第1話 無言の圧力
朝。
アイリスはベッドの上に座り、しばし呆然としていた。
意識せず約束を取り付けたが、待ち合わせをして、同じ目的地に行く。
まるでデートのようではないか。
だがすぐに頭を振って否定する。
あくまで経験を積みに行くだけだ。決してデートなどではない。
いつもの戦闘服に身を包み、髪を少し丁寧に整える。
──はっと我に返る。
櫛を握る手が、ほんのわずかに震えた。
「もう!」
櫛を机に叩きつけ、手の震えを抑えた。
何度か深呼吸して、気持ちを落ち着かせた。
*
狩人本部に少し早めに着くと、すでにリオの姿があった。
何やら数人の少女に囲まれ、穏やかな微笑を浮かべながら対応している。
胸の奥がざわつく。
思わず手を握りしめ、軽く視線をそらす──少し、心がささくれ立った。
耳にかすかに聞こえる笑い声や足音も、どこか遠く感じる。
リオの翠の瞳がアイリスを捉えた。
すぐに少女たちに何か告げ、アイリスの元へ歩み寄る。
「おはよう」
「……おはようございます」
声がわずかに硬くなるのを、自分でも感じた。
「お話の途中だったみたいですけど……よかったんですか?」
尋ねると、リオはゆっくりと瞬きをして、それからふっと笑みを浮かべた。
「ああ……少し声をかけられただけだから。行こうか」
アイリスは頷き、リオの背後に目を向けた。
少女たちが残念そうな顔をしているのが見えた。
*
結界屋は、狩人本部から少し離れた場所にあった。
石畳の小路にぽつんと立つ店構え。
木製の壁は深い緑に塗られ、ところどころ金の縁取りが施されている。
入口の扉には豪華な鉄製の取っ手。通る者の目を引くが、どこか不釣り合いに威圧的だ。
リオが店を見据える。
その瞳には冷たさが混じる。
「俺の怠慢だ。忙しいからと、販売の確認を怠っていた」
アイリスは眉を寄せる。
何を言っているのだろう──。
理解する間もなく、リオは店内に足を踏み入れた。
薄暗い店内に、宝石のように輝く魔道具が所狭しと並ぶ。
ほのかな光が天井から落ち、机や棚にきらめきを反射している。
目を奪われるアイリスの横で、リオは淡々と歩く。
「いらっしゃいませ!」
店の者が笑顔で振り返る。
金糸で縁取られた豪華な上着がやや窮屈そうに体に張り付く。
指には大小さまざまな宝石の指輪。手を動かすたび鈍い輝きを放つ。
背筋はほどよく曲がり、笑顔の裏で相手の懐事情を探る視線が透けて見える。
リオの目が、その男を静かに捉えた。
「これはこれは、リオ様!いつもお世話になっており……」
「店長。俺は、誰でも買える値段で売るように、と言い渡したはずだ」
店内の空気がずしりと重くなる。
圧迫感に、アイリスは慌てて足を踏ん張る。
呼吸が少し詰まる。
男は近くの棚に手をつき、必死にリオを見上げる。
リオの表情は穏やかだ。だが、目はまったく笑っていなかった。
リオがすぐそばの簡易結界魔道具を手に取る。
「これは、いくらかな?」
「さ……三万フィンです」
「値札には、三十万フィンと書いてある」
十倍──!
アイリスは息を呑み、目を見開いた。
リオは冷静に店長を見据える。
「俺は一万フィンで卸しているはずだ」
アイリスは思わずリオを見る。
卸している──つまり、この人が結界の魔道具を作っているのか。
目の前の光景が、少し現実離れして見えた。
指先に力が入り、思わず手を握りしめる。
店長は顔を青ざめさせ、汗をだらだらと流した。
吹っかけすぎだ。なんて悪どい商売をしているのか。
「申し訳ありません!値札を付け間違えたんです、今すぐ全て修正します!」
慌てて頭を下げる男。
リオは目元を緩める。
店内の圧迫感がわずかに和らいだ。
「それでいい。けれど、気をつけてほしい」
男が恐る恐る顔を上げる。
リオが微笑んだ。ただの笑みに、とんでもない迫力があった。
「次は、ない」
「はい!」
男は即座に返事して、裏の店員を呼び、修正作業に取り掛かる。
リオはその様子を静かに見守り、無言で店を後にした。




