記録No.20『潜入と確信』
一度自宅に戻ったユウトは、自身の携帯から通知が来ていることに気づいた。内容は今月の仕送りについてだった。もうそんな時期かと小さく息を吐き、そのまま振込画面を開く。
毎月、同じ金額を同じ口座に。一応それらに目を通して、送信ボタンを押す。一人暮らしをしているユウトは、これまでの恩を返すつもりで仕送りをしている。その対象は両親――ではなく母親だ。
父親は既に他界している。元々SAFE契約者であるものの、コア地区から態々電車で二時間ほど揺られてセミ地区で働いていた。金銭面のやりくりもしていたのだろう。ユウトは不自由なく過ごせていたのだが――父は汚職に巻き込まれ、自ら命を絶った。
何故今更振り返るのだろう。過去のことと割り切れたはずなのに。汚職といった社会の闇、黒い部分に今日、別の角度で近づくからかもしれない。
そう思い更けていると、再度携帯が振動する。内容は母からの反応だった。うさぎの着ぐるみが、虚無の顔で親指を立てているスタンプだ。いつもながら、もう少しセンスをどうにかしたほうがいいと思う。
母からの返信に表情を緩ませ、ユウトは玄関へと向かった。
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機構の建物は、休日でも完全には閉まらない。受付には少人数の人間がいて、警備の人間も巡回している。ただ、業務で動いている職員はほとんどいない。
入館証を通せば問題なく入れる。読み取り機が反応した証である小さな電子音。ガラス扉が開けば、外気とは違う乾いた空気が肌に触れた。特に理由を求められる事もない。何でもないごく普通の出来事のはずが、今日はやけに気になって見える。
例えば、受付に視線を向けた瞬間、一秒目が合って、すぐに視線を戻されたとき。例えば、等間隔に設置された監視カメラにふと目を向けると、その一つがこちらを向いてる気がしたとき。自分の心理面のせいなのは自覚しているが、まるで侵入者の気分にでもなったかのように、ユウトの口は渇いていた。
何とか捻出された唾液を一息に飲み込み、エレベーターを降りて、廊下を二度曲がる。特にその間誰と会うでもなかったため、冷房の空調音と革靴の叩く音だけが冷たい二重奏を奏でていた。
その間、誰とも会わない。各部屋の向こうには、人の呼吸音や行動の音が聞こえるものの、この廊下は無機質さを演出している。
それがかえって、不気味だった。
旧資料室は、長い廊下の突き当たりにある。普段、ここを通る人間はいない。休日の今日は、なおさらだった。突き当たりの壁に、埋め込まれるように設置された引き戸。他の区画と違い、扉の縁の塗装がわずかに剥げている。改修が途中で止まったような、不自然な古さだった。
扉の前に立つ。就業時間中はこの扉も開いているはずだ。誰が施錠係なのかは不明だが、今も開いているだろうとノブに手をかける。少し力を籠めれば、案の定簡単に開きそうだ。ただ、何故だか、ユウトはそのドアノブを、慎重に回した。
扉の改修が古いせいか、小さくキィと、内部の金属が鈍く擦れる。手元に伝わるそれを感じながら、わずかな抵抗に逆らって、扉を開いた。
中は、一言でいえばどんよりとしたくらい部屋だった。窓はある。だが、壁の高い位置に小さく切り取られただけのものだ。外光はほとんど差し込まないし、棚が高いせいで光は途中で遮られている。照明を点けていなければ、三メートル先も判別できないほどだ。埃の匂いはない。むしろ、掃除だけが繰り返されたような、無機質な匂いとその薄暗さにたまらずスイッチを押す。
蛍光灯が点くまでに、二拍。遅れて、白い光がにじむように広がった。
完全に点灯するまでに、わずかな揺らぎがある。棚の影は光につられて瞬時に移動し、圧迫感のある部屋が視界を埋め尽くした。
天井付近にまで達した棚がユウトを見下ろし、整理された書類と煩雑に置かれたのであろう書類がごった返しとなっている。確か年代順に整理されているはずだ。ご丁寧に手前は綺麗に揃っているが、奥に進むほど雑然としていく。前に来た時とほとんど変わっていない……と思う。
部門別に考えるのであればと、設計部門の区画を探す。流石に二桁前の年数となると年代の幅も広がり、探すのに一苦労しそうだ。蛍光灯がついていても薄暗く、より紙の匂いが強まる奥の棚に向かうこととする。
そうして方向を定め歩いていると、ふと小冊子に足が止まった。棚の一角に置かれた、厚さ数センチほどの束。ページ数としても50ページほど、一時間もあれば概要は読めるだろうその冊子。
ついつい手を伸ばしてしまったのは、表紙に「契約制度・統計資料」と書かれていたからだ。無機質な材質をより無機質たらしめるかのようなそれを見て、ユウトはたまらず資料を手に取った
――今日は確認だけのはずだ。
カイの声か、タツヤの声か、はたまた自分の声か。脳内の警鐘を無視して、それでもページをめくる手が止まらなかった。
ページの中、見覚えのある形式の表があった。
「未契約者比率の推移」
名の通り、未契約者の推移を年代で説明している資料だろう。この資料は……三年前だ。三年前と言えばユウトがこの機構に入った頃の話だ。インターンの時に近しい資料を見た気はするが、自身の記憶との整合性を合わせるように、数字を目で追う。
「……あれ?」
ペラペラと、ページをめくる手が早まる。こめかみからじんわりとした脂汗が滲むのを感じるのに、ユウトの指先は汗を拭うことより続きを確認することの方に勤しむ。
比率を示す棒グラフの形が、記憶と違っている。ユウトはもう一度、最初から見た。しかし、数字は変わらない。
研修の資料を思い出す。「制度発足当初は未契約者が多数を占めており、信頼の積み重ねによって契約者数が増加した」という文章。
記憶に齟齬はない。認識はあっているはずだ。
しかし目の前のグラフは、それとまるで反対のことを示していた。発足時はたしかに未契約者は多い。だが、中間の時期に、未契約者が急激に増えているのがわかる。研修で習った「積み重ねてきた信頼」という話を考えたとしても、この時期に何か機構がイベント事を起こしたという記憶も事例もない。それに、こんな急増ではなく、徐々に増えてきたというのが、ユウトの記憶にある資料の映像だった。
――教えられてきた内容と、まるで違う。
『当該期間における移行促進施策は無事進行中。詳細は別紙A参照』
「移行、促進」
気になる単語を見つけたが、詳細は読めない。ユウトは焦燥感を必死に抑えながら冊子を閉じた。音を立てないよう、そっと棚へと返す。別紙について、この紙の山から探すのは、それだけで一苦労だ。
喉奥にたまる何かを飲み込めず、この時期の資料を一通り漁りたい気持ちを懸命に抑える。今の目的は別なのだ。
後ろ髪引かれる思いで、ユウトはその場を後にした。
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設計部門の区画を改めて探した。奥へ。さらに奥へ。蛍光灯の光が届かなくなっていくにつれ、棚の雑然さが増していく。手前の整然とした区画とは違い、この辺りには人の手が入っていない年月が、うっすらと積もった埃の薄さ加減で伝わってきた。恐らく掃除を担当する者もこの辺りはサボり気味なのだろう。足元に気を配りながら進む。
設計部門の棚は、思ったより奥にあった。タツヤの言った通り、底の方に押し込まれている。屈んで、目を凝らしてみる。
「設計部門・内部資料」
「――あった」
小声で、それでも昂る気持ちからついつい小さくそう呟いてしまう。
棚の最奥、ラベルが辛うじて読める一角に、それはあった。そのままさらに腰を下ろして、手を伸ばす。
――人は何かを達成した瞬間、一番気を抜いてしまうものだ。
気が緩む。油断する。詰めが甘い。
それらが脳内を埋め尽くす。
――屈んで、後ろの棚の距離感を見誤ってしまった。
気づいた時にはもう遅かった。積み上げられた冊子の束が音もなく傾き始めているのを目にする。
――間に合わない。頭ではそうわかっていても、身体は反射のように弾けだし、落ちるそれらへと腕が伸びていた。
明らかに多い書類の束と、その上に乗せられていた小さな箱。これが落ちれば――外に響いてしまってもおかしくない。せめて箱だけでもとさらに腕を伸ばすが、初動で気づけなかった時点で無意味なことだった。
箱が床に落ちた。タイル張りの、硬い硬いその床に。乾いた硬質の音が弾け、一度、二度と反響を奏でる。続けて書類の束が解けながら、ばさりと広がっていった。紙が床に散らばる音は、最悪なことに間延びして続いていく。
━━部屋の外に、聞こえてしまったのではないか。
息を止めるユウトとは正反対に、鼓動は数倍にも警鐘を鳴らしていた。




