記録No.24『守りたいものの形』
翌日、資料を鞄に収めて、ユウトは家を出た。夜中にこっそり目を通すこともできたが、結局はそれをしなかった。薄氷の上で成り立っている信頼関係だ。わざわざ踏み抜くリスクを考慮するくらいならば、タツヤに言われた通りに資料を読まないでいる方が賢明だろう。
原本のコピーはタツヤが持っている。ユウトの役目は、丁寧にクリアファイルにはせたこの原本を元の場所に戻すことだった。
「Lim」——追加された筆跡。古い資料だから紙は色褪せている。だが、折れ目や傷はほとんどついていない。抜き取られていると気づかれる余地は少しでも減らすべきだ。下手を踏まなければバレることはないだろう。
太陽はいつも通り、爛々と輝いていた。ただ、それだけが、妙に現実味を欠いているなと、ユウトは内心で呟いた。
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機構の乾いた空気はいつもと変わらない。読み取り機の電子音も、給湯室から香るコーヒーの匂いも。喫煙室での談笑や、すれ違う人たちの笑顔も、何も変わらない。
その笑みは、本人の心の底から出たものなのだろうか。
一度想像してしまえば、もう遅い。彼らの表情は貼り付けられた仮面のように見えてしまう。その笑みを、疑う様子もない。
苦しみを取り除くとは一体どういうことだろうか。確かに仕事の文句を言う人間を、ユウトはほとんど見たことがなかった。営業という、ある種同期の出来次第で優劣が決まる勝負事のような職種であるにも関わらず、だ。同期も先輩社員も、驚くほど静かだ。どちらかと言えば、後輩社員……いや、入りたての社員の方がぼやいていたように思える。
ユウト自身は文句を言っていただろうか。すれ違う社員に挨拶を返しながら、頭の後ろでそんなことを考えている。
業務中にそんな考え事をしていても、ユウトはいつも通りに仕事をこなせていた。契約にきた顧客に案内を行い、どの契約にするかを選んでもらう。SAFE契約に対する不信感は溜まるものの、他を進める選択肢もない。現状維持という提案も、相手が首を横に振れば、あぶくのように消えて無くなる。
『苦しみを取り除くことで、人は前だけを見て歩みを進めることができる。過去の反省も、失敗も、不要と断ずる』
昨日の言葉が蘇る。目の前の契約者は、これからSAFEとして生きていくのだ。ユウトはそのための入り口の手続きをした。
——果たして、この人はこれから「前だけを見て」進むのだろうか。過去も、失敗も、苦しみも。
マイナスは消えて、傷はいつか癒えていくのだろうか。
「どうされました?」
契約者が、不思議そうにユウトを見ていた。反射的に端末に目を向けて、言葉尻が早くなりながら言葉を返す。
「……失礼しました。手続きは以上です。案内に従っていただければ、問題ありませんので」
案内に従った先に、何があるのか。脳内で自身の言葉に殴られる。感情乖離状態というやつになってしまうのだろうか。ユウトも、みんなも、いつかそうなってしまうとして。
——苦しみを取り除くことが、間違っているのか。
苦しみに潰されて死んだ人間を、ユウトは知っている。
父だ。もし父が、苦しみを取り除かれていたら。前だけを見て、進めていたら。あんな風に死なずに済んだのかもしれない。
そう考えると、機構の思想が急に正しいもののように思えてくる。
自分は、何に怒っているのか。何を暴こうとしているのか。
言葉と中身は噛み合わない。ユウトは、対面する契約者と同じように笑うことが、どうしても出来なかった。
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昼休み、人が減った時間を見計らってユウトは旧資料室へ向かった。
長い廊下の突き当たり。あの日と同じ、埃と無機質の匂いだ。誰も旧資料室に入っていなかったようで、蛍光灯が二拍遅れて点く。
後からくる社員に不審がられてはいけない。設計部門に着き、直ぐに鞄から「設計思想・原案」を取り出して、資料を置こうと——
「……あれ、ユウト?」
紙のわずかなざらつきを感じているところで、身体が跳ねる。背後の声の主に対して、ユウトはぎこちない笑みを浮かべた。
「ナガセさん……お疲れ様です」
「うん、お疲れ様。珍しいとこいるじゃん。なんかフォーマットミスとかあった? 特にこっちに連絡無かったけど」
軽い調子のまま、覗き込むように近づいてくる。咄嗟に資料を奥へと押し込み、体を反転してナガセのほうに合わせた。
「……古い書式を、確認したくて。契約のフォーマットが、昔と変わってるのか調べる必要があって」
口にしてから、我ながら苦しい言い訳だと思った。休日でもない昼休みに、担当外の資料室まで足を運ぶ理由としては、あまりに薄い。
だが、ナガセは深く追及しなかった。
「へえ、真面目だなあ。昼飯も食わずに?」
「あ……いえ、これから食べます」
「だろうな。顔、白いぞ。ちゃんと食ってる? 食堂とかでちゃんと食べときなよ」
拍子抜けするほど、あっさりしていた。ナガセはユウトの言葉の中身より、ユウトそのものを見ていた。嘘の出来を検分するのではなく、ただ、目の前の同期の顔色を案じている。そういう目だった。
「今日お土産でクッキー置いてるから、よかったら食べなよ。栄養補給はお菓子でもいいもんだぜ」
それだけ言って、奥の棚の方へ歩いていく。
背中を見送りながら、身構えていたものが、するりと抜けていくのを感じた。ユウトは、ふっと笑ってしまう。
——何を警戒していたんだろう。
疑われるとか、咎められるとか。そんなことは最初からなかったみたいに。さっきまで頭の中で固まっていたものが、少しだけ緩む。
「なーに笑ってんだよ」
「いえ。ナガセさんは、変わらないなと思って」
「……? 変わらないって、僕がユウトと最近会えてなかったのは分かるけど、そんななんかわかりやすいのあった?」
「いえ、そんなことないですよ」
よくわからないなという素振りでナガセは首を傾げる。
「んー、最近無理してんじゃないの。なんか、痩せた気がするけど」
「そんなこと、ないですよ」
「そう? ならいいけど。棍詰めしてるのかなって。ほら、やりがい持って仕事してる感じだったじゃん。ユウトって」
「……やりがい、ですか」
思い出すように呟くナガセの言葉を、ユウトは繰り返す。
「そう。契約者が笑って帰ってくの見ると、ああ、いい仕事したなって思うでしょ? ユウトってそういうの多分僕より真剣に感じてる人だと思うんだよね」
ナガセは、心からそう言っていた。疑いもなく、屈託もなく。
ただ、ユウトの脳裏には別の光景が重なった。契約直後の涙。病室での虚ろな瞳。それとは正反対の、屈託のない笑みに、仮面のような笑み。
笑って帰った契約者たちは、その後どうなったのだろうか。ユウトに「問題なし」と打たれた、そして他の設計士に「問題なし」と打たれた彼らは今、どこでどんな顔をしているのか。
ナガセの言う「いい仕事」の正体を、ユウトは昨夜知ってしまったのかもしれなかった。だから、素直には頷けなかった。
「……そうですね」
辛うじて、それだけ返した。喉の奥に、何かを引っかけて。
「あ、やっぱ元気ない。まぁ無理すんなよ。ユウトが倒れたら、コウもしょげて、レナだって落ち込むんじゃない?」
そう言って、彼はその長髪を揺らして軽く笑ってみせる。
この男は、何も知らない。機構がどんな思想の上に成り立っているのかも、契約者が笑って帰る、その先に何があるのかも。知らないまま、「いい仕事だ」と信じて、今日も誰かのために奔走している。
その無邪気さが、今のユウトには眩しく、そして同時に恐ろしくも見えた。
この明るさも、いつか損なわれるのだろうか。何かの拍子に機構の深いところに触れ、あるいは、知らぬ間に少しずつ削られて。ある日、自分が変わったことにすら気づかないまま、別の何かになってしまうのだろうか。ミナトのように。あの、笑って帰っていった契約者たちのように。
変わらないでいられること。それが、どれほど得難いものか。ユウトは今、それを知りかけている。
目の前のナガセは、明るく、屈託がない。この男の持つ光のような善性は、きっと、生まれ持った気質と恵まれた場所で育った時間が、ゆっくりと作り上げたものなのだろう。
この明るさも、いずれ均されてしまうのだろうか。それとも、感情はダムのように決壊してしまうのだろうか。
そう考えた途端、さっきまで軽くなっていたはずの胸の奥に、別の重さが落ちてくる。
嫌だ、と思った。
理屈ではなかった。自分の立っている場所が正しいのかどうかすらわからなくなっている。機構が正しいのかもしれない。幸せの定義は人それぞれのはずだから。
それでも、目の前で「いい仕事だ」と笑うこの男が、その言葉を、その笑い方を、いつか失ってしまう未来。それだけは見たくなかった。
守りたいものは、彼らの心の底からの笑顔だ。ようやく、ユウトの思いが、輪郭を持った気がした。
「……ナガセさん」
「ん?」
「いえ……ちゃんと、飯食います」
「おう、素直でよろしい」
ナガセは満足げに頷いて、書類を抱え直した。行くわ、と手を振って、廊下の方へと去っていく。
その姿を見て、揺らいでいた足元が、また少しだけ固さを取り戻していることに気付けた。何を暴きたいのか、何に怒っているのかは、まだわからない。
それでも。
守りたいものの形だけは、さっきよりはっきりしていた。
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旧資料室を出て、廊下を歩いた。さっきよりも、この足は、強く床を踏み締めている。
ユウトの守りたいと言う強欲を満たすためには、力も、知恵も必要だ。今の戦力では不十分だろう。ユウトが機構の謎を知るためには、もっともっと戦力となる協力者が必要だ。
相談して、話を聞いて、手を取り合える仲間。
もし、状況が許すなら話せるかもしれない。自分が今、何をしようとしているのか。何を見てしまったのか。
これも、勝手な行動なのかもしれない。タツヤは望まないだろう。でも、これは機構のシステムを使うわけではない。個人的な連絡だ。
そう自分に言い聞かせ、発信の文字に、触れた。
3コール目。電話越しで驚いたような、それでいて少し嬉しそうな声が聞こえる。
「お久しぶりです。経過はどうでしょうか?」
「……あ、お久しぶりです。珍しいですよね。どうかされましたか?」
「いえ、少し世間話でもしたく。急な連絡にはなってしまいましたが、本日中のどこかのタイミングでお話しできませんでしょうか?」
そう伺うと、声の主はより一層、声を明るくして答えた。
「勿論いいですよ、先生」




