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測定不能

午後の光は、店の中に入ると少しだけ柔らかくなる。

 外ではただ明るいだけの光が、ガラスを通ると少し色を持つみたいで、木のカウンターの上に落ちる影も、どこか落ち着いた形になる。

 音はいつも通りだった。

 レコードの針が落ちて、少しだけノイズが混じる。ギターと、ドラムと、低いベースの音。知らない曲だけど、何度か聴いている気がする。

 僕はカウンターの端に座っていた。

 目の前には、まだ手をつけていないコーヒー。

 香りが少しだけ強い気がする。

 気のせいかもしれない。

「今日は来るの早いね」

 光希が言う。

 カウンターの中から、こちらを見ている。今日はバイトの日らしく、髪は後ろでまとめていた。

「なんとなく」

「なんとなくで来る場所じゃないでしょ」

「そう?」

「そう」

 即答だった。

 でも、そのあとで少しだけ笑う。

「まあいいけど」

 マスターは何も言わずにコーヒーを置く。

 カップから立ち上る香りが、さっきよりも少しだけ濃い。

 僕はそれを一口飲む。

 苦い。

 いつも通りのはずなのに、どこか輪郭がはっきりしている気がする。

「……今日、強い?」

「同じだ」

 マスターは短く言う。

 光希が少しだけこちらを見る。

「どう?」

「わからない」

「でしょ」

 なぜか少しだけ満足そうに言う。

 そのとき、ドアのベルが鳴る。

 昨日と同じ音だった。

 ルリが入ってくる。

 今日は少しだけ歩き方が速い。

 迷わずカウンターまで来ると、僕たちの間に視線を落とす。

「再現を試みます」

 いきなりだった。

「なに」

 光希が言う。

「この飲料の再現です」

 マスターの方を見る。

「抽出に使用した条件を提示してください」

 少しだけ間が空く。

「企業秘密だ」

「では観測します」

 ルリはそれだけ言うと、カウンターの上に小さなメモ帳を出す。

 見慣れない素材だった。

 紙みたいだけど、少しだけ光を反射する。

「ちょっと待って」

 光希が言う。

「何する気?」

「測定です」

「何を」

「温度、抽出時間、液量」

 淡々としている。

「あと、環境要因」

「環境要因って」

「気温、湿度、音」

 そこで、少しだけ店内を見回す。

「光量」

「……そこまでやる?」

「必要です」

 光希は一瞬だけ黙る。

 それから、小さく笑う。

「じゃあやってみれば」

 少しだけ挑発的だった。

 ルリは気にしない。

 カップに手を伸ばす。

 触れる前に、少しだけ止まる。

「……高温」

「見ればわかるでしょ」

「定量化が必要です」

 そう言って、ポケットから細い棒みたいなものを出す。

 先端をカップに近づける。

 光が一瞬だけ走る。

 数字が浮かぶ。

 僕には見えないけど、ルリはそれを見ている。

「八十六度」

「そんなに?」

 光希が言う。

「今はそのくらいだ」

 マスターが答える。

 ルリはメモを取る。

 書いている内容は、少しだけ変だった。

 数字と記号が混ざっている。

「抽出時間は」

「さっきから見てただろ」

「正確な値が必要です」

「だいたい三分だ」

「だいたいは不要です」

「三分だ」

 マスターは短く言い直す。

 ルリは頷く。

 メモを続ける。

 光希がカウンターに肘をついて、その様子を見ている。

「で、それで何かわかるの?」

「再現可能かを判断します」

「できると思ってるの?」

「可能性はあります」

「ないよ」

 即答。

 ルリは視線を上げる。

「なぜですか」

「毎回違うから」

「条件が揃えば同一になります」

「ならないって」

 光希は少しだけ身を乗り出す。

「同じ豆使っても、同じ人が淹れても、違うでしょ」

「誤差です」

「誤差じゃない」

 短く言う。

「そこが味でしょ」

 ルリは少しだけ考える。

「誤差を含めて再現します」

「無理だって」

「なぜですか」

「だから——」

 言葉が詰まる。

 でも、すぐに続ける。

「同じじゃないからいいんだよ」

「同一でないものに価値がある?」

「あるよ」

 即答。

 少しだけ強い。

「むしろそっちの方がいい」

「非効率です」

「効率の話してない」

 空気が少しだけ張る。

 僕はその間に口を挟む。

「飲んでみたら」

 ルリは一瞬だけこちらを見る。

 それから、カップを持つ。

 一口飲む。

 ほんの少しだけ、目が細くなる。

「……前回と差異があります」

「でしょ」

 光希が言う。

「同一条件でも変化しています」

「だから言ってる」

「この変化は——」

 少しだけ止まる。

 考えている。

「環境要因ではありません」

「じゃあ何」

 光希が聞く。

 ルリはカップを見たまま言う。

「観測系の問題です」

「……は?」

 光希の眉が寄る。

「どういう意味」

「対象ではなく、観測側に誤差が発生しています」

「観測側って」

「味覚、認識、時間」

 さらっと言う。

「全部ズレている可能性があります」

 少しだけ、静かになる。

「それ、どういうこと」

 光希が聞く。

「説明不能です」

「は?」

「現段階では定義できません」

 光希は言葉を失う。

 ほんの一瞬だけ。

 そのとき、外で音がする。

 車の音じゃない。

 もっと、細い音。

 空気を切るような。

 僕は反射的に窓の方を見る。

 光が走る。

 昨日と同じ。

 でも、少しだけはっきりしている。

 細い線が、斜めに空を横切る。

「……今の」

 思わず言う。

 光希も窓を見る。

 一瞬遅れて。

「……何?」

「見えた?」

「何が」

 ルリはすでに窓の方を見ている。

 その目が、ほんの少しだけ変わる。

「流入を確認」

 小さく言う。

「何それ」

 光希が聞く。

「この程度なら、まだ許容範囲です」

「だから何の話」

 ルリは答えない。

 ただ、外を見ている。

「軌道が不安定です」

「ちょっと待って」

 光希の声が少し強くなる。

「それ、どういう意味?」

「説明不能です」

「ちゃんと説明して」

「できません」

「なんで」

「理解が前提となるためです」

「は?」

 光希が一歩踏み込む。

「わかるように言って」

 ルリは少しだけ黙る。

 それから、ゆっくり首を振る。

「現状では不可能です」

 その一言で、空気が切れる。

 光希の表情が、はっきりと変わる。

「……なにそれ」

 小さく言う。

「意味わかんない」

「そうですね」

 ルリはあっさり認める。

「意味はまだ定義されていません」

「ふざけてる?」

「いいえ」

「じゃあ何なの」

 少しだけ、間が空く。

 ルリは答えない。

 ただ、カップを見ている。

 光希はそれを見て、息を吐く。

 強くではない。

 でも、はっきりと。

「……もういい」

 小さく言う。

 でも、そこで終わらない。

 顔を上げる。

「調べる」

「何を」

 僕が聞く。

 光希は少しだけ笑う。

 いつもの笑い方に近いけど、少しだけ違う。

「全部」

 短い。

「コーヒーも、さっきの光も」

 ルリを見る。

「それも含めて」

 ルリは少しだけ目を細める。

「非推奨です」

「関係ない」

 即答。

「わかんないままの方が気持ち悪い」

 少しだけ間が空く。

 店の中の音が戻ってくる。

 レコードは同じように回っている。

 コーヒーの匂いも、変わらない。

 でも、さっきまでと同じじゃない。

 何かが、確実に動いている。

 僕はカップを持つ。

 一口飲む。

 さっきよりも、少しだけ苦く感じる。

 同じはずなのに。

 違う。

 その違いが、どこから来ているのかは、まだわからない。


 誰もすぐには動かなかった。

 光希の「全部」という言葉だけが、少し遅れて店の中に残る。

 マスターは何も言わずに、次のレコードを手に取っている。ジャケットを少しだけ傾けて、光を見てから戻す。

 針が上がる。

 ほんの一瞬だけ、音が消える。

 それから、また別の曲が始まる。

 さっきよりも、少しだけテンポが遅い。

 ルリはまだ窓の方を見ていた。

「……減衰しています」

 小さく言う。

「何が」

 光希が聞く。

「流入量です」

「だから、それ」

 言いかけて、止まる。

 さっきと同じやり取りになるのが分かっているからか、言葉を飲み込む。

 ルリはゆっくりとカウンターに向き直る。

 その動きが、ほんの少しだけ遅れて見える。

 錯覚かもしれない。

「観測は継続します」

 淡々としている。

 さっきまでのやり取りがなかったみたいに。

「勝手にやって」

 光希が言う。

 声は落ち着いている。

 でも、ほんの少しだけ速い。

「止めないから」

「ありがとうございます」

 礼を言うタイミングが、少しだけずれている。

 光希はそれに気づいているのかいないのか、何も言わない。

 カウンターの上に置かれたカップを、自分の方に引き寄せる。

 冷めかけている。

 一口飲む。

 少しだけ顔をしかめる。

「……やっぱり違う」

 誰に言うでもなく呟く。

「何が」

 僕が聞く。

「さっきと」

 カップを見ながら言う。

「同じはずなのに」

「冷めてるからじゃない」

「それだけじゃない」

 短く返す。

 その言い方は、さっきまでよりも少しだけ強い。

 何かを確かめるみたいに、もう一口飲む。

「……変わってる」

 ルリが横から言う。

「温度低下による味覚変化です」

「違う」

 光希はすぐに否定する。

「そういう話じゃない」

「では何ですか」

「それがわかんないから言ってる」

 少しだけ、言葉が荒くなる。

 でも、怒っているというより、焦っている感じだった。

 ルリはカップを見る。

 それから、自分のカップを持つ。

 一口飲む。

「差異は確認できます」

「でしょ」

「原因は未特定です」

「だから調べるって言ってる」

 光希はカップを置く。

 音が少しだけ強い。

「順番にやる」

 独り言みたいに言う。

「まずコーヒー」

 指でカップの縁をなぞる。

「次に、さっきの光」

 窓の方を一瞬だけ見る。

「あと——」

 少しだけ止まる。

 ルリを見る。

「あなた」

 短い。

 ルリは瞬きを一度だけする。

「私ですか」

「そう」

「観測対象として扱うのですか」

「そういう言い方やめて」

 即答。

 でも、否定しきれていない。

「普通に話すだけ」

「理解しました」

 頷く。

 その動きも、少しだけ正確すぎる。

 マスターが、ようやく口を開く。

「やめとけ」

 短い。

 光希が振り向く。

「何を」

「全部だ」

「なんで」

「面倒になる」

「もうなってるでしょ」

 即答。

 マスターは少しだけ目を細める。

「そういう意味じゃない」

「どういう意味」

「戻れなくなる」

 短く言う。

 光希は一瞬だけ黙る。

 でも、すぐに返す。

「戻る必要ある?」

 マスターは答えない。

 レコードの回転を見ている。

 針が溝をなぞる音だけが、少しだけ大きくなる。

「……あるよ」

 小さく言う。

 誰に向けたわけでもない。

 でも、その言葉ははっきりしている。

 光希はそれを聞いて、少しだけ笑う。

「じゃあ戻れるようにやる」

 軽く言う。

 でも、その軽さは少しだけ作られている。

 カウンターから一歩下がる。

「明日、部室来て」

 僕の方を見る。

「放課後?」

「うん」

「いいけど」

 ルリの方を見る。

「あなたも」

「参加は必須ですか」

「半分くらいはあなたのせいだから」

「因果関係は未確定です」

「じゃあ確認する」

 短く言う。

 ルリは少しだけ考える。

「了解しました」

 それだけ言う。

 店の中の空気が、ほんの少しだけ変わる。

 さっきまでとは違う方向に、流れ始めている。

 決まってしまった感じがある。

 僕はカップを持つ。

 もう一度飲む。

 さっきよりも、少しだけ苦い。

 同じはずなのに、違う。

 その違いが、今ははっきりとある。

 窓の外を見る。

 空はもう普通だった。

 何も走っていない。

 でも。

 さっき確かにあったものが、なかったことになっている感じがする。

 消えたんじゃなくて、最初からなかったみたいに。

 その方が、少しだけ気持ち悪い。

 店の中に視線を戻す。

 光希はメモ帳を開いている。

 さっきから何かを書いている。

 ルリはその横で、静かに見ている。

 マスターは何も言わない。

 音だけが流れている。

 全部、いつも通りに見える。

 でも、もう同じではない。

 何かが始まっている。

 はっきりとは見えないまま。


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