夜番の胃袋は、砦の城壁より先に崩れる
翌朝、灰嶺砦で最初に変わったのは、兵の顔色ではなかった。
残飯桶の重さだった。
厨房の隅に置かれた木桶を持ち上げたグレオが、黙ったままリオネルを見た。昨日までなら底に半端な粥が固まり、ふやけた黒パンが沈んでいたという。今朝の桶には、薄い豆の皮と香草の茎が少し残っているだけだった。
「食ったな」
グレオは悔しそうに言った。
「食べられる形にしたからです」
「わしの腕が悪かったと言いたいのか」
「環境が悪かったと言いたいんです。薪を削られ、棚を間違えられ、任務に関係なく同じ椀を配れと言われたら、誰が作ってもこうなります」
グレオは鼻を鳴らした。
「口だけは王宮仕込みだ」
「鍋も見ます」
リオネルがそう返すと、厨房にいた雑役の少年が小さく笑った。笑い声はすぐに引っ込んだが、砦では貴重な音だった。
朝の配給を終えたあと、エルセが厨房へ来た。鎧の肩に霜がついている。夜明け前から城壁を見回っていたのだろう。
「北壁の居眠りが減った」
「一晩で消えるものではありません」
「わかっている。だが、倒れた者は出なかった」
その報告に、厨房の空気がわずかに緩んだ。
リオネルは作業台に板を置いた。そこには夜番三交代の配置、配給時刻、気温、残飯量を簡単に書きつけてある。王宮で使っていた正式な帳票ではない。今の砦には、まず全員が読めることが大事だった。
「今日から、夜番の食事を二段に分けます」
エルセが板を覗いた。
「また新しいことか」
「昨日は応急処置です。今日は崩れる場所を先に支えます」
リオネルは板の北壁の欄を指した。
「もっとも危ないのは、夜明け前の北壁です。体温が落ち、空腹が来て、敵が来なくても集中が切れる。ここに熱い豆湯を入れます。正門は歩く距離が短いので、硬めの麦団子。見張り塔は風が強いので、塩と酸味を少し足す」
「同じ説明を昨日も聞いた」
「昨日は一度だけでした。今日は時刻を固定します。兵が『あの時間になれば温かいものが来る』と知っていることが大事です」
エルセは目を細めた。
「約束か」
「はい。食事は小さな約束です」
王宮軍でリオネルが最初に学んだのは、兵は命令で動くが、約束で耐えるということだった。明日の朝に交代が来る。怪我をすれば包帯がある。寒い夜には湯が届く。小さな約束が破れ続けると、軍はまだ立っていても中から崩れる。
灰嶺砦は、その寸前だった。
リオネルは、夜番帰りの兵たちを一人ずつ見た。頬がこけた者、手袋の指先が破れた者、椀を受け取る前に礼を言う余裕もない者。彼らは英雄譚の主役ではない。だが城壁を支えているのは、名を呼ばれない彼らの足だった。
「温かいものが来るとわかっていれば、人はもう半刻だけ立てます」
「半刻で戦況が変わることもある」
「だから食事は遅れてはいけません」
エルセは板に書かれた時刻を見た。
「守れるのか」
「守れる形にします。鍋を大きくするのではなく、運ぶ順番を決める。薪を増やすのではなく、火を落とさない番を置く。できる約束だけを書きます」
守れない豪語は、空腹より兵を冷やす。王宮の勝利報告はいつも立派だったが、その立派さで暖を取れた兵はいない。
昼前、問題が起きた。
南門から商人が来たのだ。毛皮の帽子をかぶった太った男で、荷車には小麦粉の袋が積まれている。砦の補給係がほっとした顔で駆け寄ったが、商人は門の内側に入るなり、袋の上に手を置いて言った。
「値を上げます」
エルセの手が剣の柄に動いた。
「契約済みだ」
「道が雪で悪くなりましてね。護衛も増やしました。こちらも商売です。払えないなら、王都の駐屯地へ回します」
補給係の顔が青くなった。灰嶺砦の倉庫に余裕はない。小麦粉は必要だ。だが、言い値で買えば次の塩が買えなくなる。
リオネルは荷車に近づいた。
「袋を一つ見せてください」
商人は笑った。
「給糧官様は粉の顔色も見るのですか」
「粉はよく喋ります」
袋の口を開く。指を入れ、手のひらに粉を落とす。白すぎる。灰嶺砦に運ぶ粗粉としては白すぎる。見た目は良いが、細かく挽きすぎている。水を吸いやすく、団子にすると粘りすぎる。腹持ちが悪い。
「これは砦用ではありません」
商人の頬が動いた。
「上等な粉です」
「上等でも、用途が違う。菓子職人なら喜びます。夜番には向かない」
「贅沢を言う余裕が?」
「贅沢ではなく、損得です。この粉で夜番を回すなら、一人あたりの量を増やす必要がある。つまり高く買って早くなくなる」
エルセが商人を見た。
「契約の品は粗挽き粉だったな」
「そ、それは」
「雪道で護衛を増やしたと言ったが、荷は軽い。粗挽き粉より細粉のほうが袋の沈み方が違う。王都の余りをこちらへ回したのではないか」
リオネルが静かに言うと、商人は初めて笑みを消した。
剣を抜く必要はなかった。
結局、商人は契約額のまま粉を置き、代わりに次回は粗挽き粉と乾燥玉ねぎを半量ずつ運ぶ約束をして帰った。エルセは門が閉じるまで黙って見送っていた。
「おまえは剣より厄介だな」
「粉を見ただけです」
「粉で嘘を見抜く給糧官か」
「嘘は、だいたい腹にたまらない形をしています」
エルセは少しだけ笑った。
その夜、見張り塔の兵に新しい豆湯が配られた。乾燥玉ねぎはまだない。だが、細粉を少しだけ使い、酸味を抑えてとろみをつけた。風に冷めにくい。椀を両手で包んだ兵たちが、黙って飲み干す。
城壁の石は、まだひび割れている。
敵の斥候も、雪の向こうでこちらを見ている。
けれど夜番の胃袋は、昨日より少しだけ崩れにくくなった。
リオネルは空の桶を見て、次の板に線を引いた。
砦を勝たせるには、まず明日の朝まで立たせる。
それが給糧官の戦だった。
そのとき、北の見張り塔から短い鐘が鳴った。
一つ、二つ、間を置いて三つ。
敵襲ではない。斥候発見の合図だ。
エルセが外套を翻す。兵たちの顔に、緊張が戻った。リオネルは空になった豆湯の鍋を見て、それから倉庫の板に目を移した。
次に必要なのは、戦う飯だ。
腹の中から、砦の防衛が始まる。
リオネルは鍋を洗う手を止めずに、次の配給時刻を板へ書き足した。
まだ、間に合う。敵が来る前に、こちらの腹を整えられる。




