第五話「同じ教室、遠いままで」第1節
目覚まし時計の電子アラームが、朝の六時を告げた。
薄いカーテン越しの光が部屋の中へ射しこみ、目覚まし時計の電子音は時間の経過とともに徐々に大きくなっていく。
ベッドの中の藍は眉を寄せ、手を枕元へ伸ばした。目覚まし時計を探りあてると、アラームを止める。自室に静けさが戻り、広がりつつある陽光の気配が頬に触れた。
藍は少しだけ目を開ける。眠気の残る視界では天井の模様がゆっくりと揺れているように見え、遠くを走る車のかすかな音が耳に届いた。
朝陽を避けるように寝返りを打つと、背中に熱気がまとわりついた。薄手のタオルケットは寝汗のせいか、わずかに重い。室内の熱も、瞼越しに感じる朝の光も、じわじわと存在感を増していった。
藍は身を丸め、タオルケットの陰に逃げこんだ。顔を埋めたまま、小さく呻く。そろそろ起きなければと思うのに、なかなか踏ん切りがつかなかった。
部屋の外、廊下から足音が近づいてくる。短いノックのあと、返事を待たずにドアが静かに開いた。床板がかすかに軋む。見て確かめるまでもなく、その気配は母親のものだとわかった。
母親は足音を忍ばせるようにして、藍のベッド脇までやって来た。
「藍、起きなさい。もう六時すぎてるわよ」
母の穏やかな声が耳に届くのと同時に、焼き鮭の香ばしさと卵焼きの甘い匂いが漂ってきた。その匂いに誘われるように、藍の意識はまどろみからゆっくりと現実へ引き上げられていく。
「あと五分だけ……」
「何言ってんの。二学期初日だから念のため早めに起こして、ってお願いしてきたのは藍でしょ」
呆れ混じりの母の声。昨夜、自分が母親に頼んだことを思い出し、藍は抵抗をやめて起きることにした。
「わかった……」
藍は喉の奥でくぐもった声をもらしながら、大きく伸びをした。
タオルケットを押しのけると、のろのろと身を起こしてベッドの端に腰掛ける。裸足が触れた床は、まだかすかに冷たさを残していた。
カーテン越しの光が卓上ミラーに反射する。鏡には、寝癖で跳ねた髪が映っている。机の端には、畳んだハンカチとヘアゴムが転がったままだ。
「寝癖すごい。早く朝ごはん食べて支度しなさいね」
母はノースリーブの服に、淡い花柄のエプロンを巻いていた。腰ひもはきっちり結ばれ、動くたびに布がふわりと揺れる。
身をかがめた母の指先が、藍の髪を撫でるように梳いていく。寝癖の束が引っかかり、少しだけ痛かった。
「んー……」
つい声がもれた。髪を梳かれる感触は気持ちいい。ずいぶんと久しぶりなその感触に、藍は甘えてしまいたくなった。
「いつまでも寝ぼけてないの。下で待ってるわよ」
母は苦笑まじりに言って、藍の髪を整える手を止めた。廊下へ向かいかけた母が、思い出したように足を止める。
「今日はお弁当なしで良いのよね?」
「うん。午後にすぐ図書委員の活動があるから、昼休みに購買でパン買って食べとく」
「だったら、朝ごはんは多めに食べておきなさいね」
反論は許さないと言いたげな口調に、藍は「はーい」と軽く返した。母は部屋を出ると、ゆっくりドアを閉めた。
母親の足音が廊下を遠ざかり、そのまま階段を降りていく。
----ああ、もう一日が始まる。
二学期が本当に始まるのだと思った途端、マイブリットからまだ何の連絡も届いていないことが気にかかり、藍の胸に重いものが落ちた。
藍はベッドから立ち上がり、まだ少し重い身体を引きずるように机のそばまで歩いた。充電していたスマホを手に取る。通知はない。念のためメールやメッセージアプリも確かめたが、新着はなかった。
階下からは朝食の支度の気配と、食器の乾いた音が続いている。
このまま部屋を出れば、これまでと同じ高校生活がまた始まる。そう思いかけて、藍は画面を伏せた。
けれど、今日からは----あのマイブリットと、また同じ教室で過ごせるはずだ。夏休みに親しくなった彼女がいるなら、何かが変わるかもしれない。そう思いなおし、藍はスマホを机に置いて階下へ向かった。
藍は急いで朝食を済ませ、身支度を整えた。久しぶりの制服のブラウスは、袖を通すと少し硬く感じた。
履き慣れたローファーは、新品みたいに磨き上げられていた。先日の日曜日、父親が自分の靴のついでに磨いてくれたのだ。
藍は下駄箱の上の古い卓上時計に目をやった。母に早めに起こしてもらったはずなのに、寝起きにもたついたせいで、もうのんびりしている余裕はなかった。
外へ出てしばらく歩くと、もう背中が汗ばんだ。二学期初日の朝は、肩に掛けた鞄まで重く感じる。
「……佳波ちゃんがいた頃は、こういう朝も楽しかったのに」
つい、ぼやきが口から出てしまう。
幼稚園から中学まで毎朝のように隣にいてくれた幼馴染は、高校では離れてしまった。そのことを思い出すだけで、通学路が少し長く感じられた。
ランドセルを背負った子どもたちの流れをよけながら、藍は早足でバス停へ向かった。日を遮るものの少ない舗道に、朝陽がまっすぐ射しこんでいる。真夏の強すぎる白さではない。金色を帯びた光が、電線や標識の縁をやわらかく縁取っていた。
前を歩く中学生たちが、限定デザインのキャラクター柄ペットボトルをめぐってはしゃいでいる。その声を聞きながら、藍は自分にもああいう時期があったのだろうかと考えた。
二学期初日だからか、バス停の列はいつもより長かった。藍はバスに乗れずに遅刻する可能性を心配したが、やってきたバスは予想よりも空いていた。
藍はバスに乗り込んだ。ICカードの読み取り機が短く鳴り、運賃箱の上の表示が一瞬だけ切り替わる。藍は人の間をすり抜け、最後部近くの空き席にたどり着いて腰を下ろした。九月に入ったせいかエアコンは弱く、汗はなかなかおさまってくれなかった。
ドアが閉まり、低いエンジン音が車体を震わせた。発進の揺れに合わせて金属が軋む小さな音が、座席越しに身体へ伝わってきた。
藍はスマホを確かめたが、新着通知はなかった。
まだ誰も座っていない隣席に、藍はいったん鞄を置いた。中の荷物を整えてスマホをしまい、代わりに読みかけの文庫本を出す。少し読み進めたところでバスは次の停留所に着き、車内が混み始めた。藍は本を閉じ、文庫本を膝の上の鞄の上に重ねて抱え直した。隣に会社員風の若い女性が座った。
車窓の向こうを、見慣れた街並みが流れていく。いつも通りの景色なのに、今日は少しだけ違って見えた。
ビルの白、信号の赤、標識の色。夏の終わりの陽光の中で、どれもわずかに褪せて見える。けれど、不思議と嫌な感じはしない。自分でも理由はわからないが、以前とは違う日常が始まるのではないかという期待と、そうならなかったらどうしようという不安が、胸の中で並んでいた。
いくつか停留所を過ぎ、車内の話し声が落ち着いた頃、藍は文庫本を指先で軽く叩きながら、そっと目を閉じた。
その時、鞄の中でスマホが一度だけ震えた気がして、藍はスマホを取り出して確かめた。
届いていたのは、新着メッセージではなく、天気予報アプリの更新通知だけだった。淡い期待が裏切られ、藍は小さく息をついた。
「マイブリットさん、大丈夫かな。せめて二学期初日くらい、何かあれば言ってくれてもいいのに」
後方から、見慣れない制服を着た他校の生徒たちの話し声が聞こえてくる。
「クラス替え、誰と同じになるかな」
楽しげなその声に、藍はふと顔を上げた。
クラス替え。自分の高校では、二学期の始まりにクラスが変わるわけではない。今日あるのは、一学期最後のホームルームで告げられていた席替えだけだ。
けれど、その言葉は藍の胸の奥に、別の不安を呼び起こした。
席替えの前に、そもそもマイブリットは本当に自分と同じ教室に来るのだろうか。
マイブリットは一学期の最後の日に突然の転入生として、ほんの一日だけ藍のクラスにいただけだ。それでも藍は、二学期もそのまま同じ教室になるのだと、どこかで勝手に思いこんでいた。
しかし、今になって思えば、担任から詳しい説明はなかった。
今日からも、一学期の最終日のように同じ教室にいてくれるのだろうか。それとも、あれは一時的なものだったのだろうか。
藍はマイブリットに、同じ教室になるのか尋ねようとスマホで短いメールを書きかけ、その手を止めた。
送れば、すぐに返事は来るかもしれない。でも、もし聞きたくない答えが返ってきたら----そこまで思って、藍はそれ以上を想像できなくなった。しばらく迷った末、書きかけの文を消して、スマホをしまった。文庫本を鞄の上に置き直し、膝の上でそれごとぎゅっと抱え直す。
窓の外では、すれ違ったトラックの車体が朝の澄んだ空を鏡のように映し、その光だけが先へ流れていった。
--つづく--




