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決行準備


 夜の喫茶店「out a time」は、今日も静かだった。

 客はいない。

 音楽だけが、少し古いスピーカーから流れている。

 レコードの針が落ちる音が、やけに現実的に響く。

 光希がカップを持ち上げる。

「……これさ」

 一口飲んで、動きを止めた。

「また薄くなってる」

 その言い方には、もう驚きはなかった。確認に近い。

 総一郎もカップを口に運ぶ。

 味が途中で消える。

 完全に消えるわけではない。

 だが、確かに“途中で抜け落ちる”。

「戻りが遅い」

 そう言うと、光希が眉をひそめた。

「遅いって、どういうこと?」

「前は一瞬で戻ってた」

「今は?」

「空白がある」

 光希はカップを見つめたまま、しばらく黙った。

「それ、もう普通じゃないよね」

 ルリはカップに触れないまま、それを見ていた。

「流入が固定化に移行しています」

「固定化?」

 光希が問い返す。

 ルリはわずかに間を置いた。

「接続が安定し始めています」

「それ、いいことなの?」

 総一郎の問いに、ルリは首を振る。

「不安定の方が正常です」

 マスターがグラスを拭く手を止めた。

「崩れる時はな」

 誰に向けた言葉でもない。

「音がしない」

 光希が顔を上げる。

「音?」

「派手な変化じゃない」

 マスターはレコードに軽く触れた。

「気づいた時には、もう変わってる」

 少しの沈黙。

「コーヒーも同じだ」

「味がなくなるんじゃない」

「境界がなくなる」

 総一郎が聞く。

「境界って、何と何の?」

 マスターは一度だけ黙り、そして言った。

「現実と、それ以外だ」

 ルリが視線を落とす。

「単独では制御できません」

「それさっきも聞いた」

 光希が言う。

「じゃあ何が足りないの」

 ルリは少しだけ止まった。

「権限です」

「権限?」

「この区域は、私の管轄外に移行しています」

 総一郎が眉をひそめる。

「管轄外って何だよ」

 ルリは一瞬だけ迷い、言葉を選ぶように続けた。

「説明は制限されています」

 光希が小さく舌打ちする。

「それ、万能だね」

 光希はノートを開いた。

「整理する」

 ペンが走る音だけが少し浮く。

「コーヒーの成分じゃない」

「抽出の方式そのものがズレてる」

「ズレ?」

 総一郎が聞く。

「別の体系が混ざってる」

 ルリが小さく頷いた。

「一致しています」

 光希は一度息を吐いた。

「でもさ」

「これ、戻せるの?」

 ルリは答えない。

 代わりにマスターが言った。

「戻すってのは簡単じゃない」

 ルリが静かに言う。

「接続点を閉じれば停止は可能です」

 光希が顔を上げる。

「じゃあやればいいじゃん」

 ルリはわずかに間を置いた。

「ただし」

 空気が変わる。

「私は帰還できません」

 沈黙。

 レコードの音だけが、やけに遠く感じる。

 総一郎はカップを見ていた。

 光希は一瞬だけ視線を逸らし、すぐ戻す。

「それって任務的には?」

「失敗扱いになります」

 マスターがコーヒーを置いた。

「決めるのはお前らだ」

 それだけだった。

 光希が立ち上がる。

「行くしかないでしょ」

 迷いはあるが、止まらない声だった。

 ルリが頷く。

「了承」

 マスターが短く言う。

「行け」

 総一郎はカップを置いた。

 音が、少しだけ重い。

 手が離れてから、テーブルに戻るまでの時間が妙に長く感じる。

「……行くのか」

 誰に向けたでもない声だった。

 答えはない。

 だが、もう決まっている気がした。

 店の空気は変わっていない。

 それでも、わずかに違う。

 ルリがカップを見つめる時間が長くなっていた。

「この飲料は」

 小さく言う。

「通常分類から外れています」

「またそれ?」

 光希が笑う。

 その笑いは軽くない。

 ルリは続けた。

「ですが」

 少しの間。

「……安定していないことに意味があるようです」

 マスターがレコードを変える。

 針が落ちる音だけが、少しだけ遠く響いた。


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