記録No.23『Lim』
扉を二回叩くと、返事より先に鍵が開いた。
「遅い」
タツヤの声が飛んできた。顔を出す前から、その温度でわかった。声色は、怒りで染まっているわけではなかった。心配の色にも染まっている。数ヶ月でそれくらいはわかるようになっていた。
「すみません、少し手間取って……あれ、五分前には着けるようにしたはずですが、遅れてしまいましたかね」
「手間取って、の顔じゃないな。まぁいい、入れ」
確認するように腕時計を見やるユウトを無視して、タツヤは踵を返す。時計の故障かと思えば、端末も同じ時間を指しているので、ユウトは首を傾げながらタツヤの後ろについて行った。
中に入ると、カイが作業台の端に腰を預けていた。ユウトの顔を一瞥して、何も言わなかった。遅れて気がつくのは、テーブルの上に置かれた数枚の紙だ。見慣れないそれはユウトのものではない。
「取れたのか」
ユウトに座るように促しながら、タツヤが聞いた。逸る気持ちを抑えている。そんな声色だ。
「はい」
鞄を台に置いて、早速ユウトは持ってきた成果——「設計思想・原案」を取り出す。タツヤの手に渡った瞬間、その目つきが変わった。
「……本当に取ってきたのか」
「途中で人が来ましたが、何とか」
カイが小さく息を吐いた。咎めているのか、安堵しているのか、どちらとも取れる音だった。
「……その来たヤツってのに、バレてはないんだな?足つけられてるわけじゃあないと」
「はい、恐らく。旧資料室に入る前、入った後どちらも誰かとすれ違ったわけではないので。トラブルで室内で接触の危険はありましたが……回避できたと思います」
「そうか、よくやったな」
タツヤはすでにページをめくり始めていた。時々顎に触れては、深く息を吐いている時がある。中身を見る余裕はなかったが、そのまま中身を見ずに来いとタツヤから指示もされていた。
だが、気になるものは気になる。ユウトとしても、ここから得られる情報でより詳細な、核心に迫る機構の事実を知れるかもしれないのだ。ユウトはコーヒーを一口含み、タツヤに申し立てる。
「少し、読み上げてもらえますか」
ユウトの希望に、タツヤは顔を上げない。そのまま資料に目を通し続けている。
「読み上げる、か」
「角度的に見えないので」
小さく考える様子を見せるタツヤだが、ユウトの提案はバッサリと叩き斬られる。
「この資料はコピーを作っておく。その上で、中身は俺が掻い摘んで説明する。いいか」
「理由は」
「この手の資料は、どこが重要でどこが読み飛ばせるかの判断も必要だろう。それは近い時期にいた俺の方が早い。それだけだ」
「それは」
本当にそれだけだろうか。資料を早いうちに旧資料室に返しておく必要はあると思うが、結局コピーを作るのであれば、ユウトも同じように読み込んでもいいのではないだろうか。
「それだけか」
「それだけだ」
そんな納得感の無さを露わにしようとしたユウトより先に、カイがタツヤに向けて呟く。当然のようにタツヤはカイの方を見ないし、カイもその行動を咎める様子がない。
ユウトはその短いやり取りの中に、もう一つの意味を感じた。内容は、きっとタツヤも知らない。知らないまま渡すことへの、タツヤなりの判断がそこにあるのだろう。それに、ユウト側の事を完全に信頼しているわけではないのかもしれない。あくまで協力を頼み込んだのはこちら側だ。
大人しく引き下がろうとして、
「わかりました。ただ、概要だけでも」
「強情だな。まぁそれなら問題ない。冒頭だけ読むぞ」
タツヤがページを始めの方へと戻した。低い声で、読み上げ始める。
「『本制度の設計思想は、人間の幸福の定義から始まる。幸福とは苦しみのない状態か、あるいは苦しみを乗り越えた先にあるものか。本制度は前者を選択する。苦しみを取り除くことで、人は前だけを見て歩みを進めることができる。過去の反省も、失敗も、不要と断ずる。誰もが高い知能と幸福感を保つことで、世界中の人間が完全なる幸福を享受することができる。それが最大多数の幸福に繋がるという判断のもと、本制度は設計された』」
タツヤの言葉が止まる。室内は途端に静寂に包まれ、生唾を飲む音ですら、鮮明に聞こえるほどだった。
ユウトは、聞いた言葉を頭の中でもう一度なぞった。それは理解できるはずの言葉だったのに、何故かユウトの脳内は拒絶を示していた。
苦しみを取り除くことで、人は前だけを見て進める。その言葉を反芻しようとしたところで、ミナトの声が重なった。
「何に助けてほしいのかわからないんです」
あれは、苦しみだけを取り除いた結果なのだろうか。それが、偶然や運命といったものではなく、因果性のない『苦しみ』だけを取り除いたことが要因なのだとしたら。
胃の奥が、冷えていくような感覚を覚える。
「……苦しみを取り除く、というのが」
「制度の目的だ、と書いてある。方法は冒頭には書いてないな。続きも読んでいるが、多くはこの社会における問題提起が多い」
タツヤはページを巡り、また黙って読み始めた。その間、ユウトは何も言わなかった。冒頭のたった数行。それだけで、疑問が尽きることがなかったのだ。機構の目的は『すべての市民が、自分に合った生き方を自由に選択できる社会の実現』のはずだ。選択の自由を保障し、一人一人の意思を尊重した上で、社会を明るくしていく。
ただ、これでは。
「……悪趣味だな。苦しみを取り除いてやろうだなんて、神にでもなったつもりかよ」
吐き捨てるようなカイの言葉に、ユウトは何も言えないでいた。
そのまま数分が経った。無音に耐えきれなくなったのか、カイがテーブルに広げていた紙をそのままユウトの方へと渡してきた。
「カイさん、それは」
「フリーゾーンで拾った話だ。きな臭い話を聞かされたからってのは仕方ないが、んな面されたらこっちの気の持ちようも下がる」
カイは紙を一枚手に取った。そのままユウトに押し付けるように手渡してくる。
「先に言っておくが、こっちは商売でやっている。お前の依頼を受けて、だ。成果には成果で答える。そんな重要な情報をポンポン持ってこられちゃ、こっちのメンツが立たねぇ」
紙を受け取りながら、ユウトは少し考えた。
「対価が必要だということですか」
「そういうことだ。今回はまぁ、方向が一致してたから話した。次はそのつもりでいろ」
ぶっきらぼうなその態度に、ユウトは小さく頷く。
「わかりました」
「わかりました、か」
カイが小さく鼻を鳴らした。呆れているのか、それ以外の何かなのか、判断がつかなかった。
「本題だ。最近フリーゾーンで、FREE契約者がSAFEに移行するケースが増えてる。それも急にだ」
「……SAFEへの移行自体は珍しくないですよね。フリーゾーンからも申請はできますし」
「普通はな」
ユウトは資料を手に取り、眺めながら呟く。確かに、この資料ではFREE契約者の移行を指し示していた。
「だが、フリーゾーンからの移行は書類も多いし、審査も長い。そんな手間をかけてまで移行しようとする人間が、急に増える理由がわからない。しかも境界に近いエリアほど多い」
「セミ地区との境界ですか」
「そうだ。機構側で何か聞いてたりはするか」
「いえ、セミ地区からの移行者の話は聞いていますが、フリーゾーンからというのは初めてです」
ユウトは少し考えた。セミ地区からの未契約者がSAFEに移行するケースが増えているという話は知っていた。だがフリーゾーンから、それもセミ地区との境界に近いエリアから、という話は初めてだった。
次のページを調べてみると、マップ付きで移行者の変遷が記載されている。カイの言葉の通り、セミ地区境界からの移行が多い。
しかし、ユウトには彼らの情報についてピンとこなかった。他の部署が担当しているのだろうか、情報秘匿性の高い機構の内部事情より、この資料について読まされても、ユウトは何もアイデアが思い浮かばなかった。
だからこそ、機構内では無く、移行者本人の問題によるものとも考え、呟く。
「何かきっかけが——」
「きっかけがあってたまるか」
ユウトの想定を、カイの声が低く、遮った。
「あいつらがSAFEに移りたいなんて、俺は一度も聞いたことがない。そんなことするわけがないんだ、あいつらは……」
ユウトは、その声に怯んだ。何かを言おうとして、言葉が出なかった。反射的に顔を上げるカイの瞳は明らかに狼狽しており、逡巡し、さまざまな感情が去来したのが伝わった。
数秒の、短い沈黙。
「……すまん」
カイの声のトーンは、落ち着きを取り戻していた。それ以上は何もなく、謝罪の説明も、続きの言葉もなかった。それに対し、遠慮するように「いいんですよ」とも言えなかった。許す許せないという問題では無く、反応を示すことが、カイにとって悪いことのように感じられたから。
タツヤが、資料から目を上げずに口を開いた。
「カイの言ってることは正しい」
静かな声だった。フォローするわけでも、場を取り繕うわけでもない。ただ事実を置くような言い方。
「俺も機構にいた。中から見てた人間として言うと、FREE契約者をSAFEに引き込もうとする動きは、ずっとあった。ただ強引にはやれない。だから時間をかけていたはずだ。急増するほどのプロパガンダはこの地区には広まっていない」
「ならどうして」
「わからん。だからこれを読んでる」
タツヤはそういって、資料から目を離してテーブルの上に置き直した。そのままあとでコピーを取るつもりなのだろうが、ひとまずは資料に目を通し切ったという合図だ。
「色々と思うところはあるが、俺でも分からんし、明らかに異質な箇所があった。これは機構の——ユウトが来てから記載された内容かも知れん。今の機構では普通の言葉なのか、ユウト、心当たりはあるか?」
タツヤの目が、ある一点で止まった。同時に該当箇所を指差すものだから、ユウトもカイもそこに自然と吸い込まれる。
タツヤの目線は、ページの端に近い位置だった。
「——これだ」
声のトーンが変わっていた。タツヤにとっても馴染みのないというその言葉。
「……本文は活字っぽいよな。確かに、ここだけ違う」
先にカイが気づいて呟く。違いの特徴が示されれば、遅れてユウトも気がついた。
段落の余白に近い位置に、他の文字とは質感が違う崩れた字体で、三文字だけ書かれていたそれを。
「Lim」
意味がわからない、聞いたこともないアルファベット三文字。本文の活字に混じって、誰かが書き足したように、そこにあった。
「これは」
「その反応なら、ユウトも知らないみたいだな」
タツヤが冊子を手元に戻した。
「手書きということは、印刷段階では存在しなかった。誰かが後から書いたものだろう。誰が書いたかは分からんし、少なくとも俺もピンと来ていない」
驚きでも、進展したことに対する喜びでもない、もっと複雑な何かを抱えた表情で、タツヤはそう呟いていた。
「タツヤ」
「……一旦コピーを取る。ユウトはこの資料を元の位置に戻しておいてくれ。追加の筆跡があるなら、またこの資料を利用しようとしたやつに勘付かれるかもしれん」
カイは何も言わなかった。何か言いたそうにタツヤの名前を呼んでも、タツヤが取り合わないのだから、カイは引き下がるしかない。
「タツヤさん」
「なんだ」
その様子を見て、今度はユウトがタツヤの名を呼ぶ。
「続きを取りに行く必要がありますか」
「——逸るな。今夜中に結論は出ない。コピーはすぐに取るから、お前は一度帰れ。中身は、出来るだけ読むな」
「でも」
「帰れ。それが必要だ」
声は穏やかだった。怒ってはいなかった。それでも、これ以上は続けないという意志が、その一言には入っている。
「……分かりました」
新たな情報と、新たな疑問。それらによる感情への影響は大きい。得体の知れない気持ち悪さが、この室内にいる三人の胸中で渦巻いていた。




