第6話 俺も(前編)―三角巾のカモと四十日の夏―
誰かを救うことについて、誰も教えてくれないことがある。待ち時間だ。
アニメなら、モンタージュが流れる。包帯、劇的な看護師、窓辺で揺れるカーテン。俺が手に入れたのは、プラスチックの椅子と、お茶しか売っていない自動販売機と、手洗いを呼びかけるポスターを四十分見つめる時間だった。
コーラのない病院。シオンなら絶望しただろう。
まず男の子が診察を受けた。次にアカリ。それから俺。ひどく疲れた目をした医者が、俺の右腕を、俺が承認していないいくつもの方向に曲げて、俺は後で否定するつもりの言葉をいくつか口にした。
「捻挫だね」医者は言った。「ひどいやつ。骨折はなし。三角巾で一週間、重いものは持たないこと」
「重いものは?」
「何も」
「じゃあ——」
「何も」
最高だ。俺の右腕は、正式に引退した。これからは左腕で生きていかなければならない。二つの人生を通して、ラーメンしか持ったことのない腕で。
母さんには、メッセージを送ると約束していた。
だからガラケーを開いて、左手の親指で、一文字ずつ連打しながら打ち始めた。スプーンで爆弾を解体する男みたいに。
無事。病院にいる。軽いケガ。慌てるな。
十五文字。十一分。送信を押して、そこで初めて、俺が言語史上で最もパニックを誘う文章を書いたことに気づいた。
慌てるな。母親を落ち着かせる方法として、これ以上の特効薬はない。
返信はなかった。ただ、数分後に、病院の正面玄関が勢いよく開く音がした。
母さんが走ってきた。
まだ制服のベストのままで。髪は結び目から半分ほどけて。口の開いたカバンから、長い青ネギが旗みたいに突き出している。スーパーから直接来たらしく、そのネギを置いてこいと言ってやる人は、誰もいなかったようだ。
母さんは、廊下の真ん中で立ち止まった。目が、三角巾に行った。ずぶ濡れの服に。すりむけた手のひらに。俺の顔に。もう一度、三角巾に。
「……ハルト」
怒鳴られる覚悟はしていた。弁明も、全部用意してあった。俺は、完璧な事案を抱えた弁護士で、裁判官がいなかった。
母さんは、怒鳴らなかった。
母さんは、四歩で廊下を横切って、両腕で俺を胸に引き寄せた。肩を気遣ったのは、ちょうど一秒だけで、それから、まったく気遣わなくなった。スーパーと雨の匂いがした。心臓があまりに速く打っていて、耳に当たって聞こえた。
誰も何も言わなかった。看護師が通りかかり、歩みを緩め、自分の出る幕ではないと判断して、足を速めた。
これにも、用意したジョークがあった。それは蒸発した。
「メッセージを送るって、言ったでしょ」母さんは、俺の髪に向かって言った。
「送ったよ」
「四時間後に」
「送るって言った。いつとは言ってない」
母さんは笑った。濡れた、震える、ひどい笑い。それから体を離して、両手で俺の顔を挟み、長いこと見つめた。確認して。数えて。お釣りを二回数えるみたいに。
「傘は?」
「大義のために殉職した」
「よかった」母さんは言った。「ダサかったもの」
それから、俺を叩いた。無事なほうの腕を。軽く、鈴をはじくみたいに。
「二度とやらないで」
考えた。本当に考えた。母さんには、正直でいる義務がある。卵焼きのあたりで、母さんに嘘をつくのはやめたのだ。
「約束はできない」俺は言った。「でも、先にメッセージを送るとは約束できる」
母さんは、俺を見つめた。それからもう一度ハグした。今度は短く。そして俺の無事なほうの肩に向かって「馬鹿」と言った。翻訳は、要らなかった。
しばらくして、一人の女の人が廊下を歩いてきた。隣にはアカリ。まだ残り物みたいにアルミのブランケットにくるまれている。彼女の母親だった。俺たちの前で立ち止まって、お辞儀をした。
母さんも、お辞儀を返した。
それからまた、お辞儀をした。母さんは、さらに深く、もう一度お辞儀をした。二人は続けた。どちらも負けなかった。病院の廊下で、お互いにお辞儀をし合う二人の母親。誰も申し込んでいないシンクロナイズドスイミングの大会みたいに。
「娘を助けてくださって、本当に——」
「いえいえ、こちらこそ、ありがとうございます、娘さんが無事で、本当に——」
「どうか、お受け取りください——」
「いえ、そんな、本当に——」
アカリを見た。アカリも俺を見た。彼女は口の形だけで言った。止めて。
俺は口の形だけで言った。腕が、一本しかない。
彼女は、笑いを隠すためにアルミに顔を埋めた。それがあまりに大きく音を立てたので、二人の母親が振り返り、彼女は咳をしていたふりをした。
その場で決めた。これは、史上最高のアルミのブランケットだ。
* * *
地元の新聞が取り上げたのは、二日後だった。
七面。迷い猫の記事の下、新しい駐車場の記事の上。「高校生、運河の少女と幼児を救助」。四行。ぼやけた運河の写真。俺の名前は、字が違っていた。「陽斗」と印刷されていたのだ。それがかえってしっくりきた。何年も、自分の名前を間違え続けてきたのだ。
新聞は、隠した。当然だ。
母さんは、それを見つけた。当然だ。
翌朝には、台所の外の廊下に、額縁がかかっていた。本物の額縁。金色。百円ショップの金色、剥げるやつだ。そしてその中に、それまで何も飾られたことのなかった壁の真ん中に、俺の四行があった。
「外して」
「いや」
「母さん」
「額縁くらい飾ってもいいでしょ」
「私にも顔くらいあるでしょう」と同じ理屈だ。母さんは、自分にも色々なものを持つ権利があると発見したらしく、リストを順番にこなしていた。
続いて、スイカが来た。
丸ごとひとつ。幼児ほどの大きさ。男の子の母親が届けに来て、玄関先で四分間ぶっ通しでお辞儀を続け、神聖な供物みたいに両手でスイカを差し出して、止められる前に逃げ去った。運ぶのは母さんと俺ということになったが、実際に運んだのは母さんだった。俺は何も持つなと言われていたからだ。聞いたところでは、持とうと考えることも含めて。
一週間、スイカを食べ続けた。五日目には、寝ているときにも聞こえた。
そして、アカリが見舞いに来た。三本のペンを持って。
彼女は俺のベッドの端に座り(女の子がそうしたのは初めてで、俺は死にかけた。俺の前歴を考えれば、いかにも俺らしい死に方だっただろう)、俺の三角巾を両手で取って、サインした。
赤:英雄(公認)。
青:重いものは持たないこと。
緑:アカリ。
そして一番下に、小さな字で、カモの絵。失礼なほうの。
「いいカモだな」俺は言った。
「練習したの」
「これ、ずっと腕に残るのか?」
「一週間だけ」彼女は言った。「そのあとは、心に残るの」
天井のファンが、きしんだ。
「ごめん」アカリは言って、両手で顔を全部覆った。「頭の中では、もっとよかったの」
「……いいよ」
「忘れて。お願い」
「もう消えた」
俺は、それを忘れなかった。ノートには書かなかった。ごく小さなノミで、頭蓋骨に彫り込んだ。
* * *
四十日。
その数字は知っている。前と同じ数字だ。違う物語。
前の俺は、四十日間、アイスコーヒーを前にカフェに座って、ドアを見ていた。今回はそのドアが開いて、彼女が入ってきて、俺は正しいテーブルに座っていた。
彼女が、ランチを奢ると言い張った。「——せめてものお礼だから」
「いいよ、そんな」
「ハルトくん。私が奢るの」
そういうわけで、そこにいた。駅前のカフェ。暖簾がかかっていて、店主が誰にでも古い友達みたいに大声で挨拶する店。入ると、店主が「いらっしゃいませ!!」と叫び、ウェイターが振り向いた。
知っていた。あのウェイターは、どこで見てもわかる。あの男は、二十日目に、何も言わずに俺の肩を叩いた。葬式の参列者みたいに。
彼は俺を見た。アカリを見た。カモの絵がついた三角巾を見た。
そして彼の顔は、見たことのないことをした。葬式が今まさに中止になった男の顔だった。
「お二人様ですか?」彼は、静かに言った。目元を拭わなければならなかったに違いない。
「お願いします」
「いつものでよろしいですか?」
「俺……」俺は言った。「ここには、来たことないんですけど」
「ああ、そうでした。失礼」彼は、長い、困惑した目で俺を見た。「ただ、アイスコーヒーを頼む人の顔をしておられたもので」
「長い話なんです」
「そうでない話なんて、ありませんよ」彼は賢そうに言って、窓際の席に案内してくれた。
窓際の席。前の人生で、彼女がくしゃくしゃのテスト用紙の前で泣いていた席だ。今回は、ただ髪ゴムをつけた女の子で、舌を歯の間に挟みながらメニューを読んでいた。
彼女は、カツカレーを頼んだ。
「同じで」と俺は言った。
なぜなら俺は、先を見通す男で、絶対に何も学んでいなかったからだ。皿が来たとき、俺には作戦があった。皿を、左に三センチずらした。フォークを構えた。俺のエビフライは、要塞化されていた。
彼女が手を伸ばした。
受け流した。
彼女がフェイントをかけた。もう一度受け流した。
彼女が俺を見つめた。俺も見つめ返した。長い時間、歴史に残る決闘。暖簾のあるカフェの、二人の戦士。店主が挨拶をやめて、見物していたと思う。
それから彼女は箸を伸ばした。俺が計算に入れていなかった武器だ。エビフライは消えた。俺の目をまっすぐ見ながら。
好きにさせた。
こういうのは、正史なんだ。
彼女は、「物理」の発音を間違える先生の話をして、俺はそのモノマネをして、彼女はテーブルにつかまらないといけないほど笑っていた。そして俺は気づいた。この場面を、何年も頭の中で再生していたことに。同じ皿。同じ笑い。
思い出として。
今は、ただの火曜日だった。
基本的に、それが夏のすべてだった。四十日間の何もなさ。午前は図書館、物理と古文、どちらが多くの色ペンを使えるかを競い合う二人。メロンパン、彼女の分が大きい。四時の運河沿いの道、そこに立って、二羽のカモを眺める。失礼なほうは、俺を敵だと決めたらしい。俺が通るたびにシャーッと威嚇してきた。
「嫉妬してるのよ」アカリが言った。
「何に?」
「ハルトくんのルックス」
「……カモだぞ」
「とても目の肥えたカモなの」
三十日目には、俺は二人の未来のすべてを計画し始めていた。
誇れることじゃない。大学も決めていた。同じ街。アパートも決めた(いいやつだ。窓が開いて、後悔の匂いがまったくしない)。猫も飼った。灰色の。名前は「カツ」。首輪まで設計済みだ。三十日目の俺は、そういう男だった。法的には存在しない交際のために、ペットを計画していたのだ。
そして母さんだ。母さんが、彼女のために料理した。
どうしてそうなったか、わかってほしい。ある金曜日、アカリがうちに夕食に来た。ただのお礼だ。そして、平日には味噌汁より複雑なものを作ったことのない母さんが、国賓訪問みたいに料理した。
十一品。三人しかいないのに。数えた。四品目は、丸ごと一匹の魚で、俺を見ていた。
「母さん。ただの夕飯だよ」
「夕飯ね」母さんは、その反対の意味の声で言って、十二品目を運んできた。
アカリは玄関でお辞儀をした。「お招きいただき、ありがとうございます」
「いらっしゃい、いらっしゃい、アカリちゃん。どこでも好きなところに座って」
そしてアカリは、この家に来たことがなくて、ルールを知らなくて、ただ礼儀正しくしたかっただけで、三つ目の椅子に向かった。
クッションのある、あの椅子に。
「あ、そっちの席に座ってくれる? アカリちゃん」と母さんは言った。
すてきな言い方だった。とても軽やかだった。母さんは、微笑みながら言った。声は、音ひとつ変わらなかった。
でも、手がおたまの上にあった。そして一瞬、ほんの一瞬、握りしめた。
それから、ゆるんで、アカリは「あ! ごめんなさい!」と言って別の椅子に座り、すべては問題なかった。
クッションを見た。母さんの背中を見た。そして、これは、訊くべきだと思った。
後で訊こう。あの頃の俺には、「後で」がたくさんあった。
アカリが、卵焼きをひと口食べた。
片側が焦げている。
「あ」彼女は言って、噛むのをやめた。「ハルトくん。これ、今までで一番おいしいって言ってたやつだ」
「言った」
「完璧だよ」
母さんは、急に振り返って、ご飯を確認しなければと言った。炊飯器は、二十分前から切れていた。母さんは、長いこと確認していた。
あとで、母さんがアルバムを持ってきた。当然だ。法律がある。六番の写真は、三歳の俺が、鍋を頭に被って、小さな独裁者みたいにカメラを睨んでいるもので、アカリは笑いすぎてお茶を鼻から出した。
「一生許さないからな」俺は母さんに言った。
「アルバムくらい持っていてもいいでしょ」
玄関で、アカリはもう一度、深くお辞儀をした。「ごちそうさまでした。それと、ハルトくんのことも、ありがとうございます」
母さんは、間を置いた。それから、人間の顔で見たことがないほど慎重に中立を保った顔で言った。「ハルトのお友達でいてくれて、ありがとう」
母さんは「お友達」に、余計な意味をたっぷり詰め込んだ。
あの魚の中に潜り込みたかった。
ドアが閉まったあと、母さんは廊下で腕を組んで立っていた。「いい子ね」
「……母さん」
「意見くらい持ってもいいでしょ」
「色々持ってもいいんだよ」
「わかってる」母さんは言って、微笑んだ。そして俺は、自分の名前が間違った字で書かれた金色の額縁の前の廊下に立って、思った。これが夢なら、誰にも起こされたくない。
その夜遅く、ノートを開いた。表紙に猫。隅々に小さな猫。リストを上から順に、チェックを入れていった。
一、おはようを、返す。✓
二、母さんが話すとき、顔を上げる。✓
三、メモを残す。✓
四、ちゃんと勉強する。✓
五、何も破かない。✓
六、死なない。✓(今のところ)
七、シオン。友達になる。
しばらく、それを見つめた。
やった。たぶん、やった。一緒に坂を下りたし、一緒に勉強したし、青いノートも無傷で返した。それは数に入る。ほとんどチェックみたいなものだ。
チェックは入れなかった。
友情は、チェックを入れるような種類のものじゃない、と自分に言い聞かせた。素晴らしい言い訳だ。たぶん、本当でもある。
八、アカリ。臆病になるな。会いに行け。✓
そこに、とても大きく、とても満足げなチェックを入れて、ノートを閉じ、ランプをつけたまま眠った。




