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第五話「同じ教室、遠いままで」第4節


 昇降口は風通しが悪く、熱気がこもっていた。


 夏休みの課題や休み明けの試験のこと、部活の後にどこへ遊びに寄るか。そんな放課後のやり取りが、あちこちで飛び交っている。そこへ、誰かのスマホの着信音も混じった。


 (あい)は昇降口の下駄箱で、ローファーへと履き替えた。


 肩が触れ合うような距離で、生徒達が靴箱の前を行き交っていた。賑やかさの外側にいる(あい)は、鞄の持ち手を握り直し、ひとつ息を整えた。


 二学期は、夏休みに親しくなったマイブリットが近くにいて、もっと軽い気持ちで始まるはずだった。


 そのはずだったのに、と(あい)は唇を結び、鞄を握る指先に力を込めた。


 昇降口を出ると、校門側へ下る階段の先、陽射しの中に小柄な人影が立っていた。近づくにつれて、肩のあたりで静かに揺れる赤味を帯びた金髪のボブカットが目に入る。


 制服の生徒達に紛れれば見失ってしまいそうな背丈。それなのに、立ち姿だけが妙に大人びていた。


 ネイビーのパンツスーツを隙なく着こなしたその少女----ローリィが、こちらの進路を塞ぐように腕組みして立っている。見た目は小学生ぐらいの背丈なのに、押し返すような威圧感が伝わってきた。


 (あい)がローリィと対峙するように立ち止まると、


「遅い。ずいぶん待たせてくれるわね」


 ローリィの不満げな視線がまっすぐ(あい)へ向けられた。(あい)は目を瞬かせた。


「ローリィちゃん?! なんで学校にいるの?」


 ローリィが半歩、距離を詰めてくる。


「なんで、って、ティオから聞いてないの? それに、ティオは一緒じゃないの?」


 ローリィの言う「ティオ」とはマイブリットのことだ。(あい)は一瞬返事を躊躇い、ローリィのまっすぐな視線から目をそらしながら答えた。


「マイブリットさんは、その……まだクラスのみんなと一緒にいるみたいで……」


 胸の奥がきゅっと縮む。(あい)が視線を戻すと、ローリィはわずかに眉を寄せた。


「いいわ。ティオは放っておいて、私達で先にいくわよ」


 言い捨てると、ローリィは踵を返した。躊躇いのない足取りで階段を下り始め、仕立てのよいスーツの裾が軽く翻る。


 (あい)は置いていかれまいと、慌てて後を追った。


「行くって、どこに?」


 答えは返ってこなかった。ローリィは歩幅を変えずに進み、振り返って(あい)がついてきていることを確かめる。その横顔がほんの一瞬だけ緩んだように、(あい)には思えた。


 昇降口前の車寄せに、漆黒の車が待っていた。重厚さと高級感を兼ね備えた車で、車体の大きさ以上に、強い存在感を放っていた。


 市内で走っていれば、誰もが一度は振り返るだろう。人目を引くのに、派手さはない。磨かれた黒が陽の光を鈍く返し、窓は濃く、外からは車内の様子を一切見ることができなかった。生徒達がその車を遠巻きにしながら、何かを囁きあっている。


 ローリィは迷いなく、その車の後部座席のドアに手をかけた。重そうなドアが音もなく開く。開いた瞬間、よく冷えた車内の空気がそっと流れ出し、それに乗って上質な革張りの匂いがかすかに届いた。


 ローリィは先に車内へ乗りこみ、奥へ身体を引いた。次の瞬間、(あい)の手首をつかむ。小さな指には、躊躇いがなかった。


 (あい)は鞄を抱え直し、ドア枠に当てないよう身をかがめて、ローリィに引かれるまま身体を滑りこませた。


「ローリィちゃん、ちょっと……」


 言葉が形になる前に、座席が(あい)の背中を受け止めた。革の冷たさが背中越しに伝わってくる。(あい)はスカートの裾を整え、両手を膝にそろえた。


「ローリィちゃん、強引だよ」

「ドア閉めて」


 ぶっきらぼうな指示がとぶ。(あい)は小さく頷き、ドアを引き寄せた。重いはずのドアが、静かに閉まる。車外の生徒達の声が、遮断された。


 車は静かに動き出した。昇降口前を離れ、校舎がゆっくり遠ざかっていく。


 ローリィは前方の助手席へ手を伸ばした。無造作に置かれていたタブレット端末を引き寄せる。続いて、収納されていたミニテーブルを引き出し、膝の前で固定した。


 ローリィはタブレット端末をミニテーブルの上へ置き、指先で画面を呼び起こす。


 車は校門前の坂を下り、タイヤが路面を撫でる音だけが車内に残った。革と、控えめな清潔さを感じさせる匂いが混じっている。


 (あい)は膝を寄せた。窓の外で、誰かがこちらへ目を向けたように思えた瞬間、(あい)は反射的に身を縮めた。外からは中が見えないはずなのに、見られている気がしてしまう。


 隣の席ではローリィがタブレット端末に指先を走らせていた。ミニテーブルの縁を軽く叩く金具の音。画面を切り替えるたびの短い操作音。(あい)が話しかける隙を与えないような雰囲気があった。


 (あい)は、おそるおそる尋ねてみた。


「ローリィちゃん、あたしたち、どこへ向かっているのかな?」

「私、仕事中。すぐに着くから楽しみにしてて」


 視線は画面へと向いたまま、声だけがこちらへ届く。その素っ気なさに、(あい)は会話を続けられずに困ってしまった。


「申し訳ありません、(あい)お嬢様。ティグはいったん仕事に着手すると、まわりへの気遣いが後回しになりがちでして」


 運転席の男性が告げる。(あい)も会ったことがある男性だった。ローリィからは「D」と呼ばれていたはずだ。Dの声は低く、丁寧だった。バックミラー越しに一瞬だけ、(あい)とDの視線が重なった。中年と呼ぶにはまだ若い印象の、線の細い男だ。くすんだ赤味の長めの髪が白いスタンドカラーの襟にかかり、端整な横顔が執事めいた雰囲気をつくっていた。Dはすぐ前方へ視線を戻し、余計な動きはしない。


 Dが言う「ティグ」とはローリィのことだ。マイブリットもローリィのことを「ティグ」と呼んでいるが、(あい)はその呼び方にまだ馴染めなかった。


「全然気にしてませんから。あたしこそ、急に乗せていただくことになって、ごめんなさい」


 (あい)は息を吐き、座席に深く身を沈めた。窓の向こうで校舎がゆっくり遠ざかっていく。ついさっきまでいた昇降口のざわめきは、もう厚い窓に遮られて届かない。


 ----マイブリットさんと、一言も話せなかった。


 思い返した途端、胸の奥が締めつけられるように苦しくなった。教室でうまく会話の輪の中に入れなかったあの感じが、まだ体のどこかに残っている。あのまま一人で帰れば、その感覚を何度も思い返して、家に着く頃には今よりもっと塞ぎこんでいただろう。


 (あい)は膝の上で両手の指を組んだ。


 自分では、その流れを断ち切るきっかけをつかめなかった。けれど、ローリィに強引に連れ出されたことで、落ちこんでいくだけだった気持ちは、今この時間だけでも足を止めていた。


 隣ではローリィが相変わらずタブレットに指先を走らせている。話しかけても会話を続けるつもりのない素っ気なさが、その無遠慮さとあわせて、今の(あい)にはありがたかった。


 (あい)は唇をきゅっと結び、それから、声になったかどうかもわからないほど小さく、言葉をこぼした。


「……ありがと。連れだしてくれて」


 ローリィは画面から目を上げないまま、ほんのわずかに頷くように顎を引いた。


 指先が一瞬だけ止まり、タブレットの端を軽く叩いてから、また何事もなかったように画面へ戻った。その手つきが、言葉にしない返事のように(あい)には思えた。


 車はひとつ先の交差点を右折し、見知らぬ街並みへ入った。ウインカーの乾いた音が、静かな車内では不思議と優しく聞こえた。


 どこへ向かうのかは、まだわからない。それでも(あい)は、この静けさにもう少しだけ身を委ねていたかった。



--つづく--

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