斥候の足跡は、空腹の形をしていた
北の見張り塔から戻った兵は、息を白くしながら報告した。
「斥候、三名。森の縁で引き返しました。こちらを測っていたようです」
エルセは城壁の上で、雪の向こうを睨んだ。黒い針葉樹の影が風に揺れ、夕暮れの灰色に溶けている。敵の姿はもう見えない。だが、足跡だけは残っていた。
「追うか」
副官が短く尋ねる。彼の手は剣の柄にかかっていた。灰嶺砦の兵は飢えているが、臆病ではない。だからこそ危ない、とリオネルは思った。空腹の兵は、勇敢な命令ほど早く消耗する。
「待ってください」
リオネルは城壁の階段を上がりきる前に、息を整えた。厨房からここまで走ったせいで、胸が熱い。王宮では走る給糧官など笑われただろう。だがこの砦では、鍋と城壁の距離がそのまま命の距離だった。
「足跡を見せてください」
副官が怪訝な顔をした。
「足跡で敵の数でも数えるのか」
「数だけなら兵の仕事です。私は、腹を見ます」
城門の外、雪の薄い斜面に斥候の跡が残っていた。三人分。歩幅は広くない。途中で一度、低い岩陰に寄っている。そこに小さな焦げ跡があった。火を起こしたのではない。何かを温めようとして、諦めた跡だ。
リオネルは膝をつき、焦げた粉を指先で拾った。麦ではない。どんぐり粉に似た匂い。苦みが強く、腹を満たすには向かない。
「敵も食料が細っています」
エルセが目を細める。
「確かか」
「斥候がここまで来て、火を使いかけています。余裕のある部隊なら、煙を嫌って冷えたまま食べる。けれど、彼らは温めようとした。腹が冷えすぎている」
「だから攻めてこない?」
「逆です。長く待てないかもしれません」
空腹の敵は退くこともある。だが退けない指揮官の下にいるなら、早めに殴ってくる。補給が尽きる前に砦を落とし、倉庫を奪うためだ。
エルセは風の中で少しだけ黙った。
「では、こちらは何をする」
「敵が来る前に、守る兵へ戦う食事を出します」
リオネルは城壁の下を見た。厨房の煙突から細い煙が上がっている。今ある材料で豪華な食事は作れない。だが、寒い城壁で槍を握る兵が、指先を動かせる食事なら作れる。
「グレオさん、鍋を二つに分けます」
厨房へ戻るなり、リオネルは声を張った。
「一つは北壁用。麦団子を小さくして、豆湯を濃く。もう一つは門兵用。塩を抑えて、脂を少しだけ浮かせます」
グレオはすでに薪を割らせていた。老兵の顔には、文句を言う準備と働く準備が同じくらい浮かんでいる。
「敵が来るのか」
「今夜か、明朝です」
「なら肉を多く入れろ」
「駄目です。噛むのに時間がかかる。城壁の兵には、早く飲めて腹に残るものを」
「肉がないと士気が落ちる」
「香りを使います」
リオネルは塩肉を薄く削った。量は増やせない。なら、湯気に匂いを乗せる。脂を鍋の表面で温め、兵が椀を受け取った瞬間に「肉がある」と感じるようにする。実際の肉片は小さい。けれど、匂いは人を一歩だけ前に出す。
雑役の少年が、乾いた香草の茎を抱えて走ってきた。
「これ、まだ使えますか」
「使えます。焦がさないで、最後に入れる」
「最後?」
「香りは逃げ足が速い。戦場の臆病者です」
少年が少し笑った。その笑いも、今は燃料だった。
夜半、北壁へ椀が運ばれた。兵たちは槍を壁に立てかけ、両手で椀を包む。湯気が頬に当たり、凍ったまつげが少しだけ解ける。
「今日のは濃いな」
「敵が腹を空かせています。こちらは空かせません」
リオネルがそう言うと、若い兵が目を上げた。
「給糧官殿、敵の腹までわかるんですか」
「足跡が教えてくれました」
「なら、俺たちの腹も見られているわけだ」
「見ます。倒れる前に」
兵たちは黙って飲んだ。冗談の返事はなかったが、椀を握る手に力が戻っていくのが見えた。
そのとき、森の縁で黒い影が動いた。
鐘が鳴る。
今度は、一つ、二つ、三つ、四つ。
敵襲の合図だった。
エルセが剣を抜き、城壁の上に声を響かせる。
「持ち場につけ!」
兵たちは椀を最後まで飲み干してから、槍を取った。誰も椀を投げ捨てなかった。熱を腹に落としてから、戦いへ向かった。
リオネルは空の桶を抱え、城壁の下で息を止める。
剣は振れない。
魔法も使えない。
だが、今この瞬間、北壁に立つ兵たちの腹には熱がある。
それが彼の出した最初の援軍だった。
戦いが始まってからも、リオネルは厨房へ戻らなかった。戻れば鍋の残量は見られる。だが城壁の下でなければ、兵がいつ熱を失うのかは見えない。矢を避けて階段を降りてきた兵の息、槍を握り直す指、椀を受け取る手の震え。そういうものは帳面に書かれていない。
「給糧官殿、下がってください」
若い兵が叫んだ。額に煤がつき、目だけがぎらぎらしている。
「下がる前に聞きます。椀は足りましたか」
「足りました! だから下がってください!」
「次は塩を少し落とします。喉が渇きすぎる」
「今それですか!」
兵は怒ったように笑い、槍を持って階段を駆け上がった。その背中は、最初に会ったときより少しだけ大きく見えた。腹に熱が入ると、人は背筋から変わる。
リオネルは桶の底を見た。残りは少ない。敵の数はまだ多い。なら、次に運ぶものは豆湯ではない。薄くても熱い湯だ。香草を浮かべ、塩をほんの少し。腹を満たすのではなく、手を戻すための湯。
彼は厨房へ向けて走った。途中、石段に落ちた矢を踏みかけ、壁に手をつく。怖くないわけではない。怖い。だが、恐怖にも順番がある。今いちばん怖いのは、自分が矢に当たることではなく、北壁の兵が冷えた手で槍を落とすことだった。
厨房ではグレオが次の鍋を火にかけていた。
「戻ると思ったぞ」
「熱い湯を作ります」
「飯ではないのか」
「今は手を守ります」
グレオは文句を言わず、香草の茎を掴んだ。
砦は、少しずつ同じ方向を向き始めていた。
熱い湯を城壁へ運び出す直前、リオネルは桶の数をもう一度数えた。数え直しても増えはしない。だが、足りないものを知らずに送り出すより、足りないと知って送り出すほうが、次の手を早く打てる。
「二桶分、南壁の待機兵へ回せませんか」
ミロが恐る恐る尋ねた。
「今は北壁です」
「南壁も寒いです」
「わかっています。だから南壁には、戻りの空桶で温め直した湯を送る」
全員を同時に満たすことはできない。だから順番を決める。その順番が誰かを軽んじているように見えないよう、理由も一緒に運ぶ必要があった。リオネルは運搬班へ短く伝えた。
「南壁には遅れると伝えてください。忘れているのではなく、順番です、と」
言葉もまた、冷えを防ぐ布だった。




