第五話「同じ教室、遠いままで」第7節
今日も、朝の空気には夏の熱が残っていた。
校門を抜けて校舎へ入っても、湿度の高い空気のせいでうっすら汗がにじみ、ブラウスの袖が肌にはりつく。
廊下の窓からは朝の白い光が差しこみ、生徒たちの声や足音が途切れず行き交っていた。その中を、藍は昨日より少しだけ軽い足取りで歩いていた。それでも教室の入口まで来ると足は自然に止まり、そっと中を窺ってしまう。マイブリットの席は、まだ空いていた。
藍はそのまま、自分の席へと向かった。
教室の中では、すでに来ていた生徒達がいくつかのグループを作って雑談をしていた。
藍は鞄を机の脇に掛けると椅子に腰をおろし、小さく息をつく。
マイブリットの席が空いていることは気になった。けれど、昨日のように気持ちが大きく乱れることはなかった。
朝のホームルームまでまだ時間がある。藍は鞄から文庫本を取り出し、栞を挟んでいたページを開いた。
文字を目で追う。行をなぞるごとに、内容がそのまま頭に入ってくる。視線は途中で止まらず、物語に引きこまれていった。
ページをめくると、薄い紙の端が指先にかすかに引っかかる。そこでようやく、自分がいつもより少し速く読み進めていることに気づいた。
そのまま次の行へと進みかけたところで、登校時間の終わりを告げるチャイムが鳴り始めた。思っていたよりもずいぶん時間が過ぎていたらしい。
鳴り終わりかけたチャイムに重なるようにして、マイブリットが教室に姿を見せた。
藍と目が合うと、マイブリットはほんの小さく頷いた。藍は息に紛れるほどの小さな声で、「おはよう」と返した。それ以上は続けず、ほんのわずかに会釈する。
マイブリットは自分の席へ向かい、何事もないように椅子を引いて腰を下ろす。少し距離はあったが、姿勢が崩れず、視線も前へ向いたままなのは藍にもわかった。
それだけだった。けれど藍には、それだけで十分な気がした。昨日とは違う朝が、もう静かに始まっているのだと思えた。
マイブリットの近くの女子が、声をかける隙を見つけたように身を乗り出す。何かを話しかけようとしたその時、教室の前方のドアが開いた。
担任がプリントの束を抱えて入ってくると、教室のあちこちで続いていた話し声が途切れていった。立ち話をしていた生徒達が自分の席へ戻り、椅子を引く音が短く重なる。
担任は出席を取り、いくつかの連絡事項を手短に告げていく。提出物の締切や今週の予定。どれも特別なものではなく、淡々と進んでいった。
プリントが前の席から後ろへと回される。藍のところへもすぐに一枚が届いた。それは、席替えの結果だった。
藍はそれを受け取り、目を落とした。胸の奥で覚悟を整える。一学期の席決めでは番号順だった。昨日引いたくじの番号が離れているマイブリットとは、今回も近くにはならない。
そう思っていた。
けれど、目に入った配置は違っていた。
窓側の端の列。いちばん後ろにマイブリットの名前。そのひとつ前に、自分の名前があった。
藍は一度目を閉じる。少し間を置いて目を開け、再び席の配置を確かめる。見間違いではなかった。胸の奥にあった緊張が、少しずつほどけていくのを感じた。
藍はゆっくりと顔を上げ、今は離れた場所にいるマイブリットへ視線を向ける。マイブリットは、こちらを見ているわけではない。
それでも、もう遠く感じなかった。
藍は小さく息をつき、もう一度だけプリントへ目を落とした。
担任の指示に合わせて、教室のあちこちで席の移動が始まった。机を大きく動かす列もあったが、窓際の端にある藍の席は、自分の机をひとつ前へずらすだけだ。空いた最後列に、マイブリットが入ることになる。
藍は椅子を引き、机の脇の鞄を抱え直して、自分の机をひとつ前へずらした。それから通路側へ身を寄せ、空いた後ろの席に入りやすいように身体をよける。
すぐ背後で机が引かれる音がした。椅子の脚が短く床を擦り、空いていた後ろの席に人の気配が収まる。
通路側へ寄せていた身体を戻しかけたところで、その近さに落ち着かなくなり、藍は肩越しに振り向いた。
「よろしく」
マイブリットの声はいつも通り低く、短い言葉だった。
藍は一瞬だけ目を合わせる。それだけで胸の奥が妙に浮ついた。嬉しくなっている自分に気づいた途端、それを見透かされるのが急に恥ずかしくなる。
「こ、こちらこそ」
返した声は少しうわずっていた。自分でもそれに気づいて、藍はごまかすように前へと向き直る。
背中のすぐ後ろに、マイブリットの気配がある。
それだけで胸のあたりが落ち着かない。それを顔には出したくなくて、藍は机の上へ視線を落とし、置いてあったペンケースを机の端へそっと寄せた。
近くでは賑やかな男子が、隣の席になった相手に声をかけ、周囲でも笑い声がいくつも重なる。けれど藍の意識は、自分の後ろの席にばかり向いていた。
ずっと見ているわけではないのに、すぐ後ろにいることだけは常に感じられる。その曖昧な近さが、藍には妙に心地よかった。
藍は胸の内でそっと息をつき、もう一度だけ、プリントの自分の名前を指先でなぞった。
席替えの後のざわめきも少しずつ静まっていく。ホームルームが終わると、そのままいつもの授業が始まった。
教師の声が前から流れ、黒板にチョークが走る。ノートをめくる音や椅子を引く小さな擦れが、教室のあちこちで重なった。藍も机に向かい、板書を写しながら少しずつ気持ちを落ち着けていった。
休み時間になるたびに、マイブリットは席を立った。誰かが声をかける隙もないほど自然に教室を出ていき、次の授業が始まる少し前になると、何事もなかったように戻ってくる。
背後で椅子が短く床を擦るたび、藍は顔を向けなくても、マイブリットが戻ってきたことがわかった。
また何かの「お仕事」なのかもしれない、と藍は思った。
そう思っても、藍はそれ以上を考えないようにした。マイブリットには、学校の外で藍の知らない役割がある。藍もそれはわかっていたし、夏休みに見てきたことも、その「お仕事」の一部に違いない。
けれど、聞き出すつもりはなかった。話せることなら、マイブリットのほうから話してくれるはずだ。それまで、藍から尋ねることはしないと決めていた。
藍は視線をノートへ戻した。黒板の字を追い、教師の説明を書き留めていく。手は動かしながらも、意識の端にはマイブリットのことが残っていた。
昼休みが近づくにつれて、藍は昨日の約束を何度も思い出していた。気にしないようにしても、そのことだけは意識の端に繰り返し浮かんでくる。
四時間目の終わりが近づくと、教室の空気も少しずつ落ち着かなくなっていった。まだ教師の声は続いているのに、生徒たちの意識はもう昼休みへ向いている。
昼休みのチャイムが鳴ると、授業中は静かだった教室の空気が、笑い声とざわめきで一気に緩んでいった。
藍は弁当袋に指をかけ、後ろの席のほうへ身体を向けかけた。
その時、通路側から明るい笑い声が近づいてきた。賑やかな女子のグループがマイブリットの席へ集まり、そのうちの一人が藍の席の横を抜けて、後ろにあるマイブリットの机のそばまで身を乗り出す。
「ねえマイブリットさん、今日みんなでお昼食べようよ」
すぐ近くで足が止まり、藍の視界の端に女子の制服の袖が入った。
藍の胸が小さく跳ねた。
昨日、「明日、昼を一緒に」と言った時、マイブリットは確かに頷いていた。忘れているはずがない。だから、ここで勝手に悪いほうへ考えるのはやめようと、藍は思った。
マイブリットが、自分から断ってくれるかもしれない。
そう考えた瞬間、藍は、また自分では何も言わずに流れを相手に委ねかけていたことに気づいた。
弁当袋の紐を握る指先に、思わず力が入る。息が浅くなる。信じることと、何もしないことは違う。ここで黙ったままだったら、あの約束はマイブリットだけに任せたものになってしまう。
通路側の女子たちは明るく、迷いがない。笑い声に押されるように、教室の雰囲気は自然と「みんなで昼を食べる」ほうへ流れていく。
怖い、と思う。嫌な顔をされたらどうしよう。変に思われたら。雰囲気を壊してしまったら。
それでも、ここでまた何もしないのでは、昨日と同じだった。
席替えの後、肩越しに振り向いたときの短い視線。「よろしく」と言われて、少しだけ上ずった自分の声。待っているだけでは、近づいていくことなんてできない。
藍は椅子から腰を浮かせた。膝が笑いそうになるのを、机の角に触れた指先でかろうじて支える。振り向く。話しかけた女子と、その後ろにいる子達を見る。舌は重い。それでも、今は目を逸らすわけにはいかなかった。
どうしたいのかは、もう決まっていた。
怖いままでいい。嫌われないように、ではなく、自分が望むほうへ進む。
藍はひとつ深呼吸し、机の角から指を離した。
「ごめんなさい」、そう切り出す。謝るためではない。自分で選ぶために。「マイブリットさんとは、今日は先に約束していて……あたしとお昼を食べることになっているんです」
教室の音が遠のいた。
近くの席の笑い声も、椅子の軋みも、誰かが弁当袋を机に置く音も、確かにそこにあるのに、自分のまわりだけ薄い膜で隔てられたみたいだった。
言ってしまった----その実感が、少し遅れて胸の奥へと伝わってくる。
頬が熱い。心臓がやけに速く、どくどくと鳴っていた。机の角から離した指先は震えそうになり、藍は手をぎゅっと握りしめる。いまさら言い直したくなるような、逃げ出したくなるような、変に笑ってごまかしたくなるような気持ちが、いっせいに押し寄せてきた。
けれど、もう言葉は外へ出てしまっていた。
マイブリットが藍のほうへ視線を向けた。藍の言葉をきちんと受け止めてくれたのだと、藍にはわかった。口元がほんのわずかにほころび、次の瞬間には女子達へと向きなおる。
「ああ、先約がある。すまない。そういうことだから、また次の機会に誘ってくれると嬉しい」
返事までの間は短く、迷いがなかった。
女子たちは一瞬、動きを止めた。
断られたことよりも、藍が口を挟んだことがうまく飲みこめていないようだった。さっきまで話の外にいたはずの相手が、急に踏みこんできた。その戸惑いとわずかな反発が、藍に向けられた視線の奥にはっきりと見える。
明るい女子の眉が、ほんの少しだけ寄った。隣の子と短く目配せをする。教室の空気は昼休みの賑やかさのままなのに、この一角だけが一瞬、取り残されたみたいに止まっていた。
藍はその視線をまともに受け止めきれず、それでも逸らすこともできないまま立っていた。喉の奥がきゅっと狭くなる。心臓はまだ速く、耳の裏まで熱い。こんなふうに目立つことに、身体はまるで慣れていなかった。それでも、藍はその場を動かなかった。
どこかの席で、誰かの弁当箱の蓋が床に落ちる硬い音がした。その音に藍の意識が引っぱられ、張りつめていた視線の向きがわずかに外れる。
それをきっかけにしたみたいに、遠のいていた教室のざわめきが少しずつ輪郭を取り戻していった。女子達は曖昧に笑い、さっきの空白を埋めるように仲間どうしで言葉を交わしながら引いていく。けれど藍には、その軽い笑い声さえまだ少し遠くに聞こえた。
マイブリットが席を立つ。椅子を引く音が短く鳴り、そのまま藍の席の通路側へすっと出た。
「それじゃあ、お昼にいこうか」
「は、はい!」
返した声は少し裏返りそうになった。それでも、いまはそれを恥ずかしがる余裕もない。
マイブリットが机の脇からトートバッグを手に取り、先を促すように動く。藍も弁当袋を抱え、後を追った。並んで歩き出すと、教室のざわめきがようやく背中のほうへ遠ざかっていく。
胸の高鳴りは、まだ収まっていなかった。息も少し浅いままだ。けれど、その落ち着かなさの底には、さっきまでとは違う熱が残っている。
怖かった。恥ずかしかった。たぶん、かなり無茶もした。
それでも、自分で選んで口にした言葉が、ちゃんと相手に届いたのだと思うと、その高鳴りを抱えたままでも、藍はうつむかずにいられた。
二人は中庭の木陰のベンチへ向かった。人の出入りが多い渡り廊下から少し外れ、植えこみの脇を回るだけで、校舎のざわめきは遠くなる。夏の名残を含んだ風が、歩くあいだだけ制服の袖口をかすめ、木陰へ入ると陽の強さもやわらいだ。
藍の頭には、さきほどの教室の光景がまだ残っていた。女子たちの視線が止まった一拍。ほんのわずかに寄った眉。自分の声が、思っていたよりも教室に響いたこと。歩きながらも、それらが断片的に繰り返される。
隣を歩くマイブリットは、何も言わなかった。
教室でのことに触れようともしない。その静けさが、藍にはかえってありがたかった。いま何か言われたら、落ち着きかけている心臓が、また速くなってしまいそうだった。
木陰のベンチに腰を下ろす。木漏れ日の当たっていた座面はわずかに熱く、制服越しにじんわりと伝わってきた。遠くでは運動部の掛け声が短く弾み、体育館の方向からは吹奏楽部の音が流れてくる。昼休みらしい雑多な音が、周囲に散っていた。
藍は小さく息を吐いた。胸の奥に溜まっていたざわつきが、ひと息ごとに少しずつ外へ逃げていく。
ここでいつまでも教室の続きを反芻していたくはないと、藍は気持ちを切り替えるように視線を落とした。せっかくマイブリットと約束していた昼休みなのに、いつまでも教室の光景を気にして、時間を台無しにしたくなかった。
藍は膝に置いた弁当袋から弁当箱を取り出して、蓋を開ける。甘い卵焼きと醤油の混じった和風の匂いがふわりと立った。落ち着きを取り戻させてくれるような、いつもの母の料理の匂いだった。
隣では、マイブリットもトートバッグを膝の上に置いていた。無駄のない手つきで中を探り、取り出したものを膝の上のバッグの口元に並べていく。
出てきたのは、栄養ゼリーのような細長いパウチが二つと、細い箱に入った補助食品を思わせるバーだった。
どれも市販品に似た形ではあるのに、包装は妙に簡素で、光沢の少ない素材でできている。表面には大きく文字が刷られていたが、藍にはまったく読めなかった。製品名のようにも見えるが、日本語でも英語でもなさそうだった。
藍は一瞬、自分の目を疑った。弁当箱やパンの袋が続けて出てくるのだろうと、マイブリットの手元を見てしまう。けれど、他には何も出てこない。
マイブリットは慣れた様子でパウチの口を切った。包装の開く音さえ小さく、迷いがない。そういう昼食をとること自体が、もう日常の動作として身体に馴染んでいるように見えた。
「え、それだけ……ですか?」
口にした瞬間、しまったと思った。驚きがそのまま声に出てしまっていた。取り繕おうとした言葉は喉の奥で絡まり、藍は箸先を宙に止めたまま、小さく息を詰める。
けれど、マイブリットは気にした様子もなく、手元のパウチを持ったまま首をわずかに傾けた。
「なぜ驚く?」
「え……」
「味は単純だが、栄養とカロリーは充分だぞ」
説明するというより、当たり前のことをそのまま口にしたような言い方だった。藍がそこに驚いたこと自体、マイブリットには少し不思議そうだった。
藍はそこでようやく、自分がいま見ているものを、相手は少しも「足りないもの」だと思っていないのだと気づいた。
思春期の高校生の昼食としては、どう見ても簡素すぎる。けれど、それは藍の側の感覚でしかない。マイブリットにとっては、これで充分で、むしろそれが自然なのかもしれなかった。
「そ、そうなんですね……。すみません、変な言い方して」
「気にしていない」
短い返事だった。慰めるふうでもなく、ただ本当に気にしていないのだとわかる言い方だった。
藍は「いただきます」と小さく言って、今度こそ自分の弁当に箸をつけた。甘い卵焼きの味が口の中に広がる。いつもならそれだけで満足できるはずなのに、隣で黙々と補助食品を口に運ぶマイブリットの姿があるだけで、どことなく落ち着かなかった。
包装を開ける音は小さく、手つきにも迷いがない。あらかじめ決まった手順をなぞるみたいに、マイブリットは淡々と食事を進めていた。
どうしてこういう食事を選ぶのだろう、と藍はふと思う。お弁当を作ってくれる人がいないのか、それとも、マイブリットにとってはこれが当たり前なのか。けれど、そこから先をどう考えればいいのかはすぐにわからなかった。
マイブリットの家のことは、まったく知らない。夏休みの間に親しくなれたと思っていたのに、まだ自分の知らないことがいくつもあるのだと実感してしまう。誰と暮らしているのか。普段、どういうふうに食事をしているのか。どうしてこんなものを「充分だ」と思うのか。
知らないことだらけだった。
箸を動かしながらも、藍の意識はその知らない部分へ引かれていく。
問いたい気持ちはある。けれど、どこから触れればいいのかもわからないし、問い方を間違えれば、マイブリットを傷つけてしまうかもしれない。
藍が悩んでいると、不意に昨日のローリィの言葉がよみがえった。
問題を起こさないように見張っておいてね----ローリィは確かにそう言った。
聞いた時は、単なる悪ふざけの言葉だと思っていた。けれど、隣で補助食品だけを昼食として当たり前のように食べているマイブリットを見ていると、別の意味もあったのではないかと思えてきた。
問題を起こす、というのは、何か悪いことをするという意味だけではないのかもしれない。
昼休みに何を食べるか、誘いにどう応えるか。学校での日常感覚において、マイブリットは藍達と少し違うところがあるように感じられた。マイブリットやローリィ達の関わっている「お仕事」とも、無関係ではないのかもしれない。
ローリィがそこまで見越していたのかはわからない。藍の勝手な深読みかもしれなかった。
それでも、マイブリットが学校で周りとのずれに困らないよう、近くで気づける人がいたほうがいいのではないかと思った。
見張る、というより、見守る。
藍はローリィの言葉を、見守るという意味で受け取り直した。
気づけば、箸の動きが止まっていたらしい。
マイブリットがわずかに眉を寄せる。
「アイ、どうした? 具合でも悪いのか」
「あ、いえ、違うんです。ただ……」
藍は慌てて首を振った。弁当箱の縁に指先を揃え、ひとつ呼吸を整える。ここで黙ってしまえば、また考えるだけで終わる。そう思った。
これから先も、ちゃんとマイブリットの近くにいるために、自分から言わなければならないことがある気がした。正解かどうかはわからない。ただ、自分がマイブリットにしたいと思ったことに素直になるだけだ。
「マイブリットさん、明日は学食で食べませんか? おすすめのメニューがあるんです」
学食なら、補助食品だけで淡々と済ませる形にはならない。並んで、選んで、ちゃんと昼ごはんを食べることになる。そういう場所へ、マイブリットを連れていきたかった。
マイブリットは一瞬だけ藍を見た。返事を選ぶための短い間が落ちる。
「私は構わない」
淡々とした声音だった。それでも断られなかったことに、藍の胸は少しだけ軽くなる。
「じゃあ、約束ですよ。明日は、学食でランチ食べましょうね。……絶対ですよ」
自分でも少し押しが強すぎると思った。けれど、恥ずかしがって引いてしまったら駄目な気がした。
案の定、マイブリットの手がほんの一瞬だけ止まる。補助食品のバーを持った指先がわずかに浮き、視線が藍へ戻った。その顔には露骨な困惑はない。けれど、たぶん今の藍の勢いに少しだけ押されている。
「……ああ。わかった」
返事のあと、マイブリットは再び手元へ視線を落とした。動き自体は先ほどまでと変わらないのに、どこか少しだけ早く食事へ戻ろうとしているようにも見える。
藍は小さく安堵の息をついた。肩から力が抜け、さきほどまで胸に残っていた高鳴りが、ようやく静かな形へ落ち着いていく。風が吹き抜け、肌に残っていた熱をさらっていった。
自分はまだ、マイブリットのことをほとんど知らない。
けれど、知らないからこそ、これから少しずつ知っていける。知らないまま遠くから眺めるのではなく、近くにいながら、昼休みや放課後の何気ない時間を少しずつ一緒に過ごしていきたかった。
それは世話を焼きたいというものではなく、そうやって一緒に過ごしていきたいという願いに近い。
ローリィの言葉がどういうつもりだったのかは、それほど重要ではなかった。頼まれたからではない。自分がそうしたいと思ったから、そうするのだ。
その気持ちはまだ小さくて、声に出せるほどはっきりしたものでもない。けれど、藍の中ではもう消えそうになかった。
午後の授業開始までは、まだ少し時間がある。藍は残った卵焼きを口に運びながら、明日の学食で何を勧めようかと静かに思い描いていた。
第五話「同じ教室、遠いままで」-- 終 --




