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仮説

放課後の化学室は、静かすぎて少しだけ落ち着かない。

 窓は開いているのに、空気が動いていない感じがする。薬品の匂いが、どこにも行かずにそのまま残っている。

 机の上には、ビーカーとフラスコと、あとドリッパー。

 並びが少しおかしい。

「理屈でやる」

 光希が言う。

 白衣を羽織っている。袖は少しだけ長い。

「まず前提」

 ノートを開く。

「同じ条件でも、味は変わる」

 ペンを走らせる音が、やけに大きく聞こえる。

「これは確認済み」

 顔を上げる。

「でも変化には傾向があるはず」

「傾向?」

 僕が聞く。

「ランダムじゃないってこと」

 短く言う。

「何かに引っ張られてる」

「何かって」

「それを調べる」

 迷いがない。

 ルリは少し離れたところに立っている。

 白衣は着ていない。

 代わりに、制服のまま。

 でも、なぜかその方が違和感がある。

「器具の配置が不適切です」

 いきなり言う。

「何が」

 光希が振り向く。

「導線が非効率です」

「ここ実験室だから」

「最適化が可能です」

 そう言って、勝手にビーカーを動かす。

 並びが変わる。

 妙に整っている。

「……勝手に触らないで」

「合理化です」

「やめて」

 即答。

 でも完全に止めないあたりが、光希らしい。

 僕はそのやり取りを見ながら、椅子に座る。

 喫茶店とは逆だ。

 あっちは木で、こっちは鉄。

 あっちは落ち着くのに、こっちは落ち着かない。

「じゃあやるよ」

 光希が言う。

 コーヒー豆を袋から出す。

 挽く音が、静かな部屋に響く。

 ザラザラとした音。

 その音を、ルリがじっと見ている。

「粒度が不均一です」

「家庭用だから」

「誤差が増えます」

「だからそれも含めてデータ取るの」

 少しだけ強い。

 ルリは頷く。

「了解しました」

 ドリッパーに粉を入れる。

 お湯を注ぐ。

 細く、ゆっくり。

 光希の動きは丁寧だった。

 慣れている。

 でも、どこか固い。

 “正しくやろうとしている”動きだった。

「時間、測って」

「了解」

 僕は時計を見る。

 ルリは横から覗き込んでいる。

 距離が近い。

「三十秒経過」

 ルリが先に言う。

「まだ言ってない」

「視認しました」

「じゃあ黙ってて」

 光希が言う。

 ルリは黙る。

 でも、視線は外さない。

 抽出が終わる。

 カップに落ちた液体は、見た目は普通だった。

 光希はそれを三つに分ける。

「同時に飲む」

「なんで」

「条件揃えるため」

「そんな変わる?」

「変わるかどうか見るの」

 カップを一つ渡される。

 ルリにも渡す。

「いくよ」

 光希が言う。

 僕たちは同時に口をつける。

 苦い。

 でも、さっきと違う。

「……どう」

 光希が聞く。

「さっきより軽い」

 僕が言う。

「同意します」

 ルリが言う。

「酸味が増加しています」

「……なんで」

 光希が小さく呟く。

 ノートに書く。

「条件は同じ」

 ペンが止まる。

「なのに違う」

 ルリがカップを見る。

「変動があります」

「それは見ればわかる」

「原因は外部です」

「外部って何」

「未特定です」

 またそれだ。

 光希はペンを置く。

 少しだけ考える。

「……もう一回」

 短く言う。

 同じ手順で淹れる。

 同じようにやる。

 同じように飲む。

 違う。

 今度は、少しだけ重い。

「……ふざけてる?」

 光希が言う。

 誰にでもなく。

 でも、はっきりと苛立っている。

「再現性がありません」

 ルリが言う。

「あるはずなんだよ」

 光希は顔を上げる。

「じゃないと困る」

 その言い方は、少しだけ本音だった。

 ルリは少しだけ考える。

「前提が誤っています」

「何が」

「再現可能であるという前提です」

 光希が止まる。

 ほんの一瞬だけ。

「……は?」

「この現象は、再現を前提としていません」

「そんなの現象じゃないでしょ」

「定義の問題です」

「逃げてるだけ」

 短く言う。

 空気が少しだけ張る。

 そのとき、ルリがポケットから何かを出す。

 薄い板みたいなもの。

 光が少しだけ揺れている。

 それを開く。

 紙じゃない。

 でも、ページみたいにめくれる。

 文字が並んでいる。

 見たことのない形。

 でも、いくつかだけ、なんとなく意味がわかる。

 僕は少しだけ身を乗り出す。

「……それ何」

「情報媒体です」

「新聞みたいな?」

「類似しています」

 光希も覗き込む。

「読めるの?」

「はい」

 当たり前みたいに言う。

 画面の一部に、大きな文字。

 意味はわからない。

 でも、その下にある単語だけ、引っかかる。

 “新成分”

 “供給”

 “特効薬”

「……それ」

 光希が言う。

「何の話?」

「医療関連です」

 ルリはさらっと言う。

「具体的には」

「詳細は非公開です」

「なんで」

「機密情報です」

「じゃあなんで持ってるの」

「公開範囲内です」

 会話が噛み合っていない。

 でも、単語だけが残る。

 新成分。

 供給。

 特効薬。

 コーヒーの匂いが、少しだけ強くなる。

「……関係ある?」

 光希が言う。

 小さく。

 ルリは少しだけ間を置く。

「不明です」

 それだけ言う。

 でも、否定はしない。

 光希はそのままノートを見る。

 書かれているのは、さっきのデータ。

 全部、揃っているはずの数字。

 なのに、結果が違う。

「……おかしい」

 小さく言う。

 その声は、今までで一番静かだった。

 そのとき。

 ビーカーの中の液体が、わずかに揺れる。

 誰も触っていない。

 でも、確かに揺れた。

「……今」

 僕が言う。

 光希も見る。

「見た?」

「見た」

 短く答える。

 ルリはすでにそれを見ている。

「外部干渉を確認」

「何それ」

「影響が拡大しています」

「だから何の話」

 ルリは答えない。

 ただ、ビーカーを見ている。

 液体はもう揺れていない。

 元に戻っている。

 何もなかったみたいに。

 でも。

 さっき確かに、動いた。

 光希はゆっくり息を吐く。

 ノートを閉じる。

「……続ける」

 短く言う。

「ここでやめたら意味ない」

 顔を上げる。

「全部繋がってる」

 その言い方は、もう迷っていなかった。

 ルリを見る。

「隠してることあるでしょ」

「あります」

 即答だった。

 光希が一瞬だけ言葉を失う。

「……言わないの?」

「現時点では非推奨です」

「理由は」

「影響が拡大します」

「もうしてる」

 即答。

 ルリは少しだけ黙る。

 それから、ゆっくり言う。

「では、観測を続けてください」

「……は?」

「その方が効率的です」

 光希は少しだけ笑う。

 さっきとは違う笑い方。

「いいよ」

 短く言う。

「じゃあ勝手にやる」

 その言い方は、少しだけ挑発的だった。

 でも、止まらない。

 もう止まらない感じがある。

 僕はその横で、カップを持つ。

 一口飲む。

 やっぱり違う。

 同じものなのに、同じじゃない。

 そのズレが、さっきよりもはっきりしている。

 窓の外を見る。

 空は普通だ。

 でも、普通すぎる気もする。

 何も起きていないみたいに見える。

 その方が、少しだけおかしい。


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