違和感
夜の道は、昼とは別の場所みたいになる。
同じ道のはずなのに、幅とか距離とか、そういうものが少しだけ変わる気がする。車の音も、人の気配も、全部が一段下がったところで流れているみたいで、どこか現実感が薄い。
その日、僕は少し遅くまで外にいた。
特に理由があったわけじゃない。帰るタイミングを逃しただけで、そのままなんとなく歩いていた。
通りの角に、自販機が並んでいる。
白い光が、やけに強い。
昼間に見るよりも明るすぎて、その前だけ時間が止まっているみたいに見える。
誰もいないのに、ずっと点いている。
缶コーヒーの列を、なんとなく眺める。
似たような色が並んでいるのに、微妙に違っていて、どれを選べばいいのかよくわからない。
手は伸びないまま、その場を離れる。
少し先に、公衆電話がある。
ガラスで囲まれていて、中だけが別の場所みたいに明るい。
受話器はちゃんと戻されていて、硬貨の投入口も光っている。
誰も使っていないのに、いつでも誰かが使える状態のまま、そこにある。
誰かが使った気配だけが、少し残っている。
でも、もう誰にも繋がらないような気がする。
僕は一瞬だけ立ち止まって、それを見てから、また歩き出す。
大きな通りに出る。
オレンジ色の街灯が、一定の間隔で並んでいる。
その下を通るたびに、自分の影が少しずつ形を変える。
遠くで、クラクションが鳴る。
短く、でも妙に鋭い音だった。
僕は足を止めて、少しだけ空を見る。
雲は少なくて、街の明かりのせいで星はほとんど見えない。
その代わり、何もないはずの場所に、光が走る。
細い線みたいなものが、一瞬だけ空を横切る。
飛行機、という感じではなかった。
まっすぐじゃない。
少しだけ、曲がっていた。
音はない。
少し遅れて、風みたいな音がする。
上じゃなくて、横から来るような音だった。
道路の向こうで、車が一台、急にブレーキを踏む。
タイヤが擦れる音がして、それから少しだけ間が空く。
誰かが何か言っているけど、内容までは聞こえない。
僕は、その場に立ったまま、もう一度空を見る。
さっきの線は、もうない。
ただ、さっきまでなかったはずの光が、少しだけ残っている気がする。
残っている、というより、遅れて見えているみたいな。
うまく言えないけど、時間が少しだけずれている感じがする。
さっきの光が走ったあと、ほんの一瞬だけ、空に線が残る。
残像みたいに。
でも、それはすぐに消える。
消える、というより、最初からなかったみたいになる。
記憶の方が遅れている感じがする。
ポケットの中で、何かが震える。
携帯だった。
取り出してみると、画面は暗いままで、着信も何もない。
でも、確かに今、振動した。
もう一度見るけど、何も変わらない。
「……なんだこれ」
小さく言う。
その声が、少し遅れて返ってくる気がした。
もちろん、そんなはずはない。
僕は携帯をしまって、歩き出す。
さっきよりも少しだけ速く。
角を曲がる。
コンビニの明かりが見える。
ガラス越しに、店員が一人、雑誌を並べている。
動きがゆっくりで、音は外まで届かない。
自動ドアは開かないまま、ただ光だけが漏れている。
中に入れば、たぶん全部いつも通りだ。
そう思うと、入る気がしなくなる。
でも、少しだけ立ち止まる。
ガラスに、ポスターが貼ってある。
新商品の飲み物の広告のはずだった。
でも、何が書いてあるのか、うまく読めない。
文字は見えている。
フォントも、配置も、見慣れているはずなのに、意味が入ってこない。
日本語のはずなのに、途中で崩れている。
単語の区切りが、わからない。
僕は少しだけ近づく。
読もうとすると、逆に読めなくなる。
離れると、普通に見える気がする。
「……なんだこれ」
もう一度言う。
でも、店の中の店員は、何も気にせずその前を通っている。
誰も見ていない。
いや、見えているはずなのに、見ていない。
僕だけが、少しだけ引っかかっている。
そのまま通り過ぎる。
さっきの場所だけが、少し変だった。
そういうことにしておく。
家に帰っても、特に何も起きなかった。
テレビをつけると、いつも通りの番組が流れている。
時間も、普通に進んでいる。
さっきのことは、うまく思い出せない。
細かい部分が抜け落ちている感じがする。
ただ、音だけは残っている。
あの、横から来るような音。
それだけが、少し引っかかる。
次の日。
教室に入ると、空気はいつもと変わらなかった。
誰かが笑っていて、誰かが眠そうにしていて、教師がまだ来ていない時間の、少しだけ緩い感じ。
光希は、すでに席に座っていた。
本を読んでいる。
「おはよう」
「おはよう」
顔を上げずに返す。
「昨日さ」
「何」
「変なもの見た」
ページをめくる手は止まらない。
「何それ」
「空に、線みたいなの」
「飛行機でしょ」
「音なかった」
「じゃあ別の飛行機」
「そんな適当な」
「適当じゃないよ」
「証拠あるの?」
「ないけど」
「じゃあ気のせい」
即答。
「出た」
「何が」
「いつものやつ」
「あるって言い切るよりマシでしょ」
短い。
でも、そのあとで少しだけ間が空く。
光希はページを止めて、少しだけ考える。
「……どんな感じだったの」
顔を上げる。
「まっすぐじゃない」
「何それ」
「ちょっと曲がってた」
「光が?」
「たぶん」
「“たぶん”ばっかり」
「しょうがないじゃん」
「よくない」
少し眉を寄せる。
「……まあでも」
「何」
「見間違いじゃない可能性も、ゼロではない」
小さく言う。
「珍しいね」
「別に」
視線を戻す。
「情報が足りないだけ」
少しだけ間が空く。
「……ちゃんと観察して」
ぽつりと付け足す。
「じゃないと、何もわかんないから」
チャイムが鳴る。
授業が始まる。
黒板に文字が並んでいく。
その途中で、ほんの一瞬だけ、窓の外に光が映る。
細い、切れ端みたいな光。
でも、それはすぐに消える。
誰も気づかない。
僕も、見間違いかもしれないと思う。
ただ、昨日よりも少しだけ近い気がした。




