第8話 俺も(後編)―黒い銃口と巻き戻された朝― 【挿絵あり】
白。
目を開ける前に、わかった。匂いを知っているみたいに、わかった。風もなく、音もなく、俺のことをまったく気にかけない冷たい床。
起き上がった。
「……おいおい、冗談だろ」
壁はない。地平線もない。窓もない。お菓子もない。上までも下までも続く白。
自分を見た。
素っ裸。また。
「また?」俺は、何もない空間に言った。「虚無で全裸、まただぞ。誰か俺のマネージャーに伝えてくれ」
よし。ルール一:あそこを隠す……おう。隠した。よし。全部ついている、燃えてもいない。ルール二:最悪を想定しろ。
で、何が起きた?
最後に覚えているのは、胸に携帯を置いてベッドにいたこと。母さんの鼻歌。女の子に俺も大好きだと言って、眠ったこと。
寝ている間に死んだのか?
幸せで?
地元の少年、愛されすぎて死亡。死因:過剰。検視官曰く:「ついに前例ができた」。
待て。そもそも、二回死ねるのか? 契約書に書いてあるのか?
そこに立って、真剣に考えているうちに、怖くないことに気づいた。それが一番変だった。むしろ少し、恥ずかしかった。二度と戻らないと誓った部屋に戻ってしまった男みたいに。
だから、唯一の合理的なことをした。
振り向いて、拳を上げ、何もない空間をノックした。
コン、コン。
何もない。
コン、コン、コン。
「お——い? 誰かいるかー? ルームサービス? 支配人を呼んでくれ。できれば、ハゲで無性別のやつを。お兄さん! お姉さん! お兄さん兼お姉さん! のっぺらぼう! ナニなし!」
「私は『それ』と呼ばれるのが好みだよ」後ろから声がした。
振り向いた。
そこに、いた。同じつるりとした、特徴のない頭。同じ、『俺がここで一番のクソ野郎だぞ』と言いたげなにやけ笑い。同じ、眉毛のなさ、そして人間が見たがりそうな、あらゆるもののなさ。
両手を組んで立っていて、少し面白がっていた。授業にこっそり戻ってきた生徒を見つけた、教師みたいに。
「松本ハルト」そいつは言った。
「それはお約束が違うだろ。ノックしたら、『誰?』って返すんだよ」
「ノックのお約束くらい、知っているよ」
「なら、ちゃんとやれ」
「誰?」
「……続き、忘れた」
「だろうね」
(気味の悪いハゲの変態)と、完全に習慣で思った。
「聞こえているよ」とそいつは言った。
「知ってる。だから思ったんだ」
俺たちは、見つめ合った。数秒間、どちらも何も言わなかった。それから俺は、頭の中で三百回は計画していて、実際にやるとは思っていなかったことをした。
お辞儀をした。
きちんとしたやつを。背中を平らに、完璧な角度で額を。(片手はまだ隠していたが、意味はわかるだろう。)
「ありがとう」
そいつは、動かなかった。
「ありがとう。本気で。虚無の中、全裸でお辞儀してるんだ。この犠牲を、評価してくれ」
そいつは、長いこと俺を見つめた。
そして、笑った。
猫の笑みじゃない。嘲笑でもない。本物の笑い。短く驚いたような吠え声、それからもうひとつ、それから、ラジオがようやく電波をつかんだみたいに、笑いの流れが続いた。
「どうして」そいつは、目があるはずの場所を拭いながら言った。「私に礼を言うんだい?」
「あんたが、正しかったから」
「何について?」
「全部だ」俺は背筋を伸ばした。「剣もなし。システムもなし。チートスキルもなし。あんたの言うとおりだった。俺がもらったのは、もっとひどいものだ」
止まった。頭をかいた。
この部分は、練習した。シャワーの中で。暗闇で。いい出だしまであった。それは頭から抜け落ちた。
「調子外れの鼻歌を歌って、ガソリンスタンドで泣く母さんをもらった。七文字を言うために、一年自販機に立っていた奴をもらった。物理の問題で告白する女の子をもらった」俺は唾を飲んだ。「俺は、嫁を百人くれと頼んだ。あんたは、俺が本当に必要としていた三人をくれた」
笑いは、消えた。
「異世界より、ずっといいよ」俺は言った。「正直な。剣は、持っていていい」
沈黙。
そいつは、長いこと俺を見ていた。そして、その顔に、何かが起きた。猫の笑みじゃない。にやけ笑いでもない。ほとんど人間みたいに見える笑みで、口の端が柔らかくて、一瞬、本当にこいつに届いたのかもしれないと思った。
それは、もっと悪かった。ずっと悪かった。
「そう急ぐな、ハルト」そいつは言った。
足の下で、床がさらに冷たくなるのを感じた。
「……何だよ」
「君は、時間軸をひとつ変えた」
「は?」
「私は、君に二度目の人生を与えた。貸し付けだよ、ハルト。贈り物じゃない。条件は単純だった。前に向かって生きる。同じ選択をする。半秒遅れて感じる」笑みは、消えていた。「変えろとは、言っていない」
「でも、あんたは——」
「感じるとは言った。書き換えられるとは、言っていない」そいつは首をかしげた。「私は寛大だ。体を与えた。母親を与えた。二番目の扉を与えた。でも、そこまで寛大じゃない。二度目の人生と、二度目の運命を両方与えることはしない」
「どの時間軸だよ?」俺は笑った。変な笑いになった。「俺は何も変えてない。女の子を助けた。勉強した。おはようを言って——」
止まった。
だって、わかっていたからだ。
はしごの上で、彼女の手首を握り、頭の中で九月の廊下が再生されていたとき、わかっていた。「シオンくんが見つけたの」。聞いていた。小さな声に、座っていろと言った。ボーナスステージみたいに扱った。請求書だとは、一度も。
そして、ピースがひとつずつ入ってきた。どれも、逆向きに。校門で耳まで赤くなったアカリ。「私ね、シオンくんに気持ちを伝えたの」。自販機の前で、ぬるい、封の切られていないコーラを握る少年。「寝坊しちゃった」。釘にかけた絵みたいに固定された笑顔。
前のとき、今夜、彼女はそれをあいつに言った。
今夜、彼女は、それを俺に言った。
そしてあいつは、「行って、行って、よろしく言っといて」と言った。
「ああ」と俺は言った。
「そこだ」そいつは、静かに言った。「半秒遅れ。ちょうど、時間どおりだ」
「いや、待て。それは——シオンは本来——俺は何も奪ってない、ただ——」
「すべての扉には、代償がある、ハルト」そいつは、片手を上げた。「君は、前の扉の代償を誰が払ったのかを、一度も訊かなかっただけだ」
そいつの手の中に、何かがあった。
現れるところは、見えなかった。ただ、そこにあった。小さくて。黒くて。飾り気がない。光りも、うなりもせず、何も劇的なことをしなかった。それが一番ひどかった。台所の引き出しにありそうなものに見えた。
「……それ、銃か?」
「ああ」
「虚無で? どこにしまってたんだよ? ポケットもないくせに。あんたには——」
「ハルト」
「はい。すみません。怖いと、変になるんだ」
そいつは、銃を構えた。
見る前に、感じた。額の真ん中に、小さくて冷たい輪が当たった。硬貨が冷たいみたいに。
「おい、待て。待て、待て、待て。死んでるのはわかってる。それはわかってる。でも、笑えないぞ。二度目は死ねない。もう死んでるんだ! 一事不再理だ! 弁護士を呼べ。ここに弁護士はいるのか? 労働組合は? 誰に相談すりゃいいんだ?」
「相談することになるよ」そいつは言った。
「は?」
「なる」
ジョークがひとつも思いつかなかった。
「待て」俺は言った。声は小さく高くなって、十六歳の、甲高くてかすれた声になっていた。「待て、待て、せめて、シオンが——」
「さよなら、ハルト」
カチリ。
最初のときとは違う。最初のときは、引っ張った。今回は粉々に砕けた。あらゆる場所で同時に、悲鳴が窓を割るみたいに。白が白の中に流れ込んだ。落ちていくのは俺なのか、白なのか、それともどちらでもないのか、わからなかった。
そしてその中のどこかで、小さく遠くで、コーラを持った少年が、「一緒に帰らない?」と言っていた。
* * *
黄色い光。
ありふれた、飾り気のない、黄色い光。カーテンの隙間から差し込む。
そして廊下から、声。
「ハルト、起きなさい」
俺は動かなかった。
目を閉じたまま、胸を上下させて横たわり、最初に思ったのは、ハ。だった。
ハ。ハ。ハ。
よし。ハッタリだ。
あのハゲは、俺をからかっていたんだ。銃? 虚無で? 勘弁してくれ。劇的な間、冷たい輪、なるほど。可愛いもんだ。雰囲気、十点満点。あの男には、そういう才能がある。
ため息をついて、微笑んで、両腕を頭の上に伸ばした。
両腕。
右腕は、まったく痛みなく上がった。
へえ。三角巾はなし。治ったんだな。時間は経ったし。俺は治りが早い。
頭の後ろで手を組んで横になり、いい考えを中に入れた。
今日は、新学期の初日だった。校門まで歩く。彼女がいて、三本のペンと、髪ゴムと、紙袋を持っている。「ハルトくん!」と彼女が言って、俺は無事なほうの腕で彼女のカバンを持つ。二人でメロンパンを分けて、彼女のほうが大きい。そして坂の下には、コーラを持った少年がいて、俺は時間どおりに着いて、おはようを先に言う。そして明日も、それをもう一度言う。
四百何回目。
天井に向かって微笑み続けていて、そこで天井に気づいた。
ファンが回っていた。ゆっくり。一周ごとにきしみながら。
左を見た。
マンガの棚。二列。シーツはなし。
壁を見た。
ピンクのツインテールの少女が、自分の体より大きな剣を持って、小さな絵の具の笑みを浮かべたまま、俺を見下ろしていた。部屋のほうを向いて。
起き上がった。
机。一番下の引き出しが、一センチ開いていた。引っ張り出した。半分空の飴の袋。壊れた消しゴム。端が噛み潰された鉛筆。
猫のノートはない。
ガラケーを手に取った。親指は、道を知っていた。受信箱。
空。
送信済み。
空。
連絡先。
名前がひとつ。母さん。
それだけだった。連絡先は、ひとつ。携帯は、何もかも知っている者の哀れみを浮かべて、俺を見上げていた。
笑った。乾いた笑いだった。
「おかしいな。すごくおかしい」
ファンが、きしんだ。
立ち上がった。足がふらついた。生まれたての子鹿。机まで歩いて、振り向いて、壁を見上げた。
カレンダー。
近所の店でもらう、無料のやつ。マス目は、小さく、斜めの、急いだ字でいっぱいだった。「三者面談 十五時」。
「ハルト テスト!!」
横に、小さな星。
そしてその下に、別のペンで、シフトの列。やたらと多い。
今日は、赤で丸がしてあった。
長いこと、そこに立っていた。
階下で、フライパンがコンロの上でカチャンと鳴った。誰かが鼻歌を歌った。調子外れで。同じメロディ。
「ハルト!」母さんが、階段の下から呼んだ。「もう三回目は呼ばないからね!」
俺は、答えなかった。
天井のファンが、きしんだ。同じきしみ。同じ周回。ぐるぐる回って、どこにも行かない。
俺は、今朝の時点で俺の名前を一度も聞いたことのない女の子に、「俺も大好きだ」と言ったのだ。




