記録No.21『息を殺して』
――息を止める。
これは自分自身が能動的に行動することで起きる現象だ。こと唐突に起きた出来事に対する適した表現ではない。
――息が止まった。
ユウトの今の状態を評するに適した表現だ。石化したかのような硬直時間。肺が膨らもうとするのを、意志の力だけで抑え込む。その代わりに、心臓の音が自分の体の内側で反響していた。棚の外、この部屋の外にすら聞こえてしまうのではないかと言うほどの大音量が、鼓膜の内側で鳴り響く。
ただ、廊下は静かだった。ユウトの硬直と同様、世界の時間が止まったかのような感覚。音を立ててから、どれくらい経ったのかわからなかった。十秒かもしれない。三十秒かもしれない。ゆっくり、ゆっくりと呼吸を始める。冷房が弱いこの部屋の中で、嫌な汗が吹き出てくる。
散らばった書類。それを見て、またもユウトは反射的に紙束に手を伸ばす。兎にも角にも片付けなければならない。屈み、手を伸ばし、棚下に差し込まれた紙も含めて1枚1枚丁寧に――
「――――!」
音を殺しながら動いていたからか、ユウトは扉の方を振り返る。
廊下の奥から、足音が近づいてくる。手が宙で止まり、拾いかけた紙束は、そのまま床に置かれる。まるでひとりでに散らばったかのように、バラバラになった紙束に目もくれず、ユウトは大股で扉の方へと向かい、蛍光灯の灯りを消す。途端、小さな窓だけの明かりのない部屋が完成する。鼓動音は再度加速を始め、ユウトは歯を食いしばりながら棚の裏側に滑り込む。
「――――ッ」
暗闇の中、棚の感触を頼りに奥へ進んでいたユウトの膝に棚の底部が襲いかかる。鈍い痛みに、黒の視界が一瞬白飛びする。再度奥歯を噛み締め、ユウトは奥へ奥へと、音を殺しながら、それでも急ぐ。
設計部門の更に奥へ、奥へ。最奥に辿り着き、そこで身体を屈めて再度息を殺した。
そうして二度目のしくじりに気づいたのは、引き戸が開く音を聞いてからだった。
ユウトは今、この暗闇の中で隠れている。もし見つかれば、それ自体が致命的だった。この状況下でユウトが演出したかったことは、独りでに棚にあった紙類や箱が床に落ちて言ったという虚構だ。書類を落とした当事者が、棚の陰に身を潜めている。暗闇の中で、何故かこんな最奥の中で。どう説明しても、言い訳にすらならない。
自分が作った嘘が、自分を苦しめる状況になっていることに今更気づく。
たまたまぶつかってしまった体を装えば、まだ誤魔化しが利いたかもしれない。書式の確認に来た、通りがかりに棚に当たってしまった、そういう言い方なら、何とかなったかもしれなかった。自分自身で、この部屋にはフォーマットの確認だとかで利用する人間はいると認識していたはずなのに。焦り、結果として全てが裏目を引いてしまう状況を作ってしまった。
だが、もう遅い。
隠れてしまった。この判断が正しいか、間違っているかは分からない。ただ、取り消せない行動をした。今さら出ていくことは、不可能だ。足音はもう扉の前にまで来ているし、今から電気を付けて、再度設計部門の所へ向かうなど現実的ではない。
足音が、室内に入ってきた。続けざまに蛍光灯の明かりが点る。ユウトのいるこの最奥はまだ暗く、棚が影となり、余程がなければユウトのこの場所がバレることは無いだろう。
ただ、異様なほど静かなこの部屋が、ユウトに嫌な予感を彷彿とさせていた。部屋に入ってきた主のその足音は、靴底が床を撫でるぎりぎりの音しか立てていない。焦っていたり慌てておらず、一つ一つの棚を確認していくかのように、ただ着実に、奥へと向かっていた。
「――これか」
低い声。微かに聞き取れたその声は、おそらく男性の声だろうか。暫く書類を拾う気配があった。棚に戻す音も続けて聞こえ、ユウトの落とした書類を片付けていることがわかる。
この場から逃げ出してしまいたい程の重圧の中、その様子を見ることすら出来ないユウトは祈ることしか出来ない。出来ることならば、このまま扉の方へと向かって欲しいと、神に祈る。
――しかし。
手前の棚、次の棚、また次の棚。足音が、近づいてくる。痛みと、恐怖と、焦りと、様々な感情が腹の底で渦を巻き、視界がチカチカと赤く点滅する。
音を殺していると言うのに、少しでも気づかれないようにと、ユウトは手で口を覆った。例え向こうの人物が誰であっても、ユウトの行動は異常だ。向こうの主がどんな人間であれ、向こうの主経由で悪評が広まり、ユウトたちを疑っている者に通達されてしまうかもしれない。
ユウトの棚まで、あと二列。暗闇の奥の奥。バレるなと、何度も何度も頭の中で祈り続ける。
「無いよな」
そうして、足音が止まった。呼吸を止め続けていたユウトは、肺が悲鳴を上げ始めていても、息を殺し続ける。少しの動作も許されない。布ズレの音すら聞こえないよう、ユウトは固まる。
――五秒。
音が一度消えて、踵を返す足音が室内で反響する。鈍い金属音と擦る音が鳴り、引き戸が閉まった。
引き戸が閉まり数秒、ようやくユウトは大きく息を吐く。空気を取り込もうとして、その量の調整を間違えて咳き込みそうになる。口を閉じ、むせそうになるのを涙目でこらえ、深呼吸。
ユウトはその場にしばらく座り込んだままだった。呼吸が緩やかになっていき、身体中の熱がゆっくりと、正常に戻っていくのを感じると、今度は自身の膝の震えに気づいた。
立ち上がろうとして、足に力が入らない。
「――はは」
乾いた笑いが、自分でも止められなかった。あれだけ息を巻いて、結果がコレだ。自身の度胸の無さを叱責するように膝に指を食い込ませ、なんとか身を起こす。
慎重に棚の側部を頼りに、設計部門の元へと身体を寄せる。暗かったものの、落ちていた書類が棚に戻されていたことを確認する。一枚として床に落ちていない。
であれば、長居はできない。蛍光灯の明かりをつけ、設計部門の棚を再度探る。今度は慎重に、周囲との距離を確かめながら。
「――これか?」
色褪せた書類。手に取ったそれの背表紙を確認する。
「設計思想・原案」
「試験記録・第一次」
咄嗟に見つけたのは、その二冊。並んで置かれていたので、恐らく近しい内容だろう。わずかに震える手の中、「設計思想・原案」のみを抜き取る。表紙は古く、端が少し折れていたそれだけを抜き取るのは、ボリュームの問題だ。少なくとも、中を開く時間はない。
原案というこの言葉の重み、足音が戻ってくれるかもしれない恐怖。理屈を並べ続けたが、最終決定は迷う余地のない直感だった。
たまたま旧資料室に出入りした人間が気づかないようにするためにも、抜き取れる量はこれくらいだろう。カモフラージュ代わりとして、別の冊子をズラす。
木の葉を隠すなら森の中だ。パッと見では、抜き取られたとは見えない。
棚の中身を整え直し、先に照明を消してから扉に向かう。
扉に向かいながら、ユウトは廊下の気配を確かめた。耳も、扉の前で近づける。足音はない。人の気配もない。出待ちという事は無さそうだ。
慎重に、キィという音を最小限に抑えながら、廊下に出た。ちらりと向こうを見ても、長い廊下の先には誰もいなかった。
ユウトは振り返らずに、歩き出した。この長い廊下から、逃げるように。
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機構の建物を出て、陽射しに目を細める。鞄の中を開くことは出来ない。たまたま見えてしまったなどがあってはならない。
タツヤに資料を取ってきたことを連絡する。どうやら携帯に張り付いていたのか、返信は、すぐに来た。
『そうか。色々言いたいことあるが、とにかくすぐ来れるか』
ユウトは返信前に一度空を見上げた。雲一つない空。ユウトの心の中の曇天に相反するそれを小さく睨みつけ、
『向かいます』
打って、歩き出した。




