第29話 継承者
三日後。
美咲は中野のアパートに戻っていた。
剛造がいたソファ。剛造が使っていた机。剛造が飲んでいたコーヒーカップ。
何も変わっていない。
しかし、剛造はいない。
美咲は机に向かった。
パソコンを開いた。
書くべきことが、山積みだった。
御堂の問題の続報。通信インフラの経過。外資規制法の動向。橘総理の動き。地方農業の再建。
田島剛造が蒔いた種は、まだ芽を出し始めたばかりだ。
育てるのは、自分の仕事だ。
美咲はキーボードに指を置いた。
そのとき、ドアに封筒が差し込まれた。
郵便ではなかった。誰かが直接入れたのだ。
美咲は封筒を拾った。
表に、見覚えのある字があった。
「桐島美咲殿」
田島剛造の字だった。
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美咲は封筒を開けた。
中に、便箋が三枚入っていた。
あの朝、剛造が書いていたものだ。
美咲は読んだ。
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骨のある記者よ。
お前がこれを読んでいるということは、俺は消えた後だ。
まず一つ、謝らないといかん。
お前の両親のことを、もっと早く話すべきだった。五郎の言葉を守ったつもりだったが、お前には話す権利があった。遅くなってすまなかった。
次に、礼を言う。
お前のおかげで、俺は令和の日本で動くことができた。お前がいなければ、俺はただの路地裏の老人だった。ありがとう。
最後に、頼みたいことを言う。
中村誠を総理にしろ。あいつならできる。お前が記事を書き続ければ、必ずなれる。
賢一の農業再建を助けろ。新潟から日本は変わる。俺が昭和に始めたことを、令和で完成させてくれ。
林田を使え。あいつは財務省の中から日本を変えられる人間だ。
黒岩に礼を言え。あいつは昭和から、ずっと人間らしく生きてきた。それだけで十分だ。
そして。
新潟の海を見てこい。
俺が子供の頃に見た海と、同じ海がまだそこにある。
その海を見たら、わかる。
この国はまだ終わっていないと。
日本を、頼んだ。
田島剛造
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美咲は便箋を読み終えた。
しばらく動けなかった。
目から、涙が流れた。
こらえようとしたが、こらえられなかった。
泣いた。
一人で、泣いた。
しばらく泣いた後、美咲は顔を拭いた。
便箋を丁寧に折り、封筒に戻した。
そして手帳を開いた。
この数週間で書き留めた、剛造の言葉が並んでいた。
「政治は農業と同じだ。丁寧にやれば、必ず実る」
「逃げることと、動き続けることは別だ」
「国民の涙だけは、俺には買えねぇ」
「骨がある」
美咲は手帳を閉じた。
この手帳が、田島剛造の記録だ。
自分の中にある記憶と、この手帳の言葉が、これから美咲の羅針盤になる。
美咲はパソコンに向かった。
新しいファイルを開いた。
タイトルを打ち込んだ。
「田島剛造という男について」
そして書き始めた。
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彼は永田町の路地裏で目を覚ました。
記憶は昭和のまま。肉体は壮年に若返っていた。
なぜ令和に蘇ったのか、最後まで誰も完全にはわからなかった。
しかし一つだけ、確かなことがある。
この国がまだ死んでいなかったから、彼は戻ってきた。
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美咲は書き続けた。
夜が更けた。
東京の夜景が窓の外に広がっていた。
美咲の中に、田島剛造の記憶がある。
昭和の光と影が、令和の夜景に重なった。
「田島さん」美咲は小さくつぶやいた。「見えていますか」
返事はなかった。
しかし、キーボードを叩く手が、止まらなかった。
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翌朝。
美咲は中村誠に連絡した。
「中村さん、これから動いてもらいたいことがあります」
「なんですか」
「外資規制法の骨子を作りましょう。農地、港湾、通信、水道。全部守る法律を。田島さんが言っていた通り」
「わかりました。すぐに動きます」
次に桐島賢一に連絡した。
「賢一さん、新潟の農業再建について、一緒に動きませんか」
「美咲、お前が声をかけてくれるのを待ってた。いつでも動けるよ」
次に林田に連絡した。
「林田さん、財務省の改革を訴える動きを、もっと大きくしたい。一緒にやりませんか」
「もちろんです。私はそのためにここにいます」
最後に、黒岩に連絡した。
「黒岩さん、お礼を言いたいです。田島さんから、黒岩さんに礼を言えと言われました」
黒岩は少し沈黙した。
「……先生らしいですね」
「はい」
「美咲さん、これからも気をつけて動いてください。何かあれば、俺はまだここにいます」
「ありがとうございます」
電話を切り、美咲はコーヒーを淹れた。
剛造がいつも飲んでいたコーヒーだ。
一口飲んだ。
「田島さん、私は動きます」
美咲は窓の外を見た。
令和の朝が、静かに明けていた。
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