第9話 小さな変化(前編)―夜中のメッセージと階段の距離― 【挿絵あり】
何時間も泣き明かしたあと、誰も教えてくれないことがある。被害状況の確認だ。
涙が尽きる頃には、窓はオレンジから灰色に、そして食器洗いの水としか呼べない色になっていた。ベッドはベッドであることをやめて、小さな湖になっていた。枕はぐっしょり。襟もぐっしょり。マットレスの真ん中あたりには、だいたい腎臓の形をした染みがあるが、それについては話さない。
湖の乾いた縁に仰向けになって、天井を見上げた。
「今、誰かが入ってきたら」俺はファンに言った。「おねしょしたと思うだろうな」
きしむ音。
「三十四歳で」
きしむ音。
「十六歳。三十四歳。どっちでもいい。どっちにしてもひどい」
ファンは、どちらの肩も持たなかった。非常にプロフェッショナルだ。
もう一度、ジョークを試してみることにした。咳払い。明治から一度も開けられていない門みたいな音がした。
「紳士淑女の皆さん、松本ハルトです。大家と、三回の就職面接と、全部赤字で書かれた銀行の手紙を生き延びた男。その男が、ついに何に壊されたのか? 何が彼を、顔つきの破裂した水道管にしたのか? ポスターです。剣を持った少女のポスター。彼が自分で、わざと、盛大な儀式をもって破り捨てたものです」
間を置いた。
「これまでのすべてを足したよりも、確かに厳しい瞬間でした。誰かこの男に勲章を」
間。
「小さいやつを。段ボール製で」
間。
「士気高揚のために、ジョークを何個かテープで貼りつけて」
……ハ。
咳みたいに出た。咳ですらない。咳について考えているところ、くらいのものだ。
記録に残しておくが、ジョークは良かった。話し方も良かった。間も完璧だった。ただ、観客が正午あたりにどこかへ行ってしまって、まだ戻ってきていないだけだ。
首を回した。
部屋は、とても小さくて、とても馬鹿げた戦争の跡みたいだった。マンガは床に山積みで、背表紙は割れて、まるで話の途中で撃たれたみたいだ。母さんには決して見られてはいけなかった二列目は、誰にでも見つかるように、今では表を上にして転がっていた。ポスターの二つの半分は、破れ目に沿ってまだ触れ合ったまま床板に並んでいて、片方は小さな絵の具の笑みで天井に微笑みかけていた。
彼女のほうは、長くは見なかった。人間が一日に謝れる紙の枚数には、限りがある。
少なくとも、冷蔵庫は戻ってきていなかった。教室のあの低いうなり。アカリの声も、自分の声も、何もかもかき消した、あれだ。今はただ静かだった。平凡で、ありふれた、食器洗いの水みたいな静けさ。それには、感謝した。
そのあたりで、頭の中の図書館が営業を再開した。
営業時間は限定、人手不足。棚はまだ半分空っぽ。それでも奥のどこかで明かりがつき、ひどく疲れた司書が咳払いをした。一日中、話す許可を待っていた男の声で、利用規約を読み上げ始める。
(よし。確認しよう)
起き上がった。マットレスがじゅくっと音を立てたが、それについても話さない。
自分の罪状を読み上げる男みたいに、事実をひとつずつ確認していく。
一。俺は、二度目の人生を手に入れた。
二。ハゲの馬鹿野郎は、これは貸し付けであって、贈り物じゃないと言った。(変えろとは、言っていない)
三。俺は、何かを変えた。女の子を運河から引き上げた。すると宇宙は、眉毛のない存在の口を通して、拳銃の形をした請求書を送ってきた。
四。請求書は、全額支払われた。四十日間。金色の額縁。指の関節の青いインクのにじみ。すべて。消去された。にじみまで。
つまり、ルールは本物だった。ブーツで年表を踏み荒らして、気に入らないものを蹴り倒すことはできない。
でも、湖に寝転んでいて見落としていたことがある。あのハゲの馬鹿野郎は、運命を書き換えることはできない、と言った。
編集することはできない、とは言っていない。
未来を関数だと考えてみよう。fと呼ぶ。ハゲは、途中の一点一点で何が起きるかには興味がない。気にするのは、最終的に同じ結果になるかどうかだけだ。さて、連続関数は飛ばない。入力が少し揺れても、出力は少ししか揺れない。考え方はそれだけだ。俺は最初の人生では数学が三十一点だった。存在しなくなった二度目の人生では七十四点。そして、七十四点は有効だと決めた。七十四点あれば、「連続」という言葉を文章の中で使っていい。
だから、小さな変化。こっち側の小さな揺れ、あっち側の小さな揺れ。結末は同じ。誰も撃たれない。みんな家に帰る。
小さな変化なら、いいんじゃないか?
だろ?
二回訊いたことは、記録しておいてほしい。「だろ?」と二回訊く男は、たいてい答えをもう調べ終えていて、それが気に入らなかったのだ。
「計画は単純だ」俺は、ファンに、部屋に、そしてすでに頭の中で首にかけている段ボールの勲章に向かって言った。
一。シオンとは関わらない。あまり。おはようとこんにちは、それが法的な上限だ。
二。あいつのノートは受け取らない。
三。一緒に勉強しない。図書館なし。自販機なし。七文字なし。(七文字のことは、考えないようにしていた)
そして、その理由は指でたどれた。最初の人生では、夏休みの初日に雨が降って、はしごの段が折れて、少年が運河で少女を見つけて、毎日病院に通った。それが正史だ。嫌になるほどはっきり知っていた。九月の廊下、ひそひそ話す二人の女子、最大音量のヘッドホン。そして二度目の人生で、俺がそこに手を突っ込んだら、少年は寝坊した。なぜか? 夜更かしして、俺のために夏の問題集を作っていたからだ。俺が、全部の章を教えてくれと頼んだからだ。俺が、コーラを買ったからだ。
俺が少年にコーラを買うと、少女が溺れかけた。それが、この宇宙の為替レートだ。
だから、コーラなし。あいつの軌道から離れていれば、あいつは夜更かししない。夜更かししなければ、寝坊しない。寝坊しなければ、運河に時間どおりに現れて、世界はハゲが書いたとおりに戻る。
そしてそれは、証明を最後の行まで追えば、髪ゴムの少女を、シャーペンの少年の腕の中へ、もう一度送り込むことになる。
俺は、証明を最後の行まで追わなかった。最後から二番目の行で止まって、余白にジョークが書けないか確かめた。
それに、目を細めれば、いいニュースはいつだってある。俺のゲームの知識は、まだ使える。
俺はゲームのプロだった。リストラされたこと以外で、唯一プロと呼べるものだ。そして一番誇りに思っていたのは、ある年代の男なら誰もが一度はやった、あのゲーム。『百人の嫁:永遠のハーレム』だ。そう、あれだ。白い虚無で神様に向かって引用した、まさにそのゲーム。俺は独創的じゃなかった。ファンだったのだ。
ラスボスは、常春の女帝。俺は彼女に十一回殺された。十一回。だが、どの死も何かを教えてくれた。予備動作。癖。大技の直前の、ちょうど半秒。十二回目のプレイでは、彼女の全部の動きを最初から知っている状態で挑んで、ぎりぎりの体力で倒して、エンドロールの前にサンドイッチを食べた。王様みたいに。
それは、ひとつの技術だ。死んで、学んで、パターンを覚えて戻ってくる。ちゃんと名前があった。何て言うんだっけ……試行錯誤? いや、税務調査みたいだ。パターン認識? シオンっぽすぎる。死から学ぶ? それはダークソウルで、ダークソウルは俺を嫌っている。えーと……喉まで出かかってる……ああ。そうだ。
死に覚え。
それだ。二周目のプレイ。ボスの動きは知っている。攻撃がどこから来るかも知っている。あとは、そこに突っ込まなければいいだけだ。
簡単だ。たぶん。第二形態がなければ。
第二形態:拳銃。
……そうか。よし。次の問題。
「終わりじゃないぞ、ハルト」百本のアニメで聞いたことのある調子で言ってみた。低く、落ち着いて、肩に手を置くような声で。「お前は、リセットされただけだ。削除されたわけじゃない」
間。
「……いや、削除されて、お前の気持ちを一切考慮しないバックアップから復元された。でも、それでも。終わりじゃない」
胸の中の何かが、動いた。ほんの数ミリ。あるいは、まったく動いていないかもしれない。ジョークは部屋には届かなかったが、俺の中には届いた。小さく、段ボールの勲章くらいの大きさで。
いい。受け取っておこう。
立ち上がった。マットレスが音を立てたが、それはバネのせいにすると決めた。
ポスターがあった壁まで歩いて、じっと見つめた。
塗装の上に、周りよりきれいな薄い長方形が残っていた。欠けた歯みたいに。その日を、かすり傷ひとつなく乗り切った、この部屋で唯一のものだった。ぼやけてくるまで見つめた。壁を見つめても、ほとんど何も解決しないが、無料だし、考えているように見える。
明日。
明日、アカリに会う。二年C組、三列目、窓際。誰かを噛んだ犬を見るような目で、彼女は俺を見るだろう。そして俺は、何か言わなければならない。
選択肢一:「コスプレしてたんだ」
何の? 公衆の面前で正気を失う男の? だめだ。それはアニメでしか通用しない。アニメなら、コスプレの言い訳は、ぎこちない笑いと、赤面と、突然の文化祭につながる。現実では、スクールカウンセラーへの電話につながる。
選択肢二:「失った誰かに見えたんだ」
そこで少し止まった。いい響きだった。悲しくて、柔らかくて、背景のどこかでバイオリン。これもアニメだ。アニメなら、少女の目が優しくなって、風が髪を持ち上げて、「……その人のこと、聞かせて」と言う。現実なら、とても明るい声で「そうなんだ!」と言って、ゆっくり後ずさりして、そのまま車道に出ていく。
選択肢三:真実。
それを、彼女の顔を思い浮かべるのにかかったのと同じ時間だけ検討した。
(やあ。俺は、削除された時間軸から来た。そこでは、君は俺を愛している。それと、拳銃を持ったハゲがいる)
選択肢三は、却下だ。
そのとき、携帯が震えた。
机の上、存在しない人生で猫のノートがあった場所に置いてあった携帯が、死にかけの虫みたいに、震えながら木の上をじりじり動いていた。
次の十一秒間で起きたこと。
一。俺は叫んだ。静かに。俺は動物じゃない。近所がある。
二。携帯を投げた。遠くじゃない。ガラケーは、そのために作られている。マンガの山に当たって跳ね返り、画面を下にして机の下に滑り込んだ。俺から隠れるみたいに。
三。後を追って飛び込み、ベッドの枠に顎をぶつけ、後世に残したいような音を出した。
四。開いた。新着メッセージ一件。閉じた。開いた。新着メッセージ一件。
五。送信者を見た。二つの人生で、一度も見たことのない番号。
六。読んだ。
こんばんは。突然ごめんなさい。
2-Cのアカリです。シオンくんから番号を聞きました。シオンくんを怒らないでね。私がお願いしたの。
二通、同じ秒に。一通送ってから、二通目を思いついたわけじゃない。続けて二回、送信を押したのだ。
ベッドに背中をつけて床に座り込み、携帯を両手で持った。まだ気が変わるかもしれない小さな生き物みたいに。
「アカリ」俺は、部屋に向かって言った。そして、俺だから、続けた。「……なんで、シオンが俺の番号を知ってるんだ?」
あいつには、教えたことがなかった。最初の人生では、坂のどこかで、空がオレンジ色になっていく中で番号を交換した。その人生は、にじみと一緒に削除された。この人生では、俺は誰にも何も渡していない。わざと、顔のついた閉じた扉でいたのだ。
そのとき、ひらめいた。クラスの連絡網だ。四月に先生が回した、みんなが落書きして、誰も読まなかったやつ。シオンなら、そこにある番号を全部、座席順に、あの丁寧な字でノートの後ろに写しているだろう。もちろん写す。あいつは、一人で成り立つ記録省だ。
そして、二つ目の気づきが、もっとゆっくり、もっと重く、やって来た。
あいつが、教えたのだ。
昨日のあとで。『それ、うまいね、ハルト』のあとで。俺があいつの人生に踏み込んで、みんなの前で足元の床を蹴り抜いたあとで、一人の女の子が俺のことを訊いて、あいつは「いいよ」と言って、俺の番号を渡した。
それは、人間じゃない。公共インフラだ。
携帯が、また震えた。
今日は、すごく動揺しているように見えました。あなたのことを知らないから、間違っているかもしれないけど。
でも、どうしてあんなことをしたの?
トン、トン。
半秒で読んで、それから十一分かけて、もう一度読んだ。
どうして、あんなことをしたの。
「大丈夫?」じゃない。「近づかないで」でもない。彼女は、どうして、と訊いた。まっすぐ。彼女がいつも何でも訊くやり方で。怖いものに向かって、怖くなくなるまで歩いていくような女の子だから。見知らぬ子供のために、はしごを降りた子だ。死に物狂いで掴んできた男を、説明なしで済ませるはずがなかった。
親指が、宙で止まった。俺は三十四歳だ。辞表も、カバーレターも、猫への三ページの謝罪文も書いたことがある。それなのに、オーブン用ミトンで爆弾を解体する男みたいに、震えていた。
下書き一:誰ですか。(彼女は名乗った) 削除。
下書き二:本当にごめんなさい!!!(感嘆符が三つ。借金取りに土下座する男みたいだった) 削除。
下書き三:「関係者各位」で始まり、脚注がつく、四百字の小論文。削除キーを丸一分押し続けて消した。画面が、安っぽい演出みたいに逆再生されていった。
下書き四、送信。
やあ。シオンには怒ってない。君にも怒ってない。主に、自分に怒ってる。
十一分かかった。「す」を出すだけで三回押した。「大好物」になっていないか、五回確認した。
返信は、息を吐く前に来た。
そっか。
正直、ほっとした。
それから。
ひとつ、直接訊いてもいい? 遠回しに訊くの、苦手なの。
(知ってる。前に見たことがある。首をかしげるやつだ)
どうぞ、と俺は書いた。
私のあとをつけてた?
違う。誓って。生まれてから、誰かをつけたことはない。
間があって、見張りのいない親指が、勝手に付け足した。
(一度、コンビニまで割引のために。小さな割引だった)
間。その夜で一番長い八秒。
ふふ
ごめんなさい。笑うところじゃない。真面目にしなきゃ。
携帯を額に当てた。
ふふ。文字で打たれた、二音。それはあの笑いじゃなかった。手を口に当てた、本物の笑いじゃない。近くすらなかった。あの笑いの影が、ずっと遠くから、壁に投げかけられただけのものだ。
その影でも、受け取っただろう。百円ショップの金色の額縁に入れて飾っただろう。
それなら、どうしてカモのことを知ってたの?
そして、それが来た。何時間も、鉛筆で周りをなぞり続けていた問いが。
長いこと、携帯を見つめていた。
嘘はつけた。いいのを用意してあった。(運河の近くに住んでて、君を見かけたことがある)。完璧に聞こえただろう。まともなアリバイを持ったストーカーに聞こえただろう。
それは説明できない、と打った。どう聞こえるかは、わかってる。もっとましに聞こえる説明を考えるのに二十分かけたけど、どれも嘘だった。嘘から始めたくない。作り話で、君を侮辱したくない。
沈黙。本物の沈黙。ファンが、きしんだ。
そっか。
すごく変なことを言うんだね、私に。
でも、うまい言い訳のほうが、怖かったと思う。
最初のメッセージからずっと、ことによると昨日からずっと止めていた息を、吐き出した。
言えるのは、本当のことだけだ、と書いた。九分かかった。君が、よく知っている誰かだと思った。君も、俺を知っていると思った。間違いだった。それなのに、掴めば直ると思って、君を掴んだ。怖がらせた。本当にごめん。それがすべてだ。もっとうまく言いたいけど、このガラケーは、「す」を打つのに三回も押さなきゃいけないんだ。
間。
それ、物語の台詞?
ごめん。失礼だった。
いいよ、と書いた。まさに物語の台詞だ。わかってる。でも本当のことでもある。
携帯を持ったまま、息をしなかった。
そっか。
ごめんって部分は、信じる。残りはどうしたらいいかわからないから、どこかにしまっておいて、あとで見るね。
彼女は、物を整理する。最初の人生では、気持ちまで物理の分類に入れていた。そして今、それをまたやっている。五十音順に、ラベルを外に向けて。
友達は、先生に、あなたは危険だって言うべきだって。危険?
違う。
危険な人なら、まさにそう言うと思う。
もっといい答えを持ってない人なら、まさにそう言うよ。
……確かに。
手は、大丈夫だからね。気になってたら、だけど。家に着く頃には、跡は消えてた。
気になってた、と書いた。一時間ごとに。
その夜に打った中で、一番本当のことだった。携帯を一瞬、膝に置かなければならなかった。五つの白い跡。頭の中で何度も見すぎて、溝が刻まれていた。
お母さんに、メッセージしたことを話すつもり。秘密は好きじゃないし、どうせ、わかっちゃうから。
そうして。顔を見て、謝りたいって伝えてほしい。
お母さんは、もう知ってる。学校から電話があったから。明日の夕方、あなたのお母さんに会いたいって。
そして、間のあとで。
怖がらないでね。怖い人じゃないから。ただのお母さんだよ。
ただのお母さん。存在する中で一番危険な種類だ。その日、まさにそのひとりに叩かれたばかりだった。
わかった、と書いた。行く。時間どおりに。
よかった。
おやすみ、松本くん。
松本くん。
四十日間の「ハルトくん」。四十日間、靴の中の硬貨みたいに持ち歩いた。そして、名字は、扉が閉まる音にもなるのだと知った。バタンと閉めたくない誰かが、丁寧に閉める音に。
おやすみ、アカリさん、と打った。
彼女は、二通で返した。二通目が来るのが感じられた。ペンが二回鳴るみたいに。
おやすみ。
そして小さな顔文字。コロンと括弧で作るやつ。
おやすみ。彼女は、あの夜も、午後九時四十七分に、それを打った。もうコピーのない人生で。それは、空っぽの家を通り抜ける隙間風のように、俺を通り抜けた。
そして、笑った。
ひび割れて、濡れていて、少し滑稽だったが、本物だった。この人生で目覚めてから、初めての。アカリは、いつも変わらなかった。怖い質問を先にまっすぐ訊くのは、そうせずにはいられないから。母親が訊く前に母親に話すのは、秘密が嫌いだから。手を掴んだ少年に「おやすみ」と言うのは、彼女がそういう子だから。三十四歳、十六歳、百歳。リセットされないものも、ある。
俺は彼女が好きだった。彼女のあり方が好きだった。恥ずかしいくらい好きで、恥ずかしがる相手は天井のファンしかいなかった。
* * *
鍵の音。一時五十二分。
起きていた。暗闇の中、胸に携帯をのせて、吹きこぼれそうな鍋に耳を澄ますみたいに、家の音を聞いていた。
鍵が回った。玄関のドアが、ゆっくり開いた。自分のほかに住人がもう一人しかいない家を、起こさないようにするときの、ドアの開け方だった。足音。カバンが置かれる音。冷蔵庫、そして間。椅子が引かれた。
それから、弁当の蓋のカチッという音。
あの蓋は知っている。青い布、白いプラスチック、隅の小さなひび。今朝、手つかずのまま、冷めた椀とクッションの隣のテーブルに置いてきたものだ。
母さんは、それを食べていた。
長い間。箸。ほとんど音がしない。お腹が空いているからではない食べ方で、誰かが食べていた。
起き上がった。それは記録に残してほしい。ベッドから出て、背表紙をまたいで、階段の上まで歩いて、四段降りたところで、足が十分だと判断した。四段目。あと十一段。膝を抱えて壁に背をつけて座ると、下の床に黄色い光の帯が伸びていた。
降りていくこともできた。十一段。運河を生き延びた。虚無を生き延びた。十一段は、生き延びられなかった。その下に、俺を見なかった女の人がいて、見てもらえないということが、どれほど耳に響くものか、その日、正確に学んだからだ。
鼻歌は、なかった。
人混みの中で自分の名前を探すように、それを聞き取ろうとした。何もない。箸。コツン。ごく小さな音。鼻をすする音だったかもしれないし、パイプの音だったかもしれない。
光の帯が消えるまで、その階段に座っていた。
* * *
古い弁当箱は、テーブルから消えていた。
流しのそばの水切りかごに、空の弁当箱があった。洗ってある。蓋がその横に。青い布は、四角くたたまれて、蛇口にかけて乾かしてあった。
母さんは、食べたのだ。冷めたのを。午前二時に。片側の焦げた、一日前の卵焼きを。自分と口をきかない息子の弁当を。
戸口に、長いこと立っていた。普通の人間が戸口に立つよりも、長く。
母さんは、振り向かなかった。同じエプロン。同じ背中。味噌が煮えていた。炊飯器が、カチッと鳴った。
「座りなさい」
座った。
椅子が三脚。皿は二枚。クッション。母さんは俺の前に椀を置いた。その手は、俺の手に触れもせず、かといって触れないようにもせず、ほんの数センチ離れたところにとどまった。年月で測れる距離だった。
「アカリさんのお宅には、六時に伺うことになってるわ」母さんは言った。「学校から真っすぐ帰ってきなさい。制服で」
「わかった」
「食べなさい」
食べた。何の味もしなかった。それから、すべての味がして、スプーンを置かなければならなかった。スープは変わっていなかった。それが、不公平なところだった。
カウンターの上に、新しい弁当があった。青い布に包まれて、母さんがいつも結ぶやり方で結んである。固く、端を押し込んで。中は見なかった。
ドアのところで、振り向いた。
「いってきます」
たった一言を、背中に向かって。
背中は、振り向かなかった。
「六時よ」母さんは、鍋に向かって言った。
それは「いってらっしゃい」ではなかった。でも、俺宛てだったので、郵便物として扱うことにした。




