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兆候


 朝の教室は、いつもと同じ音を出しているはずなのに、どこか芯がずれている。

「最近さ、コーヒー高くない?」

 前の席から声が飛んでくる。

「コンビニのも上がってるよな」

「ていうか、昨日豆ないって言われたんだけど」

「マジで?」

 軽い調子のまま会話は流れていく。

 でも、その内容だけが妙に引っかかる。

 僕は窓の外を見る。

 空は普通だ。

 何もない。

 ——何もないはずなのに。

「在籍確認済みです」

 横でルリが言う。

「出席だから返事して」

 誰かが笑う。

「了解しました」

 一拍、遅れる。

 ほんのわずか。

 でも、その“遅れ”が耳に残る。

 授業が始まる。

 チョークの音。

 規則的な、乾いた音。

 そのリズムに、別の音が重なる。

 ——短い電子音。

 ピ、ピ、ピ、と細かく刻む。

 すぐに消える。

 僕はペンを止める。

 もう一度、同じ音が鳴る気がする。

 でも、鳴らない。

 代わりに、頭の奥に残る。

 消えない。

 ルリは前を向いたまま、何も気にしていない。

 ノートの端に、見たことのない記号が一瞬だけ見える。

 次の瞬間には普通の文字に戻っている。

 見間違いかもしれない。

 でも、見間違いにしては、形がはっきりしていた。

 放課後。

 喫茶店は、静かすぎた。

 いつも客は少ないけど、今日は“いない”。

 空気が少し重い。

 マスターはカウンターの奥で、豆の袋を開けている。

 中を見て、すぐ閉じる。

 また別の袋を開ける。

 同じことを繰り返している。

「少ない?」

 僕が聞く。

「入らん」

 短い。

「流れが変わった」

「流れ?」

「戻らん流れだ」

 それだけ言う。

 光希がカウンターに肘をつく。

「昨日のと関係ある?」

「知らん」

 でも、否定ではない。

 ルリは店の中を見ている。

 視線が落ち着かない。

「供給が不安定です」

「何が」

 光希が聞く。

「全体です」

「だから何の話」

「……説明が困難です」

 一瞬だけ、間があった。

 ほんのわずか。

 でも、確実に“選んだ”感じがある。

 光希はそれを見逃さない。

 でも今は追わない。

「とりあえず飲む」

 コーヒーが置かれる。

 僕は一口飲む。

 薄い。

 はっきりと。

「……違う」

 光希も同時に言う。

 カップを見ている。

「これじゃない」

「豆が違う」

 マスターが言う。

「変えざるを得ん」

 光希はもう一口飲む。

 少しだけ顔をしかめる。

「味の問題じゃない」

 小さく言う。

「なんか……抜けてる」

 その言い方は、正確だった。

 僕ももう一口飲む。

 その瞬間。

 味が消える。

 完全に。

 苦味も、酸味も、何もない。

 ただの液体。

 ほんの一瞬。

 すぐ戻る。

 でも、確かに“無”があった。

「……今」

 僕が言う。

 光希も顔を上げる。

「なに」

「味、消えた」

 一瞬だけ沈黙。

 光希はゆっくりもう一口飲む。

 止まる。

「……消えた」

 短く言う。

 ルリはカップを見ている。

 少しだけ、眉が寄る。

「供給不足と……一致します」

 わずかに間がある。

 その間が、さっきより長い。

「それ、さっきから言ってるけど」

 光希が言う。

「何が足りないの」

「……対象物質の供給です」

「何の」

 ルリは一瞬だけ黙る。

 視線がカップに落ちる。

「……特定は未完了です」

 はぐらかしている。

 でも、さっきよりも明確に。

 そのとき。

 湯気が揺れる。

 さっきと違う。

 外に流れない。

 逆に、内側に引き込まれる。

 僕は手をかざす。

 温かいはずの場所。

 ——冷たい。

 一瞬だけ。

 指先が、温度を見失う。

 すぐ戻る。

 でも、今のは“風”じゃない。

 何かが通った。

 見えないまま。

 ——視界が歪む。

 光。

 一直線。

 音が遅れてくる。

 鋭い電子音。

 「規定ルート外」

 声。

 短い。

 「追跡中断」

 別の声。

 重なる。

 速度が上がる。

 数値が跳ねる。

 「管轄外侵入」

 ——切れる。

 戻る。

 カップの湯気。

 ただの白い煙。

「……今の」

 光希が言う。

「見た?」

「見た」

 短い。

 ルリは最初から知っていたみたいに頷く。

「流入を確認」

「だから何が」

「規格外の交通です」

「交通って何」

「この環境に対する外部からの移動です」

「意味わかんない」

「……はい」

 ルリが一瞬だけ視線を落とす。

 その“はい”は、初めてだった。

 理解されないことを認めた声。

 マスターは何も言わない。

 でも、手を止めている。

 全部聞いている。

「コーヒー」

 光希が言う。

「これ、戻る?」

 マスターは少しだけ考える。

「戻らん」

 はっきり言う。

「流れが変わった」

 その言葉は重かった。

 変化じゃない。

 不可逆だ。

 光希はカップを見る。

 少しだけ唇を噛む。

「……じゃあ」

 小さく言う。

「なくなる?」

 誰もすぐには答えない。

 でも、否定はなかった。

 帰り道。

 自販機の光が、やけに白い。

 その光の中に立つと、現実が少し薄くなる。

 光希がボタンを押す。

 缶コーヒーが落ちる音。

 ガコン、と鈍い音。

 一口飲む。

 すぐに顔をしかめる。

「……これも」

 短く言う。

「同じ」

 僕も飲む。

 やっぱり薄い。

 でも、それだけじゃない。

 さっきの“無”が、また来る。

 一瞬だけ。

 完全に味が消える。

 ルリは自販機を見ている。

「この供給網は脆弱です」

「どこもそんなもんでしょ」

「代替が存在しません」

「だから何」

「……危険です」

 少しだけ言い淀む。

 その言葉は、さっきより人間に近い。

 空を見る。

 夜が深くなっている。

 その中を。

 光が走る。

 今度ははっきり見える。

 道路に沿って。

 曲がる。

 速度が異常だ。

 音が遅れて、まとめて来る。

 低い振動。

 地面がわずかに鳴る。

「……また」

 光希が言う。

 目を逸らさない。

「増えてる」

 ルリは頷く。

「流入量、増加中」

 短い。

 でも、断定だった。

 僕は何も言わずに、それを見る。

 光はすぐ消える。

 でも、残る。

 目の奥に。

 舌の奥に。

 さっきの“無”が、消えない。

 街はいつも通りだ。

 人も、車も、何も変わらない。

 でも、その上を、何かが走っている。

 しかも、増えている。

 それが一番、嫌だった。


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