第五話「同じ教室、遠いままで」第3節
体育館から教室へ戻る廊下で、胸の奥のざわつきを押しこめるように、藍は視界に入るものを一つずつ追っていた。掲示物の紙、窓に反射する光、階段の段差----順番に拾っていく。けれど、胸の奥のざわつきが消えることがなかった。
教室に入ると、すでにいくつか会話のグループができていた。体育館で見た転入生の話題で盛り上がっている。
ホームルームが始まるまで時間がある。藍は自分の席に腰を下ろし、鞄から文庫本を取り出した。読みかけのページを開く。文字は目で追える。けれど、内容は頭に残らなかった。
担任が教室へ入ってくる気配がした。そのすぐあとに、もうひとりの姿が続く。
教室の会話や笑い声が鎮まった。視線がいっせいに教室の前へ向き、藍もつられるように顔を上げた。
担任と、その隣にマイブリットがいた。
藍の席からは、担任の言葉は断片的にしか聞き取れなかった。席のことを話しているのだろう、とわかる程度だ。
同じ制服なのに、マイブリットの姿は驚くほど端正に整っている。姿勢がよく、動きにも迷いがない。ブラウスのボタンはきちんと留められ、布地がそのまま体の線にそって、天井灯の白い光の下で見慣れているはずの制服に気高さのような雰囲気を与えていた。
眩しい、と藍は思った。照明のせいだけではないはずだ。近くにいるのに、遠い。
気づけば、息を吸うことさえ忘れていた。心音だけが一度、耳の奥で強く響いた。
担任は一度教室を見回してから、マイブリットの紹介を始めた。
「それじゃあ、紹介しておこう。転校生のマイブリットさん、一言お願い」
「マイブリット・ティオ・アンダーソンです。よろしく」
マイブリットの声は夏休みの間に藍へ向けていた時とは少し違い、どこか硬い響きを帯びていた。作り笑いのない静かな表情のまま、教室を見回す。
ほんの一瞬だけ、マイブリットと藍の視線が合った。
藍は反射的に机の上の手を上げかけた。けれど、その動きより早くマイブリットの視線は離れていった。
確かに交わったはずなのに、反応がない。
藍はマイブリットの瞳の奥に自分へ向けられたものがないか探したが、見つからない。藍は視線を机へ落とした。
「彼女は家の人の仕事の都合でうちの高校に転入してきたんだ。みんな仲良くしてやってくれ」
担任が言うと男子の一人が勢いよく手を挙げ、「質問タイム、いいすか?」と声を張った。その明るい声が、藍の耳にはやけに大きく響く。
担任は困ったように頭をかいた。
「あー、おまえたちに任せると面倒な流れになりそうだからダメだ」
生徒達の笑い混じりのざわめきを遮るように、担任はマイブリットへ席につくよう促した。
マイブリットは小さく頷き、軽く一礼して歩き出す。机の間を抜けるだけの短い距離なのに、教室中の視線がその姿を追っていた。通り道の机と机の間が自然と広がり、一本の通路になる。
マイブリットの堂々とした姿に気を取られ、藍は手元の文庫本が滑り落ちたことにさえ、しばらく気づかなかった。慌てて拾い上げる。
同じ教室にいるはずなのに、マイブリットだけがまるで別の世界にいるように見えた。
自分だったら、注目を浴びてクラスの前に立つだけで怯えてしまうのに、マイブリットは視線を浴びても堂々とした姿勢を崩さない。あんなふうになれたら、と思ってしまう。
椅子が引かれ、脚が床を擦る音が短く響いた。マイブリットはそれさえ余計に鳴らさないように腰を下ろし、前を向く。
マイブリットを盗み見ている気配と、隣同士で交わされる小声が教室に広がっていた。
藍は確かに視線が合ったはずのあの一瞬を、言葉にできないまま胸の奥へ押し戻した。
担任からの連絡事項の後、提出物の回収が始まる。担任が提出物を明示するたび、後ろの席から前へとプリントやノート類が回されていく。紙の擦れる音に、銀色のホチキスが乾いた光を返した。
「夏休みの課題は明日の午前中が締切だからな。まだ終わってない者は頑張るように」
「マジかー、まあ何とかなるっしょ」
男子の一人が明るく言い返すと、何人かの生徒が笑い声をあげた。
提出物の回収が終わると担任は新学期の席替えを告げ、クラス委員が前へ出た。教壇の上には、くすんだ色の段ボール箱が二つ置かれている。片方の箱は中が見えないように穴つきの蓋があり、番号を書いた小さな紙がくじとなって入っているとのことだった。
生徒たちは列になって一人ずつくじを引いて名前を書き、もうひとつの箱へ落としていった。
マイブリットはくじを引き終えると、席へ戻った。椅子をそっと引いて腰を下ろす。教室のざわめきの中では、マイブリットの席の一角だけが不思議と静かに見えた。
藍は箱からくじの紙を引き、名前を書く。自分の席へ戻る際に、机の間が広く空いた場所へ足が向いた。近道だから、と自分に言い訳しながら、気づけばマイブリットの席のそばを通る形になっていた。
マイブリットの前の席にいる、派手めな雰囲気の女子が身を乗り出した。
「マイブリットちゃんは何番だった?」
「13番。ちゃん付けで呼ばれるのは、慣れてないので止めてほしい」
マイブリットの声は穏やかだった。けれど、そこには確かに一線が引かれていた。礼儀を失わないまま、しかし、それ以上は踏みこませない雰囲気がある。
その女子は気にした様子もなく、「固いなぁ、マイブリットさん」と笑った。
名前に「ちゃん」付けで呼ばれることは嫌なのだと知って、藍の胸には細い棘が引っかかったような違和感が残った。自分もずっと「マイブリットさん」と呼んでいる。それが正しい距離感なのだと、あらためて思い知らされた気がした。
一学期の、入学してすぐの席決めを思い出す。あの時は番号順に、前から横へ埋まっていった。おそらく今回も、引いた番号がそのまま席順に対応するのだろう。十三番と三十番台。近くになることはないはずだ。
そう考えた瞬間、藍の胸の奥がざわついた。
藍は歩きながら、マイブリットを視界の端で追ってしまう。近づいたはずなのに、そこには越えにくい見えない壁があるような気がした。目が合えば越えられるかもしれない。それでも、真正面からは見られなかった。
その後、マイブリットの視線がこちらへ向けられることはなく、藍は席に戻った。
席替えのくじの結果は、クラス委員と担任が整理したうえで翌日に発表されることになっている。新学期開始の全校集会と長めのホームルームが終わると、教室はそのまま普段の授業へと進んだ。
担任の授業が一コマだけ行われ、この日の授業はそれで終わった。
放課後特有のざわつきが教室に満ち、重なり合う声が耳の奥で鈍くこもって聞こえる。
マイブリットの周囲には自然と人が集まり、藍は離れた場所からその様子を見ていた。
図書委員の藍は、放課後しばらくしたら図書館を開ける当番だ。鍵の受け渡しやカウンターの準備を考えれば、そろそろ教室を出なければならない。それでも藍は、どうしてもマイブリットから目を離せなかった。
行かなければならない。だからこそ、教室を出る前に一度だけでも、マイブリットと言葉を交わしたかった。
藍は、マイブリットを取り巻く生徒達の輪の外側に一歩近づいた。
「マイブリットさん」と呼ぶ声が喉まで上がり、唇がわずかに開きかけて、閉じた。
近くの女子生徒が身を乗り出し、「ここに来る前はどこ住んでたの?」と質問した。マイブリットの返答は、複数の国をほのめかすような曖昧なものだった。驚きと笑い声が重なり、別の質問が追いかける。マイブリットを囲む輪が一歩、内側へと小さくなる。そのぶん、藍だけが外側へ押し出されたように感じた。
マイブリットは背筋を伸ばしたまま、軽くうなずいて話を聞いている。
そろそろ図書館へ行かなければならないと、藍は自分に言い聞かせて気持ちを切り替えようとする。それでも、マイブリットへ話しかけるタイミングをつかもうとして、その場から離れることができない。
時間だけが容赦なく進んでいった。
「ねぇマイブリットさん、この後カラオケ行かない? ここのみんなよく行くんだー!」
「カラオケ? 日本の高校生の余暇の過ごしかたには興味がある」
「でしょ? じゃあ決まり!」
「でも今日は、家族との用事があって……残念だけど今回は遠慮しておく」
「そっかー……じゃあまた誘うから、その時は絶対ね!」
押しの強い女子生徒達の言葉に、マイブリットは迷いなく返事をしている。相槌はよどみなく、受け答えの間も短い。親しげに打ち解けているというより、一定の距離は保ったまま、礼儀正しく受け取って返していた。
夏休み、何度か藍とマイブリットが一緒に過ごしたときには、あのように会話が弾んでいくことはなかった。返事はもっと短くて、沈黙のほうが多かったはずだ。あれは、相手が自分だったから、だったのかもしれない。
藍の胸の奥には、言葉にできない苦みだけが薄く残った。
ふと、マイブリットがこちらを見る。視線が交わる。
藍は名前を呼ぼうとして、結局声を出せないまま引っこめた。呼べばいいだけなのに、呼んだ瞬間にこの輪の視線が自分へ向く気がして、躊躇ってしまった。
男子に話しかけられ、マイブリットはそちらへ向き直った。その先のやりとりは、教室のざわめきが大きくなって、藍の耳には届かなかった。
藍は小さく息を吐き、席へ戻った。
鞄の持ち手を指に掛けた途端、鞄の重さが増したように感じた。
開館の準備、鍵の受け渡し、カウンター業務。やることを順に思い浮かべて、気持ちを切り替えようとする。それでも藍は、まだマイブリットから目を離せなかった。
自分が勝手に、マイブリットと仲が深くなったと思いこんでいたのかもしれない。 そう考えた瞬間、胸の奥に冷たい感覚が走った。それならば、今ここで無理に入っていくより、図書館へ向かったほうがいいのかもしれない。
藍はマイブリットを取り巻く輪から目をそらし、足元へ向けた。
その時、教室のドアが勢いよく開いた。戸車がガラガラと跳ねる音が響く。
「こんちはー! 露崎ちゃん、いるー?」
戸口から、弾むような元気な声が教室に広がった。
顔を出したのは小柄な女子生徒だ。高い位置で揺れるポニーテールがまず目に入る。藍の一つ上の先輩、岸本瑠璃花だ。
瑠璃花の声に、教室の生徒達の視線がいっせいに瑠璃花へ集まった。
近くの男子が「露崎……?」とつぶやくより早く、瑠璃花が藍を見つけて大きく手を振った。
「いたいた! ちょっといい?」
クラスの視線が一気に藍へと集まる。注目を浴びた瞬間、背中を冷たい汗が伝い、藍は反射的に身を縮めた。
「き、岸本先輩……とりあえず廊下で!」
藍は慌てて瑠璃花に近づき、その手首を取って廊下へ促した。瑠璃花を先に押し出し、自分も逃げるように教室を後にする。
「わっ、そんなに急がなくてもいいのに〜」
廊下に出ると、教室のざわめきが遠のいた。
「……それで、どうしたんですか? 一年の教室まで来るなんて」
「あーそれそれ。露崎ちゃん、明日ヒマ? 今日と明日の図書委員の当番、交換してほしくて」
「えっ、交換……?」
本来は今日が藍、明日が瑠璃花の当番だ。それを入れ替えてほしいらしい。
「お願いっ! 園のちび達の引率で人手足りないんだってさ〜」
瑠璃花の言う「園」は、児童養護施設の明見園だ。藍も前に一度だけ連れていかれたことがある。小さな子たちに懐かれて、あちこち引っぱり回されて----大変だったのに、間違いなく楽しかった。その記憶を思い返すだけで、胸の奥がほんの少し軽くなった。
瑠璃花が頭を下げる。小柄なせいで、藍の視界には瑠璃花の後頭部だけが入った。
頭を下げた瑠璃花のつむじをぼんやり見ているうちに、藍の肩の力は抜けた。
「わかりました。わかりましたから、頭を上げてください」
「ホント?! ありがとー! 今度園に遊びに来たときにお礼するから! 主にちび達が」
満足そうに笑い、瑠璃花は小走りで近くの階段を駆け下りていった。見えなくなる直前、瑠璃花は藍のほうに向きなおり、「じゃーねー」と大きく手を振る。その勢いにつられて、藍もつい手を小さく振ってしまった。
藍はその場で一呼吸置き、鞄を持ち替えながら下校のために校舎の出口へ向かった。口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かぶ。忙しい先輩だと、藍は半ば呆れたように、半ばおかしさを覚えながら思った。
今日の図書委員の当番は、明日に変わった。そうして放課後が空いたことで、かえって心許なさが募る。
背後の教室や廊下から聞こえてくる楽しげな声が遠のくにつれ、胸の奥に取り残されたような空白だけを残して、藍は昇降口へと歩いていった。
--つづく--




