第9話 拳ひとつの距離
相変わらず、すごい。
何が起こったのか、もはや全く理解できなかった。
だが、アイリスはすぐ我に返り、眉間の皺を深める。
「リオさん!」
怒り混じりに呼ぶと、リオが振り返った。
「トロッコ!今回は結果としてよかったですが、今度やったら氷漬けにしますからね!」
脅したつもりだった。
それなのに、リオは嬉しそうに笑う。
「いつでもやってくれていい。興味がある」
開いた口が塞がらなかった。
唇を噛み、ゆっくり俯く。拳がわなわなと震える。
一発……いや、三発くらい殴っても許されるのではないだろうか。
怒りをぶつけようと顔を上げたアイリスは、思いのほか近くにリオが居て、息をのむ。
リオが柔らかく目を細め、片方の掌をこちらに向けて持ち上げる。
その手を見つめ、ため息が漏れた。
でも、楽しかったのも事実だ。
少し眉を寄せたまま、アイリスも手を持ち上げ、リオの掌をぺしりと叩いた。
*
瘴気魔獣が巣食っていたここが、どうやら最奥らしい。
アイリスはリオと相談しつつ、壁や天井の弱そうな地盤に氷の柱を埋め込む。
支柱の破壊も忘れない。
「この調子で戻ろう。魔力は……大丈夫だな」
アイリスは頷いた。
「帰りは俺が道案内する」
「お願いします」
新しい氷柱を打ち込みながら答える。
歩き出したリオが、ふいに足を止めてしゃがむ。
何かを拾ったようだ。
「これ、綺麗だな」
カルヴォナイトのようだった。
リオの瞳に似た、翠色の輝きが小さく瞬く。
「自画自賛ですか?」
からかうように声をかけると、リオは視線を横に流す。
「君、俺のこと嫌いなのか?」
その顔を見て、少しだけ冗談を言いたくなった。
「どちらかというと好きですよ。尊敬もしてます。Sランクなので」
地面に転がる石を蹴りながら答えた。
リオが立ち上がり、歩き出す。
「……まだトロッコの件を怒ってるのか」
アイリスは後ろからついていく。
「怒ってませんよ。リオさんで遊んでるだけです」
「なお質が悪いな。ああ、そこにも頼む」
指で示された位置に氷柱を埋め込む。
そうして縦穴のところまで戻ってきた二人は、上を見上げる。
「どうやって上りましょうね……」
氷で階段を作ることも、氷柱で押し上げることもできる。
「駆け上がればいいじゃないか」
「また冗談を……」
リオがひょいと、黒ローブの男三人を魔法で持ち上げた。
二つの魔法陣に挟まれ、宙に浮かぶ男たちが足をバタつかせる。
ほぼ同時に、体が浮く。
これで二度目だ。
目の前の地面を見て、反射的に腰を抱える腕を叩く。
「人をすぐ、荷物みたいに……!」
リオが地を蹴った。
縦穴の壁に足をつけ、螺旋状に駆け上がる。
手足が後ろに引かれる感覚と共に、地面が遠ざかる。
残された光魔法の光源が小さくなる。
力強い腕に支えられ、揺れる体をリオが受け止めてくれるたび、不思議と怖さよりも安心が勝っていく。
次第に息が整い、心も軽くなる。
──わあ、すごい。
あっという間に縦穴の上に着いた。
リオにゆっくり下ろされ、足が地面につく。
「……ありがとうございます」
礼は伝える。
だが一言、言わせてほしい。
アイリスはリオをじっとりと見上げた。
「……確認してからだと反対されるから、確認しないでやってしまおうとか。思ってませんよね」
「まさか」
リオがにっこりと笑った。
その肩を拳で軽く殴る。
「ここも地盤が弱そうですね」
「ん、頼む」
埋め込まれた氷柱が天井に亀裂を走らせ、小さな石片がパラパラと落ちる。
坑道の出口はすぐそこだった。
*
外から坑道を見つめ直す。
リオが片手を軽く振ると、坑道の奥で緑が光った。
空気がうねり、一番近い氷柱が断裂した。
亀裂は次々に連鎖し、岩と氷の軋む音が坑道に響き渡る。
振動が地面を伝い、小石が散り、粉塵が舞い上がる。
視界がかすみ、息が一瞬詰まった。
遅れて崩落の轟音。
地面がかすかに揺れ、体が宙に浮くような感覚がする。
口元に無意識に力がこもる。
「依頼完了、ですね」
アイリスは坑道を見つめ、深く息を吐く。
「ああ。帰ろうか」
傍らで宙に浮かぶ黒ローブたちの顔色は悪い。
リオの動きに呼応する魔法陣に振り回され、ひとりはすでに胃の中身を吐いていた。
親切なリオが洗浄魔法をかけていたので、汚れは残らない。
「村で馬車が拾えるといいんですが」
「だめだったら、また走るか」
「いいですね」
視界の端で黒ローブたちが必死に首を振るが、二人は揃って無視して歩く。
ふと気づけば、並んで歩く距離がいつの間にか縮まっていた。
最初は人ひとり分はあったはずの間隔が、拳ひとつほどしかない。
特に意識したわけでもない。ただ、それが自然に感じられるようになっていた。
──この距離が、絆と呼べる日は来るのだろうか。
風が静かに、二人の間を抜けていく。
その解は、すぐには得られそうになかった。
でも、今はただ心地よかった。




