第五話「同じ教室、遠いままで」第6節
車は、夕暮れの街を静かに進んでいた。
タイヤが路面の段差を拾う音が、一定のリズムで車内をかすかに揺らしている。窓から差しこむ夕陽の帯が座席を淡くなぞり、車の内装に薄く影を落としていた。
後部座席では、左に藍、中央寄りにローリィ、右にマイブリットが座っている。
ローリィはミニテーブルに置いたタブレット端末を相手に、指先を絶え間なく動かしていた。ときおり短い操作音が静かな車内に混じるが、本人は話しかける隙もないほど集中しているようだった。
マイブリットは、ローリィの向こうで窓の外へ目を向けていた。背もたれに浅く身を預け、流れていく街並みをただ眺めているようにも見える。藍はそっと横目でその様子をうかがう。
表情は静かで、何を考えているのかは読み取れない。ただ、窓の外へ向けた目の置き方がふっと遠のくように見えるたび、胸のどこかで引っかかっているものがあるのではないかと、藍には思えた。
運転しているDは、ハンドルを握る手に無駄がない。合図も操作も滑らかで、車の動きはどこまでも穏やかだった。
送風口から流れる冷気が頬をかすめ、藍は小さく息をついた。
窓の外では、夕暮れの色がゆっくりと街の上を流れていた。
車は商店街を抜け、細い裏道へ入った。街灯の列が窓の外を後ろへ流れていく。見慣れた店先の明かりが過ぎるたびに、家が近づいているのがわかった。
藍は膝の上の鞄を抱え直し、鞄の中の鍵の感触を確かめる。そろそろ降りる準備をしたほうがいいと思いながら、何か言おうとして、結局そのまま口を閉じた。
この静けさを自分から破るのは、どうにも気がひけた。ローリィは作業に没頭しているし、マイブリットもずっと黙ったままだ。この空気の中へ自分の声を割りこませるのは、ひどく場違いなことのように思えた。
ローリィが小さく息を吐いた。タブレット端末の画面をひと撫でして操作を終えると、ミニテーブルをしまいながら、助手席のほうへ端末を小さく放り投げる。端末は助手席の座面で軽く跳ね、そのまま足元へ落ちかけた。Dは前を向いたまま、片手を伸ばし、慣れた動きでタブレット端末が落ちないように受け止める。
ローリィは肩をほぐすように回し、何かを思い出したかのように藍のほうへ顔を向けた。
「そういえば、学校って文化祭はやるの? ミスコンとか?」
不意に飛んできた問いに、藍は戸惑った。
「えっ? えっと……文化祭はあるけど、ミスコンみたいなのは、たぶん今はやらないんじゃないかな」
答えながら、自分でも曖昧な回答だと感じた。けれどローリィは気にした様子もなく、すぐ次の言葉を重ねてくる。
「そうなの? じゃあバンドは? 演劇? 模擬店はあるでしょう? クラスごとに何かやるの? そういう行事の日って、浴衣で登校できたりしないの?」
藍は目を瞬かせた。質問が途切れない。続けて質問されると頭の中で順番がこんがらがる。
「え、えっと……バンドはたぶん有志で、演劇はクラスによると思うし、模擬店は……たしかあったような……浴衣は、どうだろ、たぶん駄目じゃないかな」
答えているうちに、自分が何から返しているのかもわからなくなってくる。ローリィはそれでも興味が尽きないらしく、身を少しだけこちらへ寄せる。
「へえ。じゃあ、メイド喫茶とかお化け屋敷とか、ああいう定番は? 文化祭実行委員みたいなのもあるの? あと、後夜祭は?」
「こ、後夜祭……? えっと、学校によってはあるのかもしれないけど、うちはどうだったかな……」
追いつかない。藍は困ったように笑ったものの、それで流せる勢いではなかった。
「……ティグ、アイが困ってる」
マイブリットからの声は低く静かで、それだけで車内の雰囲気を引き締めるのに充分だった。
ローリィはそこでようやく、自分が藍のすぐ近くまで身を乗り出していたことに気づいたらしかった。小さな咳払いをする。
「そうね。少し羽目をはずしすぎたわ」
ローリィは何事もなかったような顔で言いながら、藍のほうへ寄っていた上体を引き、背もたれに身体を預けた。ローリィの向こうでは、マイブリットが窓の外へ視線を戻していた。
夕陽が横顔を斜めに切り取り、金色の髪の輪郭だけが淡く浮かぶ。さっきの一言の余韻だけが、静かに残っていた。
藍は苦笑した。急にいくつも質問されたために気圧されただけで、落ち着いて順番を整えれば、いくつかは答えられるはずだった。マイブリットが間に入ってくれたおかげで、ようやく頭の中の順番を並べ直せそうな気がする。
藍は視線をローリィへ向ける。
「ごめんね、ローリィちゃん……ちょっと考えるから、待ってて」
ローリィは軽く肩をすくめて、短くうなずく。
「いいわよ。ゆっくりで」
藍は膝の上の鞄を抱えなおし、頭の中でさっきの質問をひとつずつ並べ直した。全部は無理でも、せめて一つ二つだけでも返しておきたい。そう思って、藍は口を開きかけた。
その時、車がゆるやかに減速し、家の近くの裏道で止まった。表通りではなく、黒塗りの車が目立たないよう、こういう場所を選んでいるのだろうと藍にも予想がついた。
ローリィへ返そうとしていた言葉は、そのまま喉の奥で止まってしまった。
揺れが収まり、後部座席のロックが外れる音がした。前では運転席のDが、バックミラー越しにこちらの降車の様子をうかがっている気配がする。Dが動くより先に、藍は内側の取っ手へ手をかけ、自分で後部ドアを少しだけ開けた。
「……えっと、さっきの話の続きは、また今度ね」
待ってもらったのに、結局ちゃんと答えを返せないまま降りることになるのが、藍には少し心残りだった。藍は鞄を持ちなおし、まずDへ軽く頭を下げる。
「送っていただいて、ありがとうございます」
そのあとで、ローリィとマイブリットへ視線を向け、小さくうなずいた。
「文化祭の話は、また時間ができたら聞かせてちょうだい。それと、ティオが問題を起こさないように見張っておいてね」
藍は苦笑して、首を横に振った。
「あはは……マイブリットさんは、問題なんて起こさないと思うけど」
「そう見えても、放っておくと厄介なことをする子なのよ。今はなおさら----」
ローリィがそこまで言いかけたところで、
「……ティグ」
マイブリットが低く名を呼んだ。咎めるというほど強くはない。ただ、それ以上は口にするなと促すような、短い声だった。
ローリィが一瞬だけ眉間に皺を寄せ、口を閉じる。その短い間に、藍は今の言葉の先に何かあるのだと感じたが、問い返すことはしなかった。
ローリィは何事もなかったように表情を整えた。
「まあ、ティオのことで何か困ったら連絡をお願い。私が無理でも、Dが駆けつけるはずだから」
藍がDへ視線を向けると、彼は運転席から短く頷いた。その控えめな仕草が、かえって言葉以上に確かなものに見えた。
「うん、ありがとう。……じゃあ、マイブリットさん、また明日、学校で」
藍は開けたドアの隙間から身体を外へ滑り出し、後部ドアの前で振り返って小さく手を振った。ローリィとマイブリットの姿をひと目だけ確かめてから、ドアを静かに押し戻す。ドアは、重い見た目に反して音もなく閉まった。
歩き出してからも、背中にはまだ車の中から見送られているような気配が残っていた。振り返るのも気恥ずかしくて、藍はそのまま少しだけ足を速めた。
**********
藍が車を降りたあと、車内には静けさが残った。
ドアは音もなく閉まり、送風口から流れる冷気だけが、変わらない調子で車内をめぐっている。
歩いて去っていく藍の背中は、夕暮れの色の中で少しずつ小さくなっていった。ローリィもマイブリットも、口を開かない。黒い内装に落ちる陽の帯が揺れ、停車したままの車内には、沈黙が続いた。
藍が角を曲がり、姿が見えなくなると、車はゆっくりと前へ進んだ。エンジンが低く唸り、その振動が車内に広がる。ルームミラーには去っていく藍の姿が一瞬だけ小さく映り、すぐに見えなくなった。
藍の去っていったほうから視線を前へ戻し、長く息を吐いた。マイブリットは窓の外へ顔を向けたまま、何も言わない。
その沈黙を破ったローリィの言葉は、藍の前で使っていた日本語ではなかった。英語にも聞こえない。乾いた子音と、抑えた母音が短く連なる。その言葉の響きによって、車内の空気がかすかに張りつめた。後部座席の右側で、マイブリットがローリィのほうを見やる。
ローリィはその言葉のまま、続けた----「あの子といると、こっちの調子が狂うわね。悪い気はしないけど」
マイブリットの口角が、ほんのわずかに動いた。笑った、と言うにはあまりに短い変化だったが、マイブリットの視線はローリィから外れない。
ローリィが眉間に皺を寄せる。
「何か言いたそうね?」
「別に」
マイブリットから返ってきたのも、同じ響きの言葉だった。日本語でも英語でもない、硬質で短い音が静かな車内で交わされる。
「それより、日本を離れることを黙っておいてよかったのか? 今日のお茶会はそのために急に設定したんだろう?」
「面倒くさいことになりそうだったから、わざわざ言う必要もないでしょ。あの子、招待だなんて言葉をすっかり信じて。どんくさい割に、気を遣いすぎるんだから」
「言いすぎ」とマイブリットが苦笑する。
「そう? 最初の評価に比べれば、これでもずいぶんましになったほうだけど」
ローリィは肩をすくめ、唇の端をわずかに上げた。笑い声は出ない。浮かべただけの笑みは、すぐに跡形もなく消える。
車はゆるやかに通りへ出て、街灯の光が窓の縁を淡く滑っていく。夕暮れは走るあいだにさらに沈み、運転席ではDが無言のまま、ハンドルを切っていた。
ローリィが、口を開く。
「他の端末達も気にし始めているわ。あの子をどうするのか、そろそろ正式に決めないと。私一人ではいつまでも押さえきれない」
「……わかっている。だけど、もうしばらく待ってほしい」
マイブリットは再び窓へと顔を向けた。夕暮れの残光が窓越しに制服の輪郭をなぞり、その淡い縁取りも、流れていく街の明かりの中へすぐに紛れていく。
窓の外の街並みは、一定の速さで後ろへ流れていた。信号待ちの車列の脇、点きはじめた店先の灯り、電柱のあいだに細く残る空。どれも途切れず続いているのに、窓に反射するマイブリットの横顔だけが、その流れから切り離されたままそこに留まって見えた。
前席のDは何も言わない。ハンドルを持つ手元で、ウインカーの操作音が短く鳴り、計器盤の光がフロントガラスの端に淡く反射してすぐに消える。その小さな明滅は、どこへも届かない合図のようだった。
ローリィは一度だけマイブリットの横顔を見て、背もたれに身体を預けなおした。
「貸し、ひとつだからね」
マイブリットは窓の外を見たまま、小さく頷く。
「面倒事を押しつけてしまって、すまない」
「利子をつけて返してもらうから、気にしなくていいわよ」
ローリィは肩をすくめると、それ以上言葉を重ねなかった。口元に浮かべた小さな笑みも長くは続かず、やがて視線を前へ戻す。
「……さて、と。今夜も徹夜になりそうだから、今のうちに仮眠をとっておくわ。D、着いたら起こして」
Dはルームミラー越しに一瞬だけ後部座席へ視線を送り、無言で短く頷いた。
ローリィは腕を組み、目を閉じた。送風の音が絶えず車内をめぐり、窓の外を流れる灯りの反射が、黒い内装の縁を細く滑っていく。
信号待ちで車が止まった。交差点で外の光の流れが途切れると、車内の輪郭だけが明瞭になる。
ローリィは閉じていた目をわずかに開け、マイブリットのほうを盗み見た。声はかけない。ただ、一度だけ様子を確かめると、再び目を閉じた。
マイブリットの視線は窓の外に向けられたままだ。街灯の光がマイブリットの横顔をかすめ、すぐにまた影へ戻していくその横顔に変化はなく、誰も次の言葉を口にしないまま、車は夜の道を進んでいった。
--つづく--




