第28話 御堂の涙
夜が明けた。
廃工場の中に、朝の光が差し込んできた。
美咲は目を覚ました。
床の上に、毛布をかけて横になっていた。
いつ横になったのか、覚えていなかった。
隣を見た。
剛造はいなかった。
毛布だけが、そこにあった。
美咲は起き上がった。
頭の中が、静かだった。
静かだったが、広かった。
昭和の記憶が、確かにある。
新潟の雪。東京の焼け跡。国会の廊下。農村の水路。
すべてが、美咲の記憶として、そこにあった。
「……田島さん」
美咲は小さくつぶやいた。
返事はなかった。
しかし、温かかった。
その記憶が、温かかった。
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工場の奥に、須藤と御堂がいた。
二人は向かい合って座っていた。
美咲が近づくと、御堂が顔を上げた。
「美咲さん、体は」
「大丈夫です」美咲は言った。「田島さんは」
須藤が静かに言った。「夜明け前に、静かになりました。苦しまなかった」
美咲は頷いた。
「そうですか」
「美咲さん、継承は完全に行われました。田島さんの意志と記憶の核心が、あなたの中にあります」
「感じます」美咲は言った。「田島さんの記憶が、確かにあります」
「お祖父様のかけらも、一緒に渡っています」
美咲は目を閉じた。
おじいちゃんの声が、記憶の中にある。
「ありがとうございます、須藤さん」
「五郎さんの設計通りになりました。私の仕事は終わりです」
美咲は御堂を見た。
御堂は、一晩中ここにいたのだろう。目の下に隈がある。しかしその顔は、昨日より穏やかだった。
「御堂さん」
「……はい」
「昨夜、泣いていましたか」
御堂は少し間を置いた。
「……泣きました」
「いつぶりですか」
「二十歳のとき、父の書類を見てから泣いていませんでした」
「四十年ぶりですね」
「そうです」
美咲は御堂の前に座った。
「御堂さん、一つだけ聞いてもいいですか」
「なんでも」
「これからどうするつもりですか」
御堂はしばらく考えた。
「議員を辞めます。それは決めました。ただ」
「ただ?」
「田島さんに言われました。『向き合うしかないんだ。生きている人間は全員そうだ』と」
「はい」
「向き合います」御堂は言った。「私がやってきたことに。父がやってきたことに。そして……美咲さんのご両親のことに」
美咲は御堂を見た。
「御堂さん」
「はい」
「私はあなたを恨んでいません」
御堂は驚いた顔をした。
「恨んでいない、とは」
「あなたはやったことに向き合おうとしている。それが大事だと思います」美咲は言った。「田島さんは言っていました。悪人になった理由がある、と。あなたには、そういう理由があった」
御堂は目を閉じた。
「……田島さんは」御堂は言った。「最初に会ったとき、『まだ引き返せる』と言いました。あのとき私は聞かなかった。しかし最後に、もう一度言ってくれた」
「そうですね」
「田島剛造という人間は……政治家としても、人間としても、私には遠すぎる存在でした」
「そうですか」
「しかし」御堂は目を開けた。「美咲さん、あなたはあの人の意志を受け継いだ。だから一つだけお願いがあります」
「なんですか」
「田島さんのやり残したことを、続けてください」
美咲は静かに言った。
「もちろんです」
御堂は頭を下げた。
深く、長く、頭を下げた。
それは政治家としての礼ではなかった。
一人の人間としての、謝罪と感謝が混じった頭の下げ方だった。
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午前中、黒岩が工場に来た。
美咲を見て、無言で頷いた。
「先生は」
「静かになりました」
黒岩は目を閉じた。
しばらく沈黙した。
それから、目を開けた。
「……そうですか」
「黒岩さん」美咲は言った。「おかあさんの写真、ありがとうございました」
黒岩は驚いた顔をした。
「田島さんから聞きました。黒岩さんがずっと持っていてくれたこと」
「……ただ、誰かが覚えていてやらないといかんと思っただけです」
「それで十分です」美咲は言った。「おかあさんも、喜んでいると思います」
黒岩は目の端を拭った。
「……桐島明子さんに、よく似ていますよ。美咲さんは」
「そうですか」
「目元が、そっくりです」
美咲は少し笑った。
「ありがとうございます」
黒岩は工場の天井を見た。
「先生、本当にお疲れ様でした」
誰にともなく言った言葉が、工場の中に静かに広がった。
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その日の午後、美咲は一人で外に出た。
冬の空。
美咲は空を見上げた。
田島剛造の記憶が、自分の中にある。
昭和の日本の記憶。貧しかった子供の頃。政治家として動き続けた日々。国民への愛情。
そして五郎のかけら。
おじいちゃんの温かさが、記憶の中にある。
「田島さん」美咲は小さく言った。「私の中にいますよね」
返事はなかった。
しかし温かかった。
「おじいちゃんも、いますよね」
また返事はなかった。
しかし確かに、そこにある気がした。
美咲はスマホを取り出した。
中村誠に連絡した。
「中村さん、これからも一緒に動いてもらえますか」
「もちろんです。田島さんは」
「静かになりました」
中村は少し沈黙した。「……そうですか」
「田島さんの意志は、続きます。私が続けます」
「わかりました」中村は言った。「一緒に動きます。最後まで」
美咲はスマホをしまった。
空を見た。
冬の空は、青かった。
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