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第五話「同じ教室、遠いままで」第5節


 車を降りた(あい)の前には、和風のカフェが静かに佇んでいた。


 派手な看板はない。黒に近い木の門と、よく磨かれた敷石。手入れのゆきとどいた植えこみが、入口までの短い道を細く縁取っている。奥に見える建物は、白木と濃い木目で統一され、軒先の影まできちんと整えられているように見えた。


 賑わいが外まで漏れてくるような店ではない。むしろ、音も人の気配も門の内側へ静かにしまいこまれているようだった。こちらの歩き方や声の大きさまで自然と改めさせる静けさがある。


 制服姿のまま立っている自分が場にそぐわない気がして、(あい)は鞄の持ち手を握り直した。


 ローリィに続いて門をくぐると、午後の強い陽射しの中にいたはずなのに、肌に触れる熱がやわらいだ。


 門の内側へ足を踏み入れただけで、空気の質がわずかに変わる。外に満ちていた熱気は遠のき、磨かれた石畳や整えられた庭木のあいだを抜けてきた涼しさが、足元からそっと這いのぼってくる。やわらかく撫でて鎮めるような木陰と風だった。


 (あい)は思わず制服の襟元を整える。


 予約が取りにくい人気店で、しかも高級店らしい----この和風カフェに関するそんな話を思い出し、(あい)はローリィの半歩後ろで指先を握り直した。高校生の制服姿のままここにいることが急に心もとなくなる。履いている安物のローファーまで場違いに見えて、歩幅が自然と小さくなった。


 建物の前まで来たところで、ローリィがふと足を止めた。


 迷ったわけではない、と(あい)にはすぐにわかった。この先では、この店にふさわしい立ち居振る舞いが要求されるのだろう。そんなことを(あい)に感じさせる、短い間だった。


 白い足袋に落ち着いた色味の作務衣姿の店員が奥から現れた。店員は二人の前で静かに足を止め、深く会釈する。頭を下げる角度も、止まる長さも、無駄がなかった。(あい)も反射的に頭を下げたものの、自分の作法がこれでよかったのか急に心配になる。


「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ。お足元にお気をつけください」


 声は小さくて穏やかなのに、不思議と聞き逃せない。(あい)は背筋を伸ばし、足元の石を見てから、慌ててローリィのあとに続いた。


 通された先は、茶室を思わせる小ぶりな個室だった。畳の匂いがかすかに鼻をかすめる。入口で靴を揃えた。つま先の向きが乱れている気がして、(あい)の指先が一瞬止まった。直したほうがいいのかもしれない。けれど、しゃがみ直すのもかえって不格好に思えて、そのまま室内へ入るしかなかった。


 堀座卓を挟んで、(あい)は窓際、ローリィは向かいに腰を下ろした。座布団の縁が膝に触れる。手は膝の上に置くべきか、卓の上に出しておいたほうが良いのか、作法的なものが(あい)にはまったくわからず、とまどってしまった。


 外には小さな池があり、水面が淡い(あい)色を揺らしながら、光を細かく砕いていた。


 店員が小さなメニューを二つ、盆に乗せて運んできた。厚手の表紙は、指先に触れた感触だけでも上質なものだとわかる。(あい)は壊れやすいものに触れる時のように、そっとメニューを開いた。紙の手ざわりも、文字の並びも、綺麗すぎるほどに整っている。しかし、どこを見ても値段がなかった。


 あるはずのものが見当たらない。それだけで、急に心細くなってしまった。


 (あい)はページをめくった。葡萄、柚子、氷蜜、冷煎茶。ひとつひとつは知っている言葉のはずなのに、こうして並べられると、普段馴染みのないものばかりで困惑する。上品で、味の想像も、値段の見当もつかない。選ぶための手がかりが、どこにも見つからなかった。


 困惑するばかりの(あい)の向かいでは、ローリィが迷う様子もなくメニューに目を落としていた。指先で一箇所を軽く示し、そのまま店員へ視線を上げる。


「甘味はこれで。……あと、お茶は冷たい煎茶にして」


 店員が静かに頷く。そのままローリィからわずかに視線を外し、自然な流れで(あい)へ向ける。声はかけてこない。(あい)はメニューの内容をもう一度確かめたが、まだ何も決められていない。


 (あい)はあわてて口を開いた。


「……あ、あたしも、同じので」


 言った後で、(あい)は自分が何を頼んだのかわかっていないことに気づいた。自分で選んだわけではない。ただ、ローリィにあわせただけだ。それでも、いまさら呼び止めて言い直す勇気は出なかった。


 店員は(あい)の言葉にも小さく一礼し、手にしていたメニューを卓の端へ静かに寄せた。邪魔にならない位置へ整えるだけで、そのまま盆には戻さない。


 店員がさがると、部屋はまた静かになった。(あい)は行き場のない指先を膝の上で組み直す。窓の向こうでは、池の水面だけが細かく光っていた。


 すぐ向かいにローリィがいるのに、(あい)は何を話せばいいのかわからなかった。連れ出してくれたことへの礼も、こんな店に来ると聞いていなかった驚きも、胸の内にはある。


 けれど、この部屋の静けさの中では、どの言葉も少し場違いに思えてしまう。ローリィは急かす様子もなく座っていて、その落ち着きがかえって、(あい)にはどう言葉を出せばいいのかわからなくさせた。


 (あい)は膝の上の指先にそっと力を入れ、それから窓の外へ目を向けた。水面の揺れを追っていれば、何もしないでいることが許される気がした。実際にはほんの短い間だったのだろう。けれど(あい)には、その静かな待ち時間が妙に長く感じられた。


 やがて、障子の向こうに人の気配が近寄ってくる。店員の足音はほとんど聞こえない。


「お待たせいたしました」


 言葉の後、店員は静かに障子を開け、運んできたものを(あい)とローリィの前に並べ始めた。


 葡萄と柚子氷蜜の和パフェと、冷煎茶----店員がそう説明した。盆の上には小さなスプーンと紙ナプキンが添えられ、グラスの外側には薄い結露が浮いている。ガラス越しの冷たさを見ているだけで、指先までひやりとする気がした。


 店員はそれらの品を二人の前へ整えて配置し、「どうぞごゆっくり」と一言告げて静かにさがった。


「この店、注文によっては時間がかかるらしいの。もし後で他にも頼みたくなったら、早めに決めておいたほうがいいって」


 ローリィが(あい)に告げる。(あい)は膝の上に置いた指先をそろえ直し、それからようやく卓のほうへ視線を戻した。目の前のパフェは涼しげなのに、自分だけまだ緊張の熱を引きずっている気がした。


「どうしたの? 食べないの? 実は甘いもの嫌い?」


 ローリィが尋ねる。


 (あい)はその言葉で促され、我に返った。ローリィはもうスプーンを手にしていて、パフェを口に運ぶその仕草に無駄がない。スーツには皺ひとつなく、指先の動きまできれいだった。(あい)は自分だけがまだ手を出せずにいることを急に意識して、膝の上の指先をそろえ直した。


「ううん、そうじゃなくて……このお店って、高いんじゃないかなぁって……」


 口にした途端、さっきのメニューが頭に浮かんだ。厚手の表紙と整った文字、どこにも書かれていなかった値段。もし追加で何か頼む流れになったら、いくらになるのか見当もつかなかった。


「ああ、そのこと。気にしなくていいわよ。私たちは招待で来てるから」


 ローリィが苦笑しながら言う。


「えっ、招待……?」

「うちの上司が、ここのオープンに少し関わってるみたいでね。そういう関係で声がかかったの」

「そっか……じゃあ、大丈夫なのかな」


 胸の奥の力がふっと抜ける。次の瞬間、小さく腹が鳴って、(あい)は思わず視線を落とす。耳のあたりが熱くなる。ローリィには聞こえていなければいいのに、と思いながら、慌ててパフェをスプーンでひとすくいする。


 葡萄の甘さが舌に触れる。すぐあとに、柚子氷蜜の香りがふわりと抜けた。ひんやりした感触が喉を通っていくたび、さっきまで固まっていたものが、少しずつほどけていく。


「……あ、おいしい」


 続けて、冷煎茶をひと口含む。甘さではなく、すっと通る渋みと冷たさが先に来た。口の中に残っていたこわばりまで洗い流すようで、後から香りが静かに戻ってくる。(あい)は湯呑みを両手で包み、淡く透けた色を覗き込んだ。表面に揺れる光を、しばらくそのまま見ていた。


 落ち着いてくると、胸の奥に溜めていた問いが、少しずつ形を持って戻ってきた。(あい)は湯呑みの縁に指先を触れ、息を小さく吸った。


「でも、どうしてわざわざ学校で待ち伏せまでして、このお店に?」

「一緒にケーキ食べに行きたいと言ったのは、貴方でしょ。忘れた? ケーキではなく和風寄りになったけど」


 (あい)は数日前の自分の言葉を思い出す。軽い調子で言っただけだったのに、ローリィはきちんと覚えていたらしい。


「そうだけど……こんなに急だとは思ってなかったし、こんなすごいお店だと、ちょっと緊張しちゃうよ」

「私にもいろいろ都合があるのよ」


 会話の切れ目に、置かれた湯呑みが小さな音をたてた。(あい)はその音に合わせて息を吐き、次の話題を考えた。


 向かいのローリィがこちらを見ていた。表情は穏やかなのに、その視線には(あい)の目を逸らさせない静かな強さがあった。


「で、学校で何があったの?」


 (あい)の手が止まる。スプーンの先が硝子の縁にかすかに触れ、小さな音が鳴った。その音が妙に耳に残る。さっきまでほどけていた胸の奥が、また苦しくなった。


 答えはある。けれど、それを言葉にすることが躊躇われた。


 (あい)は一度だけローリィの視線を受け、それから耐えきれずに目を落とした。パフェの葡萄の艶と、茶器の表面に揺れる淡い茶の色へ意識を逃がす。そこを見ていれば、いますぐ答えなくてもいいような気がした。


「ティオから何か言われた?」

「そ、そんなことないよ」


 ローリィの容赦ない問いかけに、(あい)は笑って誤魔化そうとした。けれど、頬の端が引きつっただけで、うまく形にならない。(あい)は冷煎茶の湯呑みを両手で包んだ。外側の冷たさが、掌にじかに触れる。


 体育館でのマイブリットの姿。教室で一瞬だけ合って、すぐに離れていった視線。放課後、届かないまま引っこめた声。断片だけが浮かぶが、(あい)はその先へ進めない。ひとつながりの出来事として口にした途端、それがもう言い逃れのできないものになってしまう気がした。


「大丈夫だよ。マイブリットさんからは、何も言われてないから」


 大丈夫、は誰に向けた言葉だったのだろう。ローリィになのか、自分になのか。


「何も言われてない」と言ってしまえば、そこから先へ進まなくて済む。体育館でのことも、教室で視線が離れたことも、放課後に声をかけられなかったことも、まだひとつの意味にまとめずにいられる。(あい)はその言葉に、すがるような思いだった。


 ローリィは(あい)を見つめたまま小さく息を吐き、短く頷く。


「ふーん。まあいいけど」


 ローリィはそれ以上、踏みこんでこなかった。


 (あい)の肩からは力が抜ける。それなのに、胸の奥に残ったざわつきだけは、おさまってくれなかった。


 助かった、と思う気持ちは確かにある。けれど、それで終わってくれない。言わずに済んだ安堵の下で、言わずに逃げてしまったという思いが強くなっていく。


「何があったか訊かないの?」

「言いたくないならいいわよ。私はカウンセラーでも、貴方のパートナーでもないんだから」


 (あい)はその返答に、胸の奥が小さく揺れるのを感じた。自分でも勝手だと思う。追及されたくなかったはずなのに、今度は置いていかれたような気がしてしまう。言いたくないのに、黙ったまま終わるのも嫌だった。


 頭では、ローリィが突き放したわけではないとわかっている。それでも感情のほうは、まだうまく追いつかなかった。


 (あい)はその受け取り方を、心の中で押し戻した。違う。ローリィは冷たくしたのではない。ただ、言いたくないなら無理に聞かない、と気遣ってくれたのだ。


 それなのに、ローリィが追及してこないことがかえって(あい)を落ち着かなくさせた。黙ったままでいれば、この話はここで終わる。そうなれば楽なはずなのに、それでは駄目な気がした。今日ずっと、自分は見たくないものから目をそらして、言葉にしなくていい形ばかり選んできた。ここでもまた黙ってしまったら、同じところへ戻るだけだ。


 甘い香りに混じって、畳と庭の緑の匂いがかすかに漂っていた。静かな部屋は、何も言わないままの時間を長く感じさせる。スプーンを置く音も、湯呑みを引く音も、小さなまま耳に残った。


 その静けさの中で、(あい)はようやく気づく。ローリィが踏みこまないのは、放っているからではない。今なら言える、と(あい)が思った時に、自分でそこへ手を伸ばせるようにしているのだ。最後の決断だけは、(あい)自身で選べるように。


 胸の奥がきゅっと縮んだ。言わなければ、と思う。けれど、何をどう言えばいいのかが、まだまとまらない。あれこれと言葉は浮かぶのにどれもまだ明確な形をしていなくて、そのまま口に出したら、自分のほうが先に駄目になってしまいそうだった。


 障子がふっと膨らみ、細い木枠が小さく鳴った。すぐに元へ戻り、空気だけがわずかに入れ替わる。(あい)はその動きを目で追った。今の自分も、たぶん似ている。揺れて、戻って、結局また同じところに留まってしまう。だから、ほんの少しでも違うほうへ動かなければならない。


 (あい)はその小さな音に背を押されるように、呼吸をひとつ整えて湯呑みを置いた。


「……ねぇ、ローリィちゃんは」


 呼びかけた自分の声は、思っていたよりも小さかった。


 ローリィの表情は変わらない。けれど、向かいに座る身体が(あい)のほうへとわずかに寄る。


 (あい)は息を吸う。すぐには続けられなかった。喉の奥で言葉がまとまらずに引っかかる。その間を埋めるように、指先が湯呑みの縁をそっとなぞった。


「……誰かと距離を感じた時、どうしてる?」


 言ってから、(あい)は堀座卓の向こうのローリィを見た。視線が合う。すぐに逸らし、それからまた戻す。堀座卓の幅が、急に広く感じられた。


 説明はうまくできない。何から話せばいいのかもわからない。体育館で見た姿も、教室で合って離れた視線も、放課後に輪の外で立ち尽くしたことも、(あい)の中ではまだばらばらのままだった。順番も意味も、まだ整えることができそうにない。


 けれど、全部を整えてからでなければ話してはいけない理由も、どこにもないはずだった。完璧な形でなくてもいい。途中のままでも、うまく言えなくてもいい。いまの自分が選んだ言葉なら、それでいいのかもしれない。


 ここで黙るほうが、きっと後悔する。


「今日、マイブリットさんがクラスの子たちと楽しそうにしてたの、見た時……仲良くなっていたと思っていたのは、あたしの勘違いだったのかなって……」


 言い終えた瞬間、その言葉だけがこの場に残ったように思えた。もう引き返すことはできない。胸の奥で張りつめていたものが、いつのまにか少しゆるんでいく。


 ローリィはすぐには返さなかった。湯呑みを持ち上げ、静かに口をつける。視線は逸れないのに、押し返してくる感じもない。ただ、(あい)が放った言葉を、そのまま聞いてくれている。


 どう受け取られたのかは、まだわからない。けれど、すぐに言い返されたり、別の言葉を重ねられたりしないことが、(あい)にとっては大きかった。もう少し言葉を続けてもいいのかもしれない、と感じたところで、ローリィが口を開いた。


「ちょっと聞いていい?」


 ローリィの声は静かなままだった。責めるような調子ではない。だが、次の言葉が(あい)には怖かった。


 (あい)は返事をしないまま、パフェのグラスへ目を落とした。外側に浮いた結露が、細い筋になって下へ落ちていく。意味もなくそれを追う。


「それは違う」と言われるのかもしれない。逆に、自分の感じたことをそのまま認められるのかもしれない。どちらの言葉がきても、(あい)は安心できる気がしなかった。湯呑みの縁に添えた指先にだけ力が残り、(あい)はうまく息をつけなかった。


「次、何を食べたい?」

「……え?」


 ローリィからの予想外の言葉に、(あい)は目を瞬かせた。


 何を言われたのか、すぐには飲みこめない。拍子抜けしたのが、自分でもわかった。


 (あい)はしばらく呆然とした後、戸惑いとともに尋ねた。


「な、なにそれ……真面目に聞いてた?」

「ええ。聞いてたわよ。悩む時には甘いものが必要よ」


 ローリィは湯呑みを持ったまま、淡々と冷煎茶を啜った。いつも通りのすました顔で、妙なことを言う。そのくせ、(あい)が口にしたことを軽く流したわけでもないらしい。その噛み合わなさが、かえって(あい)の胸の奥をほころばせていく。


「もう、ローリィちゃんってば……あたしは真剣だったのに」


 そう言ってから、(あい)は自分の肩の力が抜けていることに気づいた。さっきまであんなに身構えていたのに、ローリィの返事ひとつで、それがほどけてしまっている。


 ----勝手に怖がっていたんだ。


 (あい)は、パフェのグラスに残った結露をぼんやり見た。ローリィが何を言うかもわからないうちから、自分で答えを決めて、自分で傷つく準備をしていた。相手の反応を考えているつもりで、実際は自分の中だけで話を終わらせようとしていたのかもしれない。


 それなら、マイブリットのことも----。


 体育館で目が合わなかったことも、教室で視線が離れたことも、放課後に輪の中へ入れなかったことも、全部、自分の中で先に結末を作っていただけなのかもしれなかった。


 自分が勝手に思いこんで怖がっていただけなのだと、(あい)は認めるように息をついた。


 窓の向こうで、水面が揺れ、そのたびに砕けた光の形が変わる。


 さっきから同じ池を見ていたはずなのに、映り方はいくらでも揺れてしまうのだと、(あい)はそこでようやく気づいた。


 歪んでいたのは景色のほうじゃない。たぶん、自分の見方のほうなのだろう。


「……なんだ、あたし、なにを拗ねてたんだろう」


 胸の奥に引っかかっていたものは、まだ完全には消えていない。それでも、さきほどまでのように呼吸のたびに引っかかる感じはなくなっていた。


 スプーンを持つ指先にも、ようやく余計な力が入らなくなった。(あい)は卓の端に寄せられたメニューへもう一度目を向ける。


「ねぇ……他にどんなスイーツがあるの?」


 ローリィはメニューを軽く引き寄せ、


「季節の和菓子の盛り合わせと、あとは……白あんのモンブラン風っていうのがあるわね」


 (あい)にも見えるように少し角度を変えた。


「それ……気になる」


 ローリィが湯呑みを置く音も、さっきよりやわらかい。会話が、ようやくいつもの調子へ戻ってくる。


 (あい)は小さく息をつき、窓の外へ目をやった。池には細かな波紋がひとつ増え、水面に散っていた光の形がわずかに崩れる。(あい)はそれを少し眺めてから、もう一度メニューへ目を戻した。


 向かいでは、ローリィが一度だけ障子のほうへ視線をやった。


「白あんモンブランか……マイブリットさん、こういうの好きかな」


 言い終えたところで、障子の向こうから小さく音がした。こん、と遠慮がちな硬い響きに、(あい)はそちらを見る。


 ローリィは視線だけを投げ、短く応じた。


「入っていいわよ」


 障子が開き、その間からマイブリットが姿を見せた。


「えっ……?」


 (あい)は無意識に背筋を伸ばした。


「失礼する」


 マイブリットは静かに一礼し、音を立てずに部屋へ入る。ローリィが驚かないのを見て、(あい)は、マイブリットの登場が予定外ではなかったのだと気づいた。


 マイブリットは(あい)の隣へ腰を下ろした。動きはいつも通り落ち着いている。


「ずいぶんと遅い登場ね」


 ローリィがマイブリットへ言葉を投げる。


「初日くらいはクラスに馴染めと言ったのはティグだろう? そのせいで遅くなった。慣れないことはやるものじゃないな」

「言い訳が上手になったじゃない。でも、今日のこの予定をちゃんとこの子に伝えてなかったことは、言い逃れできないわよ」

「ああ、そうだな」


 マイブリットが(あい)を見た。湯呑みを包んだ(あい)の指先に、冷たさだけがはっきり残っていた。


「アイ、すまなかった。朝に伝えようと思っていたのだけど、なかなか話しに行けなかった」


 言い訳を重ねるでも、慰めるでもない。ただ、まっすぐに謝っている。それだけのことが、(あい)には深く届いた。


 朝、クラスの輪の中にいたマイブリットの姿が浮かぶ。楽しそうに見えたこと。視線が離れていったこと。声をかけられないまま終わった放課後。あのとき胸の中で広がった距離も、置いていかれたような気がしたことも、全部、自分の中で先に結末を作っていただけだったのだ。


 ----ああ、大丈夫だ。


 何も壊れていなかった。誰も、離れてなんかいなかった。


「それだけ? そのせいで予定が狂った私には、何の謝罪もないわけ?」


 ローリィが、芝居がかった大げさな手つきで湯呑みを置いた。静かな部屋のせいで、その控えめな音さえ妙に目立つ。


 マイブリットはすぐには返さなかった。湯呑みへ一度だけ視線を落とし、それから指先で器の向きをわずかに直す。聞こえなかったふりではない。聞こえたうえで、あえて返さない、そんな間だった。


 結露がひとすじ落ちるのを待ってから、マイブリットは(あい)のほうへ視線を戻した。


「ちょっと、無視しないでよ」


 (あい)はそこでようやく、胸の奥の強ばりがほどけきっていることに気づいた。だからこそ、この場を変にこじらせたくなかった。三人で同じ卓を囲んでいる空気をそのまま守りたかった。


「ローリィちゃん、そのへんで。ね? マイブリットさんも悪気があって遅れたわけじゃないんだし、お腹も空いてるでしょ。マイブリットさん、注文決まりそうですか? 店員さん呼びますね」


 (あい)は自分の声が少し早くなっていたことに気づいた。けれど、さっきみたいに息が詰まることはない。卓の上に残っていたメニューを持ち上げ、そのまま話題ごと渡すみたいにマイブリットのほうへ向ける。


 マイブリットはメニューへ目を落とした。


「では、白あんのモンブラン風を。茶も同じもので頼む」


 ローリィが小さく鼻を鳴らし、マイブリットはわずかに肩をすくめた。その噛み合っているのかいないのかわからないやり取りが、部屋の雰囲気をやわらかくする。


 追加の甘味と茶が運ばれてくる頃には、三人の話題は高校生活のことへ移っていた。隣にマイブリットがいて、向かいにローリィがいる。笑っていいところで笑って、驚くところで驚ける。そんな当たり前のことが、今はありがたかった。今日ここへ来てよかったと、(あい)はあらためて思う。


 池の光をひと目だけ追ってから、(あい)は隣へ向き直った。


「あの、マイブリットさん」


 呼びかけたあとで、(あい)は自分の指先が少し強くスプーンを握っていたことに気づいた。


 今日悩んでいたことは、自分の中で解決できた。ここで安心したまま終わるのではなく、自分からこの先へ手を伸ばしたかった。


「明日のお昼……よかったら、一緒に食べませんか?」


 思ったよりも声が強く出て、自分で少し驚いた。言ってしまった、と思うのと同時に、胸の奥がわずかに熱くなる。


 マイブリットはすぐには答えず、一拍だけ置いた。口元がほんの少しだけやわらぐ。


「そうだな……いいのか?」

「もちろん。マイブリットさんがよければ、ですけど……」

「実は、クラスの女の子達から明日のお昼にどうかって誘われていて……でも、アイから誘ってくれて嬉しい。あちらは、これで丁寧に断れそうだ」

「えっ……あ、あはは……そ、それでいいなら」

「それと……もしよかったら、お昼のあと、校舎の中もちょっと案内しますね。まだ不安な場所もありますよね」

「ありがたい。それなら遠慮なく頼るとしよう」


 明日の昼を一緒に食べられる。それだけでも十分嬉しいはずなのに、(あい)の胸に残ったのは、マイブリットが「嬉しい」と言ってくれた、そのひと言のほうだった。


 向かいでは、ローリィが湯呑みを指先で静かに回していた。何も口を挟まないまま、口元に小さな笑みが浮かんでいる。その様子が妙に落ち着いて見えて、(あい)は胸の奥で小さく息をつく。


 三人の座る向きは少しずつ違うのに、堀座卓を囲んだ空気だけが、いつのまにかひとつの輪みたいにやわらかくまとまっていた。さっきまでこの部屋にあった緊張は、もうなくなっている。


 ローリィが湯呑みを置く。茶托が卓に触れて、かすかに乾いた音が鳴った。


 話しているうちに、外の陽はいつのまにか少し傾いていた。


 窓の向こうでは、池の水面が夕方の光を細かく返している。揺れるたびに形を変えるその光を見ていると、今日一日のことも同じように、少しずつ見え方が変わっていくのかもしれないと思えた。


 明日になれば、また学校がある。教室も、昼休みも、放課後も、たぶん急に何かが変わるわけではない。それでも(あい)は、明日の昼に交わすはずの言葉を思った。隣に座るマイブリットの気配が、学校の時とは異なり、今はもう遠く感じない。


 水面で揺れていた光は、見ている間にもう別の形へ変わっていた。



--つづく--

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