第10話 小さな変化(中編)―落とし物のガラケーと消えた時間軸―
あいつは、俺が教室に着いたとき、もう最前列にいた。
ノート、寝ぐせ、眼鏡。青いノートが、机の上に、端をそろえて置いてあった。戸口の俺を見て、あいつは半分立ち上がった。学校まで何かを練習してきた少年の、慎重な顔で。
「ハルト。昨日のことなんだけど――」
「やめろ」
低く、平坦に出た。ひどく退屈そうに。
「今は話しかけるな」俺は言った。「忙しい」
忙しくなかった。鉛筆を持っていた。逆さまに。
シオンの口は、言いかけた言葉のところで、半秒開いたままだった。それから閉じた。
「ああ」あいつは言った。「そうだよね。ごめん」そして、微笑んだ。
『それ、うまいね、ハルト』
あいつは、言わなかった。言う必要がなかった。笑顔が代わりに言った。温かくて、気楽で、壁に釘で打ちつけられたみたいな笑顔が。あいつは座って、青いノートを俺の机の端に数センチ押し出した。ひとりでに俺のところに来てくれたらと願った場所に。それからまた戻して、また戻して、結局は自分の手の中に静かに収めた。まるで、どこにも行かなかったみたいに。
計画、二番。ノートは受け取らない。
受け取っていない。任務完了。満点。
座った。黒板を見つめた。最前列は見なかった。だから、耳の後ろにシャーペンがあるかどうかは見えなかった。
(なかった。窓に映った姿で確認した。いつも確認してしまう)
なのに、なぜ、何かを破いたような気がするんだ?
電車のアナウンスみたいに事実だけを読み上げる、小さくて平坦な声が答えた。
(ページを破かなくても、破ることはできるからだ。音を立てずにだって、できる)
* * *
最初の人生の昼休みは、シオンの椅子が俺の机に引きずられてきて、一時間の「実はこれ、すごく面白い」問題集だった。
この人生の昼休みは、古い体育館の裏のコンクリートの階段だった。日が当たって、誰も来ない場所。プライド、お一人様。
新しい弁当を開いた。おにぎりが二個。小さなタコの形に切ったウインナー、六歳児に出すみたいな。そして卵焼き。片側が焦げている。母さんが作るのと、まったく同じに。
見つめた。母さんは、俺を叩くほど怒っていたのに、卵を正しく作った。腹いせに、こんなに完璧に卵を焦がすことはできない。手がやり方を知っているから、こんなに完璧に焦げるのだ。あの人のそれ以外の部分が口をきくのをやめたあとも、手はまだ仕事をしていたのだ。
口に入れた。鍵をかけていない扉の味がした。
よし。考えろ。
考えろ、ハルト。もっと。もっとだ、脳みそ。もっと。
目を固く閉じて、頭蓋骨全体で押した。額で瓶の蓋を開けようとする男みたいに。その最中に、校庭の向こうで歓声が上がった。
片目を開けた。
二十メートル先で、芝生の上に、男子の輪ができていた。肩を寄せ合い、背中を外に向けて、卵を囲むペンギンみたいにぎっしりと。その真ん中に、丸顔の小柄な少年が、何かを勝ち取って、それを失うのを恐れている人の顔で、両手で弁当箱を持って立っていた。
「見せろ!」「開けろ!」「本物か?」「三年に見られるなよ!」
見るべきじゃなかった。見た。
少年は、結婚式でベールを上げるみたいに、ゆっくりと蓋を持ち上げた。光が出た。本当に、光があった。おそらく太陽だ。ため息が、野原を渡る風みたいに輪を一周した。
鰻。
蒲焼きが、丸ごと一匹。ご飯の上に。学校の弁当に。水曜日に。この少年の母親が宝くじに当たったか、愛のために罪を犯したかのどちらかで、どちらにしても、俺は彼女を尊敬した。
輪は、ちょうど二秒もった。
それから、落としたビー玉の袋みたいに崩れた。手。たくさんの手。数えてしまったので、十一本。ご飯が飛んだ。梅干しが、信念を失ったロケットの優雅さで、高い弧を描いた。誰かが「俺のだ!」と叫んだ。別の誰かが、もっとひどい主張で「俺のだ!」と叫んだ。鰻は、あの偉大な、輝かしい鰻は、瞬きする間に消えた。もう噂になっていた。最初から存在しなかったみたいに。
土煙が収まると、少年は、クレーターの真ん中で空の箱を持って、まるで家ごとレッカー移動されたばかりの男みたいに、完全に静止して立っていた。
昔、自然ドキュメンタリーで、ハイエナがシマウマを四分で解体するのを見た。シマウマのほうが長くもったし、広報も上手だった。
そして俺は、笑っていた。乾いたやつじゃない。小さな、本物の。肋骨がそのことを指摘するまで、気づかなかった。
それから、まだ見ていることに気づいて、口を閉じた。
だめだ。
集中だ。
邪魔は入れない。修行僧モード。起動。
コンクリートの上で足を組み、目を閉じ、手のひらを膝に置いて、穏やかさについてのドキュメンタリーに出てくる男みたいに呼吸した。完全な静寂の中のハゲの人影、手は膝に、顔は無表情……
うわ、やめろ。
それは、俺を撃った奴の美学だ。
中止。別の修行僧に。
よし。いいだろう。問題二だ。問題一は、Q.E.D.までたどり着いたあげく、見出しをつけただけの願望だったと判明したからな。
あの馬鹿野郎は、白い場所で、手を組んで、自分で言っていた。『ここに立つのは、君が初めてじゃない』。二番目の扉は、いつも用意されているわけじゃない。そして、いつも同じ扉というわけでもない。
つまり、俺以外にも、このルートを選んだ誰かがいる。
ということは、この学校の、この町の、この惑星の、どこかで、誰かがポケットに二度目の人生を入れて歩いている。
アモングアスだ。
緊急会議。食堂。乗組員の一人は、見かけどおりではない。そしてゲームと違って、これでは、インポスターは俺を殺したいんじゃなく、放っておいてほしいのだ。それがもっとたちが悪い。話しかけなきゃならなくなるからだ。
容疑者を洗おう。
母さん。白。卵のことを知らなかった。ランプのことを覚えていなかった。それに、インポスターなら、あんなに強く叩けない。あの確信は偽れない。十六年分の残業が必要だ。
ウェイター。あれは確認された余韻であって、インポスターじゃない。葬式の顔をした男に、二度目の人生は要らない。要るのは、話を聞いてくれる人だ。
先生。違う。先生には、一度目の人生を早く終わらせたい男のエネルギーがある。
シオン。
あいつのところで止まった。他の人が呼吸するように勉強する少年。誰にでも優しい少年。自分を噛んだ犬に何を言えばいいか知っていた少年。誰かが二度目の人生をもらって、うまく使うとしたら……
それから、もっと考えて、その考えはテーブルから落ちた。
『誰にも言ったことない』。コピー用紙の色になった顔で。一度も。誰にも。
あんな顔は偽れない。世界一の役者でも無理だ。そしてシオンは役者じゃない。シオンは嘘をつけない。家具にも謝る奴だ。覚えている少年なら、ただで手に入るものを取っただろう。『ハルト、四百回分のおはようを借りてるよ』。あいつは、電柱に自白するほうを選ぶ。
シオンじゃない。却下。頭の中で赤ペンで消した。ペンが震えた。
残るのは、二つの名前。一つは白と判断して、白を取り消すのが怖いもの。
もう一つは、ちゃんと会ったことがないので白にできないもの。ハゲで、無性別で、眉毛もなく、髪もなく、ナニもない存在。手を組んで立って、俺が最初じゃないと言った存在。インポスターが、俺に申込用紙を渡した奴でないと、誰が言える?
彼かもしれない。
彼女かもしれない。
それかもしれない。
このことは、絶対に、絶対に、声に出して言わないと、心にメモした。
アカリ。
彼女は、俺にメッセージをくれた。二日目に。俺が彼女の朝を裏返した数時間後に、彼女は俺の番号を見つけて、「ごめんなさい」から入った。見知らぬ人に怖がらされたばかりの女の子は、そんなことをしない。その見知らぬ人がどれだけ知っているかを、確かめたいのでない限り。涙を流しながら、俺の顔に向かって嘘をついていたのでない限り。そうでない限り……
ゆっくりと、ひっくり返してみた。
肯定の証拠:彼女は俺にメッセージをくれた。すぐに。「気持ち悪い奴」のファイルに入れて、近づかない、という、賢明な人間のやることをしなかった。
否定の証拠:彼女は泣いた。本物の涙、まっすぐ落ちる静かなやつ。「どこかで、お会いしましたっけ?」と、知らない犬に使う声で言った。カモのことを、カモが秘密になるなんて聞いたことがないかのように訊いた。
中立の証拠:彼女は、何でも二通で送る。トン、トン。いつも同じ。
そして、それが一番残酷なところだった。アカリがいつも変わらないことは、どちらの物語にも合った。記憶のない女の子なら、まさにこうするだろう。すべての記憶を持つ女の子も、怖がらせたばかりの少年に、まさにこうするだろう。怖い質問を先に訊くから。
両手を後ろについてのけぞり、スズメが降りてくるのを見ていた。
鰻戦争の残骸の芝生を跳ねて、左を見て、右を見て、梅干しを盗んだ。極めて小さな鳥が、極めて大きな梅干しを。三回かかった。落とした。もう一度やった。鳥がよくやる、「見た? 今の、俺のだぜ」という顔で俺を見る、あれをやった。
四十秒。スズメを、四十秒見ていた。
前の人生では、バス停で四十分間ハトを見ていたことがあって、それを趣味と呼んでいた。失業だった。
集中。
どこまで考えたか。アカリ。証拠。結論。
スズメに向かって判決を述べようと口を開いたとき、チャイムが鳴った。
スズメは去った。判決もだ。バスタブの水が抜けたみたいに、校庭から人が引いていった。頭蓋骨の中のどこかで、たくさんの考えが積み上がりすぎて、小さな声が静かに、運転手にガソリンのランプがついていることを教えるみたいに言った。
(脳みそ、過負荷まで残りわずか)
立ち上がった。ズボンをはたいた。空の弁当を、おそらく落ちたと確信している長い試験から出てきた男みたいに、校舎へ持ち帰った。
「結論」俺は自分に言った。「結論は、ない」
それでも、見出しをつけただけの願望よりはましだ。
* * *
東階段は、廊下を憎んだ人間が作ったものだった。
そこを使ったのは、長くて人がいなかったからで、最初の人生では、自販機の少年を避けるために使っていた道だったからだ。うつむいて、頭の中で自分と議論している最中に、階段の上の踊り場を曲がった。
左から、何かがぶつかってきた。
物理では、二つの物体が出会う。単純な方程式だ。実際には、俺は床と出会い、二つ目の体が俺と出会い、骨ばった肘が腹と出会い、「ぐえっ」があらゆる言語で同時に口から出た。
仰向けに倒れて、天井が頭上で泳いでいた。蛍光灯。北海道の形をした水染み。そしてそのさらに上に、顔。黒い髪ゴム。結んだ髪。
心臓が、あることをした。拍を飛ばしたと言いたいが、「飛ばした」では控えめすぎる。それは体から抜け出して、廊下を一周して、お土産を持って戻ってきた。
すごい。
すごい。すごいすごいすごいすごい。
彼女だ。アカリだ。走ってきたんだ。ぶつかってきた、俺を見つけた、Q.E.D.、証明は成立した、証明はずっと正しかった、彼女は覚えてる、ずっと覚えていた、彼女は――
二つの人生で一度も議論をやめなかった俺の脳みそが、小さなパレードを始めた。バイオリン。階段の窓から差し込む一筋の光、仕事をしている。
アニメで言う、あの場面だ。ヒロインが足をくじいて、ヒーローが抱き上げて保健室に運び、音楽が高まって、ライバルが隅から見ていて、タイトルカードが出る。
準備はできていた。顔もあった。第一章の五ページ目から、その顔を練習していた。
脳みその別の部分、家賃を払っている部分が言った。お前は三十四歳だ。
別の部分が言った。お前は十六歳だ。
別の部分が言った。彼女は十六歳で、お前は三十四歳で、この話はもうやっただろ、まともな人間になれ。
「大丈夫か――」最高の主人公の声で言いかけた。「足か? 抱えて――」
彼女が起き上がって、振り向いた。アカリじゃなかった。
当然だ。
細い顔。猫みたいに鋭い目。眉は、純粋な怒りのV字に寄せられていた。同じ黒い髪ゴム、無地の、まったく同じもの。宇宙の引き出しから出てきた、いちばん安上がりな小道具だ。口の端の近くにほくろ。彼女のどこにも、柔らかいところはなかった。角でできた女の子だった。
「痛っ――」彼女は言った。「痛い。目、見えないの?!」
「俺は――」
「前くらい見て歩けないの、歩くハンガー!?」
言葉を失った。本当に。三十四年分の素材があるのに、二日間で三度目、棚は空っぽだった。今回は悲しみとは何の関係もなかった。見知らぬ人に、これほど正確に侮辱された衝撃だった。
「足首は」彼女は、手すりにつかまって立ち上がりながら言った。「平気。もし触ったら、手を噛みちぎるから」
「触るつもりは――」
「見るな。私を。見るな」
彼女は、床のしみを見るみたいに俺を見下ろし、「チッ」と言って、去った。足音が、きびきびと、怒りながら遠ざかっていった。恨みを持ったメトロノームだ。
東階段の床に、しばらく寝転んでいた。誰にもおすすめしない場所だ。
ごめんだ。
絶対ごめんだ、と思った。今世でも来世でも、あんな女とは見ることも話すこともありませんように。この時間軸でも、他のどの時間軸でも。アーメン。
(宇宙が聞いていなかったと言いたい。聞いていた。笑いすぎて座り込んでいた)
起き上がった。手の横の床に、小さな折りたたまれたものがあった。ガラケー、かつてはピンク、今は傷だらけで、背面のカエルのキャラのシールが剥がれかけていた。
ごめんだ。
触らない。俺の信条に反する。俺をハンガー呼ばわりして、手を噛むと脅した女の子のものだ。触るのは、生きた電線を掴むようなものだ。立ち上がって、制服をはたいて、教室へ行く。彼女が自分で見つければいい。
拾い上げた。
ただ、窓枠に置くために。彼女が見つけられる場所に。
教室まで持っていった。
* * *
古文の授業というものは、実際に機能する唯一のタイムトラベルだ。最初の一分で目を閉じて、別の世紀で目を開ける。
先生は、助動詞を説明していた。その説明は、二つの人生で聞いた。最初の人生では、意地で落とした。二度目では、もう俺を知らない女の子に好かれるために正解した。多くの神秘が失われていた。
携帯は、ポケットの中にあった。重みがあった。道で拾って、もう手放せなくなった硬貨みたいに。
よし。開かない。
絶対に。
私物だ。十代の携帯。長方形の中の、人生まるごと。開けば、俺は、そういう種類の人間に――
五分後、手はポケットの中にあった。
説明させてほしい。説明すればするほど、悪く聞こえるのはわかっているが。
彼女は、俺をハンガー呼ばわりした。それに、見たところで何が起きる? 何も。俺は、彼女の父親でもおかしくない年齢だ。父親は、言い過ぎだ。おじさん。かっこいいおじさん。姪っ子がネットで無事か確認しているだけの、かっこいいおじさん。
歴史上のあらゆる気持ち悪い男が言ったことだ。
(リストの九番:自分のものでないものを開けない。書き留めていただろう。もし、リストが存在しない人生の寝室で真っ二つにされていなければ)
机の下で開いた。
写真。たくさん。友達の多い女の子らしい。コンビニで変顔をする女子の列。夕暮れの祭り、男子の集団、そのうちの一人が彼女の肩に腕を回していて、彼女はカメラマンに死を願っているような、でもフレームの中の全員を忠実に愛しているような顔で睨んでいる。昼ごはんの写真。猫。ぼやけた夕焼け。たくさんの何でもないもの。それは、たくさん生きているということだ。
普通。退屈。がっかり。空き巣が空き家にがっかりするみたいに。
よし。もういい。写真は見た。閉じられる。
親指が、受信箱に行った。
親指が勝手にやったと言いたい。違う。止められたはずの車の事故を眺める男の、あの冷めた落ち着きで、すべてが起きるのを見ていた。
スレッドの一覧。母親。何人かの友達。「返信するな」というタイトルのスレッド。カエルの顔文字が並んだだけのスレッド。そしてその間に、スレッドのない、名前もない、ただ見出しだけの一通。「転送:」
そしてその下に、二行。上下に。
アカリ:今日はありがとう。大好きだよ、ハルトくん。おやすみ。
ハルト:俺も大好きだ。
午後九時五十六分。
二秒。それだけだった。二秒間読んだだけで、すべての文字がわかった。全部押したのは、俺だからだ。九分。「す」だけで三回押した。「大好物」になっていないか、五回確認した。
そして、教室の底が抜けた。
「松本!」
携帯を、膝が机にぶつかるほど強く閉じた。三十一の頭が振り向いた。平安時代が、途中で止まった。先生は、黒板の前で、やり投げをする男みたいにチョークを握りしめて立っていた。
「それは携帯か?」
「いいえ」
「松本」
「……授業の補助教材です」
後ろの列のどこかで、誰かがぜいぜいと息をした。それは連鎖反応で、波になって広がった。三十一人が、「補助教材」と顔全体で言った少年を笑っていた。
「立て」
立った。顔:火事。耳:二つ目の火事。心臓:三つ目の、より小さな火事で、たった今見たものを理解しようとしていた。
「平安時代が太刀打ちできないほど魅力的なものが何なのか、クラスに教えてくれるかな?」
口を開いた。二つの人生の何も、これに備えてくれていなかった。
「お腹が」俺は言った。「トイレに行かなきゃ。緊急です」
(七章で三度目のトイレ逃避。俺は水回りがテーマの主人公だ。ブランドになってきた)
「我慢しなさい」
「無理です」
先生は俺を見た。俺は先生を見た。その間で、助動詞が待っていた。
「三分だ」先生は言った。「それと松本、もしまたそれを見たら――」
「見ません。これは――」その文をどう終えたかは、覚えていない。俺はもう教室を出ていた。
トイレには行かなかった。消火器のそばの廊下の曲がり角に行って、冷たいソーセージみたいな指で携帯を開いた。メッセージは、まだそこにあった。アカリ。ハルト。午後九時五十六分。
どうやって。
会ったこともない女の子が、起きなかった夜のメッセージを、どうして持っている? それは消えたはずだ。消えるのを見た。空の受信箱、たったひとつの連絡先、消えたにじみ。コピーはなかった。あの馬鹿野郎が、確実にそうした。それなら、どこから――
考えながら歩いていた。うつむいて。携帯を出して。メッセージの一番上までスクロールして、日付、送信者、名前、手がかりを確かめようとして――
手が、襟の後ろをつかんだ。
首輪の端の犬みたいに止まった。出た音は、どの辞書にも載っていない。
「携帯」
首をほんの少しだけ回した。襟が許したのは、それだけだった。
黒い髪ゴム。猫みたいな目。ほくろ。
彼女は、俺の教室に向かう途中だった。俺は、完璧な精度で、まっすぐ彼女のところへ戻ってきていた。
「どの――」俺は言いかけた。
「あんたの手から飛び出してる、カエルのついたやつ」
見た。カエルが、見返した。
後ろで、教室のドアが開いていた。いつも開いている。それがわかるのは、次の瞬間、三十一の頭が、前列も後列も、最初に笑った女子も、袖にまだ米粒をつけている男子も、全員が、とても馬鹿な太陽を追うヒマワリみたいに、椅子ごと振り向いたからだ。
「これ?」俺は言った。「これは――これは俺のだ。カエルをテーマにした――」
「あんたの携帯には、カエルがついてるの?」
「カエル派なんだ」
「なんで開いてるの?」
「返そうとしてたんだ!」
「私の教室から離れるほうに歩いてたでしょ」
「景色がいいんだ。遠回りなんだ」
「自分の教室からも離れてたでしょ」
「それは――あ――」頭は、三十四年分の蔵書を端から端まで探して、たった一冊の本を見つけた。タイトルは、『お願いです神様』。「落とし物係に届けようとしてたんだ。どこかにあるだろ、そういう場所が。それを探してたんだ」
「開いたでしょ」
「開いてない」
「ふたが、あったかい」
クラスが、三十一人が一斉に息を吸い込む音を立てた。誰かが「おおお」とささやいた。後ろの列の男子が、隣の席に口の形だけで言った。(携帯泥棒)
彼女は、手を差し出した。手のひらを上に。平らに。完全に静止して。
「今すぐ」
腎臓だって渡しただろう。携帯を渡した。
彼女は、確認するために開いた。親指が画面に触れるのが見えた。画面は、俺が一番上に残したメッセージを開いたままだった。そして、彼女が最後の行を読むのが見えた。
二つの人生で、たくさんの顔を見てきた。大家。上司。ハゲ。テーブルで問題を解いて、負けた女の子。睨みが、こんなふうに顔から滑り落ちるのを見たのは、初めてだった。一瞬、角でできた女の子には、角が全部なかった。小さく見えた。暗闇で何かの形を見て、それが自分を見たかどうか考えている人みたいに。
彼女は、携帯をパチンと閉じた。
「何を見たの?」
「カエル」俺は言った。「ほとんどカエル」
彼女は、俺を見た。長い視線。一秒だけ長すぎた。
それから、角が一斉に戻ってきて、彼女は襟を離し、二回鋭く引っ張って整えた。とてもがっかりな子供を片づけ終えた母親みたいに。
「イバラ・ナツキ」彼女は言った。「二年A組。覚えておきなさい。謝るとき、名前を間違えないように」
「松本」俺は弱々しく言った。「ハルト」
「訊いてない」
彼女は去った。髪ゴムが揺れた。廊下はそれを見送って、それから俺を見て、クラス全体が一斉に笑った。
先生の声が、中から、乾いた咳みたいに切り込んできた。
「松本。席に着け」
教室に戻った。誰も見なかった。床を見て、それから最前列を見た。そこで、一人の少年が、俺に顔を見られないように、とても丁寧に、反対側へ首を向けていた。
芸術だ、と気づいた。シオンは、一度も見ていなかったと誓いたくなるほど丁寧に、目をそらすことができる。
座った。耳はまだ燃えていた。ポケットの中の手は空っぽで、生まれて初めて、他人の携帯の重みが恋しかった。
アカリ:今日はありがとう。
ハルト:俺も大好きだ。
どうやって?




