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第11話 小さな変化(後編)―四つのお辞儀と開いた扉― 【挿絵あり】

六時。


狭い通りの突き当たりの、小さな灰色の家。腰までの高さの門と、持ち主が明らかに愛している庭の細い一画がある類の家。プラスチックの植木鉢。じょうろ。そして門のそばに、自転車。


スタンドを立てて、まっすぐに立っていた。前にカゴ。ハンドルに小さな銀のベル。


俺は、あの自転車が、水たまりに横倒しになって、後輪がまだゆっくり回って、そばに口の開いたカバンがあるのを見たことがあった。存在しない人生で、その朝いちばんに目にしたもので、見なかったことにはできないものだった。


今は、まだ誰も守らなくていい約束みたいに、夕方の光の中に立っていた。


「ハルト」


母さんは、俺の一歩前にいた。一番いい上着、三回も付け直したボタンのついたベージュのやつ。スーパーのベストは脱いでいた。ドアの前に立つ前に、着替える母さんを見たのは初めてだった。手は、体の横にあった。拳じゃない。何でもなかった。それが、もっとひどかった。


「いい?」


「だめ」


「よかった。誰だって、いいはずがないもの」母さんは、ベルを押した。


ドアが開いた。


小柄で疲れた女の人が、薄いお茶の色のカーディガンを着て、アカリの目をして立っていた。形じゃない。目の見つめ方だ。まっすぐに、問題を読むみたいに。


彼女はお辞儀をした。母さんもお辞儀をした。もう一度お辞儀をした。戸口で、お互いにお辞儀をし合う二人の母親。一度、見たことがある。病院の廊下で、きれいに洗い流された人生で。あのときは、感謝の競争だった。今は、先に謝る競争だ。


「こんな時間に伺って、ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」母さんが切り出した。「すべて、私の責任です。私がもっときちんと見ていれば――」


「母さん」


袖に触れた。


どちらの人生でも、やったことがなかった。綿は、ざらざらして、すり切れていた。母さんは、言葉の途中で止まって、俺を見た。その顔には、最初はわからない何かがあった。驚き、そしてその下に、あるはずのない段を踏んだ人みたいな何か。


「いい?」俺は言った。


母さんは、答えなかった。丸三秒、俺を見た。それから一歩下がって、半歩横にずれた。俺が前に立つように。


アカリの母親が、俺を見た。


何を言うか、四時間練習した。スピーチがあった。主張と、三つの裏づけがあった。そこに立つと、そのすべては蒸発して、残ったのは、母さんが台所で俺の手に置いたものだった。


『名前を名乗るの。そして、待つの』


「松本ハルトと申します」俺は言った。「アカリさんと同じ学校の、二年生です」


息。


「昨日、お嬢さんを怖がらせました。手を取って、離さず、言う権利のないことを言いました。お嬢さんは、やめてほしいと言ったのに、俺はやめませんでした。本当に、申し訳ありません」


お辞儀をした。


挿絵(By みてみん)


礼儀正しいお辞儀じゃない。三者面談の、机にぶつかりそうなほど深かったお辞儀ですらなかった。一番下まで下げた。背中を平らにして、手を膝に置いて、玄関の段が見えるまで。コンクリートの一段、角が欠けて、割れ目に少し苔がある。


そして、待った。


一。


二。


数えた。どうしようもない。過ぎる一秒一秒が、一人の女の人が決めている一秒だった。


七。八。


自分の息が、大きく聞こえた。冷蔵庫が、頭の中でまた動き出した。低く、一定の、空っぽの家のうなり。そして思った。だめだ。今は。お願いだ。これを聞かせてくれ。


九。


隣に、靴があった。母さんの。茶色で、かかとがすり減って、左のつま先は、少し違う茶色で継ぎが当たっている。母さんの靴なんて、見たことがなかった。天井を、クッションを、母さんの背中を見てきた。どちらの人生でも、靴だけは見ていなかった。


その靴で、スーパーまで歩いた。二つ目の仕事まで、その靴で。教室へ、病院へ、誰かが頭を下げる人間を必要とした、すべての部屋へ。


十。


「俺の母は」俺は、まだ段を見つめたまま言った。「四つの違う部屋で、俺のために頭を下げてきました。数えました。この部屋は、自分でやらせてください」


隣で、母さんが息を止めた。


とても小さな音だった。小さな、鋭い息の吸い込み。足を下ろしたら、そこに階段があった人の音。


十一。


「顔を上げなさい」アカリの母親が言った。


上げた。


彼女は、俺を見ていた。怒ってもいない。許してもいない。アカリが問題を見るように、俺を見ていた。辛抱強く、首を数度かしげて、合わない箇所を探して。


「昨日の夜、帰ってきて、食べなかったの」彼女は言った。「アカリは、いつも食べるのに」


「わかっています。すみません」


「あの子は、私が訊く前に、あなたのことを話したわ。隠しごとをしない子だから。あの子はこう言ったの……」口の端が動いた。「『あの人、溺れてるみたいだったよ、お母さん』って」


ぴたりと動きを止めた。


体のすべてが、ゆっくりと、足元から冷えていった。運河に水が満ちるみたいに。


「あなたに何があったのかは、知りません。知る必要もない。でも、わかってほしいことがあります。一度しか言いません」彼女は手を組んだ。その手は安定していなかった。「見知らぬ人が私の子を掴んで離さないとき、私が感じるのは、怒りじゃないの。冷たさなの。手から始まる。母親は誰でも、それを感じた回数のリストを持っているわ。私は、自分のを短いままにしておきたいの」


「わかります」母さんが、静かに言った。


ベルを押してから、母さんが初めて口にした言葉だった。二人の女の人が、俺の頭越しに見つめ合い、言葉の要らない何かが行き来した。リストだと思う。回数のリスト、そして手の同じ冷たさ。


「あの子は、あなたが運河のことを知っていたと言っていたわ」アカリの母親は、俺に言った。「それから、カモのことも」


来た。


「私は百回、道路のほうを通りなさいと言ってきたの」彼女は言った。「運河沿いの道は安全じゃない。明かりもないし、手すりは錆びているし、そのうちいつか、水が……毎週言ってるの。あの子は、カモがいるからって言うのよ」


口を開いた。


三か月。はしご。「チン」と鳴る段。黄色いレインコートの少年。


(小さな変化。正史は編集するな。電線には触れるな)


「……心配されるのは、いいことだと思います」俺は言った。


それだけだった。それだけ言った。


喉から出た音を説明したいが、音はなかった。玄関先に立って、目の前には鍵のかかった扉みたいな母親の恐怖があって、ポケットには正確な日付があって、そして俺は、待合室で天気の話をする男みたいに、「心配されるのは、いいことだと思います」と言った。


「あの子に、また迷惑をかけるつもり?」


「いいえ」俺は言った。「あの子が頼まない限りは」


「頼んだら?」


「そのときは、もう一度名前を名乗ります。そして、待ちます」


彼女は、長いこと俺を観察した。


「この子、自分で言ったのよ」彼女は、母さんのほうを向いて言った。「言われもしないのに。あなたが教えたの?」


母さんの喉が動いた。「努力しました」母さんは言った。「十六年間」


「効果があったようね」


「今日」母さんは言って、声が真ん中で割れ、残りをこらえるために唇を結んだ。「今日、効果があったようです」


玄関の段を見た。欠けた角。割れ目の苔。


俺は三十四歳だった。大家に、上司に、コインを食べた自動販売機に謝ったことがある。金や時間では直せないことで、謝ったことは、一度もなかった。


それは、叩かれるのとまったく同じ感触だった。


ただ、今回は、誰もそれを代わりにやってはくれなかった。自分でやったのだ。


「来てくれて、ありがとう」アカリの母親は言って、お辞儀をした。小さな、礼儀正しい、ほんの少し開けたままの扉のような。「それだけよ」


俺たちは、帰ろうとした。門のところで、一度だけ振り返った。二階。窓。カーテンが動いた。


一度。


二度。


トン、トン。それは数に入ると決めた。


* * *


母さんは、前を歩いた。


遠くじゃない。一歩、それから二歩。街灯の下の、ベージュの上着。俺は、背中の読み方を覚えた相手についていくように、ついていった。


コンビニの前を過ぎた。シャッターの閉まった自転車屋の前を。いつも猫が寝ている塀のそば、今夜は空っぽの。


母さんは、止まった。


振り向かなかった。空っぽの塀を、長いこと見つめて立っていた。俺も、母さんがいつも俺の後ろを歩いていたみたいに、一歩後ろで止まった。


「まだ、怒ってるわ」母さんは言った。


「わかってる」


「怒っていいでしょう」


「いいよ」間。「好きなだけ、怒っていい」


母さんは、塀に向かって一度うなずいた。


「名前を、名乗ったわね」母さんは言った。


「そして、待った」


沈黙。車が一台通り過ぎた。街灯が、ジージーと鳴った。


「ん」母さんは言った。


俺の口癖。まさにこの道で、百年前に、存在しない人生で、母さんに渡したあの言葉。母さんは、それを静かに、塀に向かって、俺に背中を向けて言った。許しじゃなかった。窓にともされた明かりでもなかった。


でも、母さんはまた歩き出した。そして自転車屋のところで、歩調が遅くなった。ほんの半歩。それでも、数えていれば、そして俺は数えていたのだが、二人の間の距離が、人ひとり分の幅だけ縮まったのがわかった。


鼻歌は、なし。まだ。


でも、ここまで待ったのだ。曲くらい、待てる。


* * *


その夜、計算した。


もちろんだ。それが俺の唯一の趣味だ。そしてそれは悪い問題だった。穴のある問題で、その穴は、携帯にカエルをつけた女の子の形をしていた。


条件:消えた時間軸の、午後九時四十七分の、女の子から男の子へのメッセージ。九時五十六分の返信。転送された。保存された。どちらにも会ったことのない、二年A組の見知らぬ人の受信箱の中で、生きている。


求めよ:どうやって。


仮説一:イバラ・ナツキが、インポスターだ。彼女は二度目の人生を持っている。すべてを覚えていて、最初の朝から俺を見ていて、ハンガー呼ばわりは、賞に値するほど出来のいい演技だった。


……ただし。彼女は、あの画面を見て、小さくなった。計画していた人間なら、ひるまなかっただろう。


仮説二:メッセージは、彼女に転送された。アカリがあの夜、削除された人生で、親友に送って、どういうわけか、そのコピーが生き残った。


……ただし、他のものは何も残らなかった。俺の受信箱。俺の指の関節。金色の額縁。すべてが消えた。にじみまで。なぜ彼女なんだ? なぜあれなんだ?


仮説三:その携帯は、呪われている。


仮説三は、即座に却下した。呪われたカエルを扱う装備は、俺にはない。


寝返りを打った。また打った。乾いたほうを上にして枕を殴った。昨夜は味わえなかった贅沢だ。そして思った。(証明が閉じないなんて、よくも)。苛立ちが、何の飾りもないありふれた形で、脚の生えた何かみたいに、腕の上を行ったり来たりした。Q.E.D.はあった。手の中にあった。そしてそれは、ほくろとV字の眉をした女の子に取って代わられて、俺はそれが気に入らなかった。まったく気に入らなかった。


眠ろうとした。


眠れなかった。


一時十分。一時四十分。二時あたりで諦めて、ベッドから出て、ポスターの二つの半分を拾い上げた。


昨日からそこに転がっていた。机の上に並べて置き、引き出しからテープの巻きを見つけた。百円ショップの、黄ばみかけた安いやつ。破れ目に沿って、一片ずつ押さえていくと、やがて長い傷が彼女の顔を横切り、彼女は一枚に戻った。


彼女は、小さな絵の具の笑みを浮かべた。その真ん中に、ひびが入ったまま。


部屋のほうを向けて貼った。


「そんな目で見るなよ」俺は言った。でも、柔らかく言った。「俺が悪いんだ」


彼女は、もう十分すぎるほど耐えた。棚だってそうだ。マンガを一列ずつ積み直した。母さんが決して見てはいけなかった二列目は、段ボール箱に入れて、その箱をベッドの下に入れた。隠したんじゃない。ただ、しまった。


『あいつは、きっと家でテープで貼り直しただろう』と、一度、ある少年と青いノートについて思ったことがある。確かめなかった。


さて。これで、テープのどちら側に自分がいるのか、わかった。


ベッドに戻った。携帯を開いた。アカリへのメッセージを、普通は爆発物の解体にだけ向けられる注意深さで書いた。


遅くにごめん。メッセージをくれたお礼が言いたくて。おやすみ、アカリさん。


十四分。「大好物」になっていないか、六回確認した。


送信。


胸に携帯をのせて、横になっていた。頭の上には天井。ドアの下には、通りの光が入り込む細い帯。


何もない。


ガラケーは、既読かどうかを教えてくれない。小さな言葉もない。ただ、小さな封筒が閉じて、その後の沈黙。


彼女は、返信しないだろう。当然だ。午前二時過ぎだった。眠っている。あるいは天井を見つめて、俺がストーカーかどうか考えている。あるいは――


その文は、終わらせなかった。


小さな変化、と思った。入力の小さな揺れ。出力の小さな揺れ。


なら、なぜ出力が震えているように感じるんだ?


どこかでファンがきしんだ。階下から、床板が答えた。家が、年老いた犬みたいに、俺の周りで落ち着いた。


目を閉じた。


* * *


白。


匂いでわかるみたいに、わかった。


壁はない。地平線もない。風もなく、音もなく、俺のことをまったく気にかけない冷たい床。起き上がって、見下ろして、確認した。


素っ裸。また。


「虚無で全裸」俺は、何もない空間に言った。「また。もう、ドレスコードなんじゃないかと疑い始めてる」


何もない。にやけ笑いもない。面白がって傾けるハゲ頭もない。ノックもない。


待った。ゆっくりと円を描いて回った。必要な部分を片手で隠して、マナーのない声と、歯のない笑みに備えて。


誰もいない。


ただ白だけが、上にも下にも続いていた。そして、少し離れたところに、壁にも支えられず、フレームにもたれることもなく、一人で立っていた。


扉。


簡素。木製。学校の廊下の突き当たりにあるようなもので、ドアノブの周りが少し擦り切れている。歯茎から生えた歯のように、何もない中に立っていた。


開いていた。


ほんの少し。手の幅ほど。そしてその隙間から、白い床を横切る細長い帯になって、光が出ていた。


黄色。温かい。ありふれた。飾り気のない。ランプだけが残された、午前一時五十二分の台所の色。


一歩、近づいた。


十歩。百歩。数えた。どうしようもない。扉は同じ距離のままで、光の帯は同じ幅のままだった。俺が来ると知っていた誰かが敷いた道みたいに。


止まった。


心臓が、何かをしていた。階段を踏み外すやつじゃない。別のもの。もっとゆっくりした。もっと古い。


前のとき、俺は自分でランプをつけた。


今回は、誰かが、俺のために一つ残しておいてくれた。


それが慰めなのか脅威なのか、わからなかった。この場所での経験上、たいていは両方だった。


挿絵(By みてみん)

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