲が運ばれてきて、店員が個室の引き戸を閉めた。足音が遠ざかって二人になれば、ユウトはさり気なく話題を自分の話したい話題へ持ち込む。


「お仕事は、どうですか」

「はい。今は支援施設の事務です。書類を整理して、来た人の案内をして。忙しくはないですけど、その分、ゆっくりやらせてもらってます」


 病院に運ばれた後、案内により、別施設の仕事に従事することになったそうだ。ユウトは、そこでは上手くやってけているというその言葉に少しだけ安堵した。


「担当が外れてからと言うものの、中々こちらから連絡は出来なかったのでどうなっているかと思っていましたが、顔色含め、調子は良いようですね」

「はい。一番ひどかった頃に比べたら、だいぶ。あの頃は、ほんとに……自分でも、よく覚えてないくらいで」


 ミナトは苦笑した。病院に向かい、フリーゾーンに向かって数日後、通知一つでミナトの担当が変わったことが通知された。担当が変われば当然それ以降のデータもその担当に移ってしまう。ユウトが悶々とした気持ちを抱えていたのはこの為だった。


「話してる途中で、何を話してたか消えちゃったり。人の名前が出てこなかったり。今も、たまにありますけど、前ほどじゃないです」

「そうですか」

「不思議なんですよね。お医者さんは、ストレス性のものだって言ってましたけど」


 ストレス性。機構側の説明としてもそうなるのだろう。あの医者は機構側と繋がっているのだろうか。対話をした感じでは何も知らない人間のような顔だったが、用心に越したことはない。

 ユウトは頷くにとどめた。喉元まで出かかった言葉は、珈琲と一緒に飲み込む。


「まぁ、なんだかんだ溜めてたのかもしれませんね。人も仕事内容も問題ないと思っていても、自分では気づかない感情というのがあるにはありますから」

「そこら辺はそうですね。でも、そのおかげで家族と落ち着いて話す時間も取れたし、今となってはよかったのかなと思ってます」

「家族?」

「はい、母が」


 母親の話になると、ミナトの声がわずかに柔らかくなった。


「倒れた時、一番心配かけたのが母だったので。病院にも、何度も来てくれて。……正直、あの頃の記憶は曖昧なんですけど、母が来てくれた日のことは、なんとなく覚えてるんです。手を握られた感触とか」

「……そうですか」

「今の職場も、母の家から近いからって理由で選んでもらえて。機構の人が、家族の近くの方が安定するでしょうって。ありがたい話です」


 ありがたい話です、と言ったミナトの声に、皮肉の色はなかった。心からそう思っている声だ。精神の安定として家族との会話、そしてそばにおく。

 それは確かに、優しさを形取っている。だが同時に、そうしたほうが都合が良いからだろうという、物事を疑えてしまう自分に、ユウトは少し疲れた。


「母は、僕がSAFEでいることを喜んでるんです。お前は真面目に働きすぎるから、守ってもらえるところにいなさいって。……父が早くに亡くなってるので、余計に」

「……そうだったんですね。申し訳ございません。出過ぎた真似でした」

「あ、いやいやそういう意味で言ったのではなく! ……まぁ、だから、僕がSAFEを続けてるのは半分は母のためなんです。僕に何かあったら、あの人一人になっちゃうから」


 ミナトは、事もなげにそう言った。

 家族の為に頑張ろうとする姿、それでもうまくいかなくなって、救いを求めて機構に来た。あの日の姿が、今の言葉と重なる。ユウトは今のミナトに、機構の内情を話すことが本当に正しいことなのかと、自信がなくなってしまった。


「あ、そうだ。これ」


 空気を変えるように、ミナトが鞄から何かを取り出した。


「……ノート、ですか?ずいぶん小さい。それともメモ帳ですかね」


 そこにあるのは表紙の角が擦れて、丸くなった青いメモ帳だった。相当に使い込まれたようで、中身も白どころか黒が目立つ。


「ユウトさんに、ずっとお礼を言いたかったんです。僕、先生に言われたようにメモすること心がけてて」

「……メモ、続けてるんですか」

「はい。教わってから、ずっと。特にひどかった時期は、これがなかったら仕事も生活も回らなかったと思います」


 ずっと。

 その言葉が、ユウトの胸の深いところにまっすぐ落ちた。

 前に話した内容を思い出せないと零したミナトに、メモを取る習慣をつけてみてはどうかと提案した。マニュアルにない、ただの思いつきだった。報告書にも書いていない、ユウトが彼の事を案じ、考えた上での思いつき。

 その思いつきが、目の前に残っていた。角の丸くなった、青いメモ帳の形で。


「頭から消えても、ここには残ってるので。読み返すと、あ、僕こんなこと考えてたんだって。……変な言い方ですけど、一番しんどかった時期の僕を、このノートが代わりに覚えててくれるんです」

「……たくさん書いているようですね。毎日のように?」

「それはもう。ほら、さっき母に手を握られたとか話したでしょう? このメモにも、ちゃんと残ってるんです。思い出は、ここにちゃんと残ってるんです」


 ミナトは慈しむように、メモ帳の表紙を指先で軽く撫でた。


「だから、ありがとうございました。担当が変わっちゃったから、言う機会がなくて。今日連絡もらえて、よかったです」


 ユウトは、すぐに言葉を返せなかった。

 何百件と面談をこなしてきた中で、誰かに何かを残せたのかを確かめる術がこれまでなかった。記録に残るのは数字と定型文だけで、自分の仕事は、機構のシステムの中を流れて消えていくだけのものだと、どこかで思っていた。

 契約出来れば、担当も変わる。その後の様子を見ようにも、閲覧できる情報は限られており、心のどこかで、その後の姿を見ることは少ないのだろうと思っていた。


 だが、違った。残るものは確かにある。


「……いえ。続けたのは、ミナトさんですから」


 声が少し掠れていたことを、ユウトは珈琲を飲むことで誤魔化した。

 昨日まで揺れ続けていた地面に、小さいけれど確かな、一本の杭が打たれた気がした。


「ミナトさんは今の生活を……どう感じていますか」


 ミナトはカップを両手で包んだまま、きょとんとした顔で、そのまま考え込むようにコーヒーの水面を見つめた。


「幸せ、なんだと思います。苦しいって思うことはないし、夜も眠れるし。母も、近くに住めて安心したって」

「はい。それなら、良かったです」

「ただ……」


 そこで、言葉が止まった。飛んだのではない。続きは頭の中にあるのに、それを口に出すための形を、探している。そういう止まり方だった。

 そうしてミナトはメモ帳を再度開き始めた。ページをゆっくり遡っていき、そして、あるページで手を止めた。


「……これ、少し前に書いたやつなんですけど。読み返してて、見つけて」


 メモ帳はテーブルの上で半回転して、ユウトの方に向けられた。

 書かれていたのは、短い走り書き。言いようのない気持ち悪さに包まれたのは、綺麗な字を書くミナトとは思えない、ガタついた書かれ方をしていたからだろうか。


『おだやかなのは、いいことのはず。でも、これをえらんだおぼえはない』


「書いた日のことは、覚えてるんです。仕事帰りに、急に、書いておかなきゃって思って。何がきっかけだったのかは、思い出せないんですけど」


 選んだ覚えがない。

 震えのある文字で書かれたその一行。それでも、強い意志で書いてあるその文言に、ユウトは口を押さえることしかできない。


「ユウトさん」


 ミナトが顔を上げた。凪いだ瞳のその奥で、何かが微かに動いていて、ユウトはその瞳に吸い込まれる。


「僕、変ですか。困ってないのに、こんなこと書いてるの」


 問われて、ユウトは答えを探した。慎重に、けれど嘘のないように。


「……変じゃ、ないと思います」

「そうですか」

「その一行を書いたことも、それを私に見せてくれたことも。多分、自分が自分でない感覚を持っているからこその不安かもしれません。でも、私だって、私とは何か?と聞かれたら答えることはできない。今、自分自身を見つめ直す機会を得れていると、そう前向きに捉えれば良いのではないでしょうか」


 ユウトの言葉が終わるまで、ミナトはユウトの目を見つめ返していた。そうして言葉を受け取り、手元のメモ帳の文字に目を落とす。何かを思ったのか、ミナトは目を瞑り、静かにページを閉じた。


「……なんだか、すみません。せっかく会いに来てくれたのに、僕の話ばっかり。でも、見つめ返すっていうのは、その通りですね」

「私が、聞きたかったので。ありがとうございます」

「はは、ただユウトさんも疲れてる顔してますよ」


 どきりとした。


「前の僕、そういう顔してたなって思うんです。家の鏡とか見るとしょっちゅう。だから、わかるんです。……仕事、大変なんですか。それとも、別の何かですか。僕が聞くのもアレでしょうけど。先生は、自分で解決しようとしそうですから」


 ミナトはそれ以上踏み込まなかった。何の悩みか、とは聞かなかった。代わりに、少しだけ笑って言った。


「そういう時は、書くといいですよ。誰にも見せなくていいので。頭の中でぐるぐるしてるものって、書くと形になるので」


 そこで、ミナトはいたずらっぽく付け足した。


「……先生に、教わったんですけどね」


 ――――――――――――――――――――

 店の前でミナトとは別れた。

 ミナトの家は駅と反対方向らしい。街灯の間隔の広い道を、ミナトはゆっくり歩いていく。その背中が光をくぐるたび、明るくなり、暗くなり、やがて角の向こうへ消えていった。


 見送った後、ユウトは駅への道を一人で歩いた。


『これをえらんだおぼえがない』


 あの震えた文字が、目の裏に残っていた。

 穏やかさの底で、ミナトの中の何かが、確かにそう書いた。きっかけを思い出せない場所から、それでも紙の上に残ったそれが、ユウトの心にも残っていた。


 ——書くと、形になるので。


 ミナトの声を思い出して、ユウトはメモ帳を開いた。業務のことばかり書かれた、整理された文字の羅列。


『知らないまま、終わらせたくない』


 書いてみると、それは思っていたより確かな形をしていた。


 ペンを置き、ノートを閉じる。誰にも見せない、記録にも残らない、ユウトだけの言葉を、静かに閉じた。

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