第五話「同じ教室、遠いままで」第2節
校舎の窓から、朝陽が廊下へと淡く射しこんでいた。
空気には黒板消しの粉の気配が混じり、喉の奥がわずかに乾く。
生徒達で賑やかな廊下を進みながら、藍はそっと制服を整えた。
朝のバスが珍しく渋滞にはまり、到着はいつもより遅れている。急いできたせいか、鞄をかけた肩の部分が汗ばんでいた。天井近くのスピーカーから、登校時間の終了を告げるチャイムがいつ鳴ってもおかしくない時間だ。
教室の扉口で足を止め、藍は教室の後ろから中へと視線をめぐらせた。だが、マイブリットの姿はどこにもない。本当に今日から学校にくるのだろうかと、そんな不安が胸の内でかすかに強まる。
募っていく不安を抑えながら、藍は自分の席へ向かった。窓際の最後列----藍が「教室のいちばん奥の端」と呼んでいる場所だ。席の脇のフックに鞄を掛ける。
前の席の女子と目が合った。挨拶しようと藍が口を開きかけた時、
「ねえ! 化学の課題終わってたら写させてくれない?」
横から割りこんできた別の女子からの声に引かれ、前の席の生徒はそちらへと顔を向けた。藍は開きかけた口を閉じ、喉の奥で止まってしまった挨拶の言葉を飲み下す。
藍は視線を落とし、席に腰を下ろした。背中に汗が滲む。天井のほうでは空調の低い送風音がしているのに、人が多いせいか教室内の湿度は高めだった。
仲のいい生徒達が寄り集まり、夏休みの出来事を楽しそうに話している。その様子を羨ましいと思いながらも、藍は意識してそちらを見ないようにしていた。
登校時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。藍は椅子を引き、姿勢を正した。
「おーい、ちょっとこれ運び入れてくれ」
廊下から担任の男性教師の声が響き、近くの男子二人が立ち上がって向かった。逆さにした椅子を載せた机が、男子達の手で運びこまれ、廊下側の列の最後尾に置かれる。藍の席からは教室の反対側だ。机の脚が床を擦り、短い音を何度か弾ませた。
「この机誰が使うんすか?」
机を運んだ男子が担任教師に尋ねる。
「ああ、転入生のだ。一学期の最終日に少しだけ紹介した外国からの女子、覚えてるか?」
その言葉に、教室が少し静かになる。話しているのはマイブリットのことだと思い、藍はその声に集中しようとした。
「事務手続きのためにまだ来てないけど、今日から正式にこのクラス所属だから」
「あの金髪の子?」「挨拶だけで帰ってた」、そんな囁きが広がり、教室には関心を帯びた空気が満ちていく。
「ま、向こうの事情ってことで、あんまり詮索せずに普通にしてやってくれ」
外国からの転校生がクラスメイトになると決まり、生徒たちはどこか浮き立っているようだった。
マイブリットの席が本当にあるのを見て、藍は小さく息をつき、肩の力を抜いた。今朝から抱えていた、マイブリットが別のクラスになるかもしれないという不安は、ようやく解消された。
藍は廊下側のマイブリットの机を見ようと、首を少し伸ばした。
藍の席とマイブリットの席との間は、人の列が小さな壁のようになっており、ひどく遠く感じられた。この位置では、視線が合うことさえ許されていないような気がした。
「よーし、これから出席とるからいったん席に戻って。その後は体育館で全校集会だから、寝るなよー」
担任は生徒達を席へ戻し、出席を取り始めた。転入生の話があっても、一学期と変わらない朝の流れが続いていく。
藍は鞄を開き、スマホの画面を一度だけ確かめた。まだ姿を見せないマイブリットから何か連絡が来ていないかと期待したが、今朝と同じで、通知はひとつもなかった。
出席確認の後は二学期初日の全校集会のため、体育館への移動となった。
藍は鞄から貴重品を取り出し、教室の隅にある生徒用の小さなロッカーへ納めた。それから、体育館へ向かう生徒たちの流れに加わった。
体育館は広く、エアコンの冷気が端まで行き届いていなかった。生ぬるい空気が、館内の隅にまで残っている。にじむ汗のせいで、歩くたびに服が肌へまとわりついた。
クラスごとに整列すると、クラス委員が人数を確かめる。足音とざわめき、重いドアの開閉音が重なって、館内に響いた。
全校集会が始まり、壇上の校長は休み明けの決まり文句をマイク越しに並べている。ときどき、スピーカーからの音が割れて届いた。
整列した生徒たちの中で、きちんと背筋を伸ばしているのは前方の一部だけだった。列のあちこちでは、楽な態勢をとったり、小声で話したりする姿が目につく。
藍の近くの女子が「もうメイクが崩れそう……」とぼやいた。藍の首筋にも汗がにじみ、何度もハンカチを当ててしまう。たまに抜けるエアコンの風も頼りない。かすかに漂ってくる香水の匂いが、かえって不快感を強めた。早く終わってほしいという思いが、藍の胸の内で募る。
体育館の後方の扉が、静かに開く音がした。蝶番が擦れ、外の熱気が遅れて流れ込む。近くの数人がその小さな音に首だけ動かし、藍もつられて見やった。
照明の下で、金色の髪が一瞬だけ淡く揺れた。
女性職員に先導され、一人の少女が入ってくる。制服姿の身体の線は細いのに、存在感があった。歩幅は一定で、少しも乱れない。
生徒達の注目が、後方の一角から周囲へと、波のように広がる。誰も声にしないのに、気配だけが「何か来た」と告げていた。少女----マイブリットは、生徒の列には加わらず、女性職員とともに入口に近い壁際へ進み、教員や事務職員が並ぶ端の列に静かに立った。そこにいるだけで、体育館の空気がほんの少しだけ張りつめたようだった。
白いシャツにネームタグをつけた女性職員の隣で、金色の髪が照明に照らされ、柔らかな輪郭を浮かび上がらせる。
「ねえ、あの子じゃない?」
「すご……モデルみたいじゃん」
生徒たちの間から囁きが広がるが、マイブリットは顔色ひとつ変えない。意識に留める必要すらないかのような、自然な立ち居振る舞いだった。
藍の位置から見えるのは、照明の光が跳ねているような金色の髪と、横顔の輪郭だけだった。生徒たちのあいだから小さな囁きが広がり、視線がいっせいにマイブリットへ集まっていく。
本当に今日から同じクラスになるのだという実感を、藍はようやくはっきりと受け止めることができた。
夏休みには何度か顔を合わせる機会があって見慣れているつもりだったが、正式な高校生活の中で同じ時間を過ごすのは初めてだった。緊張しているのか、藍は自分の鼓動が速くなっているのを感じた。
マイブリットは生徒達から好奇の視線を浴びても、気後れした様子がない。背筋を伸ばしたまま、視線も姿勢も崩さずに立っていた。
もう少しよく見えたらいいのに、と藍は思った。その横顔が少しでもこちらへ向くのを待ったが、マイブリットの視線は壇上から動かない。
せめて自分がここにいると気づいてほしくて、藍は片手を上げかけて、途中で止めた。
挙げかけた手は思った以上に小さく、頼りなく見えた。こんな動きでは、目につかないだろう。そう思った瞬間、夏休みに少しずつ縮まったはずの距離が、急に開いていく気がした。藍はそっと手を戻した。
スカートの端を指先で握る。それほど力を入れていないはずなのに、指先が痛く感じられた。
マイブリットは全校集会の間、ただ真っ直ぐに立ち続けていた。少なくとも藍のいる場所を探しているようには見えなかった。
全校集会は淡々と終わった。
教室へ戻るため、生徒達の列が動き出す。マイブリットは女性職員に促され、生徒達とは別の通路へ消えていった。
転入の手続きの続きだろう。藍も頭ではそうわかっている。それでも、一緒に移動しないというだけで、自分とマイブリットのあいだにある距離を、あらためて見せつけられたような気がした。
藍はクラスの列に押されるように、体育館を後にした。
なんだろう、と藍は思った。同じクラスになれることと、夏休みに縮まった距離の続きを、藍はどこかで同じもののように期待しすぎていたのかもしれない。
人の流れに押されるまま歩きながら、藍はもう一度だけ振り返った。けれど、ついさきほどまでいたはずのマイブリットの姿はどこにもない。
胸の奥に残った違和感だけが、妙に鮮明だった。同じ学校にいて、同じクラスになるはずなのに、手を伸ばしても届かない距離。
藍はその感覚を振り払うように前を向いたが、完全には消えなかった。
--つづく--




