異常の固定化前夜
夜の川沿いは、昼間よりも正直だ。
光の届く場所だけが現実で、それ以外は最初から存在していないように見える。
街灯は等間隔に並んでいるのに、その間だけが妙に抜け落ちている。
光希が足を止めた。
「また来る」
その声は、もう予感じゃなかった。
確認に近い。
自販機の光が、白く浮いている。
そこだけ切り取られたみたいに、輪郭が強すぎる。
ルリは空を見上げている。
「流入増加」
「増えてるの?」
「はい」
短い返答。
それだけで十分だった。
誰もすぐには次の言葉を出さない。
川の音だけが続いている。
水は流れているはずなのに、その音が少しだけ遅れて聞こえる気がする。
空気が、わずかに伸びた。
光が走る。
一本ではない。
途中で分かれている。
それが“通過”だと気づくのに、少し時間がかかる。
「……今の」
僕が言う。
光希は空から目を離さない。
「ルート、分かれてる」
「分かれる?」
「道路じゃん、これ」
その言葉のあと、音が来る。
遅れてではない。
重なって来る。
ビリ、と空気が震える。
川面が一瞬だけ乱れる。
ルリが一歩前に出る。
「規定外挙動を確認」
「規定って何の」
「交通体系です」
「だからそれ何なのよ」
光希の声は鋭い。
ルリは少しだけ止まる。
ほんのわずか。
「……説明は制限されています」
その言葉に、妙な揺らぎがあった。
拒絶ではなく、制約。
喫茶店に戻ると、空気はさらに静かだった。
out a time。
客はいない。
マスターはカウンターの奥で豆の袋を開けている。
中を見て、閉じる。
また別の袋。
同じ動作。
「入らん」
短い声。
「流れが変わった」
それ以上は言わない。
光希がカップを手に取る。
一口飲む。
止まる。
「……やっぱり」
「何が」
「これ、戻ってない」
僕も飲む。
その瞬間。
味が消える。
完全に。
苦味も酸味もない。
ただの液体。
ほんの一瞬だけ。
すぐに戻る。
でも、“無”が確かにあった。
「……今」
僕が言う。
光希も頷く。
「消えた」
短く。
ルリはカップを見ている。
少しだけ眉が寄る。
「物質情報が不安定です」
「またそれ」
「安定していません」
「だからそれ何」
光希の声は苛立っている。
ルリは一瞬だけ間を置く。
「……消失に近い状態です」
それは、言い切りではなかった。
帰り道。
自販機の光が白すぎる。
そこだけ現実から浮いている。
光希が缶を買う。
一口飲む。
顔をしかめる。
「薄い」
でも、今日は違う。
「……違う」
小さく言う。
「入ってない」
その瞬間。
空が鳴る。
音ではない。
圧。
光が走る。
一本ではない。
複数。
並走している。
水面が同時に揺れる。
遅れていない。
同時に起きている。
「……増えてる」
光希が言う。
目は逸らさない。
ルリは空を見ている。
「流量制御が崩れています」
「崩れてるって何」
「管理不能です」
ほんの少しだけ間。
「……このままでは干渉が固定化します」
その言葉は、初めて“危機”の形をしていた。
街は何も変わっていない。
人も車も、いつも通り動いている。
でもその上を、何かが走っている。
見えているのは、たぶん、見えてしまった人間だけだ。
そしてそれは、増えている。
確実に。




