第5話 大切にすべきもの(後編)―運河の嵐と二羽のカモ― 【挿絵あり】
その春の残りは、アニメでよくある流れで過ぎた。モンタージュだ。柔らかいピアノつきの。
毎日放課後は、自販機。毎日同じ七文字、そして毎日シオンは少しずつ速く言うようになって、ある日、あいつは何も言わずに俺の隣を歩き出して、二人とも、それが当たり前みたいなふりをした。それから図書館、それから家、それからランプ、それから睡眠。
数週間後、模試が返ってきて、俺は自分のを持って、明るい廊下に出た。
七十四点。
その紙を、長い間握っていた。自分の名前が書かれた紙を見て、それを食べてしまいたいと思わなかったのは、生まれて初めてだった。
「見せて」とシオンが言った。
渡した。あいつは一度読んで、もう一度読んだ。唇が動いていた。合計を、請求書を確認するみたいに、指でなぞって確かめた。
「七十四点」あいつは呟いた。
「ああ」
「君がやったんだ」
「お前がやったんだ」
「僕たちがやったんだ」
「泣くなよ」
「泣いてないよ」
「目、赤いぞ」
「ホコリ」
「廊下だぞ」
「……ホコリまみれの廊下だね」シオンは言って、それから吹き出した。俺も笑った。二人とも壁にもたれて、一枚の紙を、生まれたての赤ん坊みたいに抱えて。
「あ、もうひとつあった」
カバンの中を探って、青いノートを取り出し、両手で差し出した。
「約束どおり」
あいつは受け取った。裏返した。開いて、ぱらぱらとめくって、また裏返して、一ページずつ確かめた。傷みを探して。
「どこも悪くなってない」
「ああ。それが約束だった」
「冗談だと思ってた」
「本気の冗談だった」
あいつは、ノートを両手のひらの間でしばらく平らに押さえた。それから、最後のページから黄色いメモが飛び出ているのに気づいた。隅に小さな猫がついたやつだ。広げた。
無事返却。床をありがとう。 ——ハルト
あいつは、それを読んだ。それから、とても丁寧にもう一度たたんで、ブレザーのポケットに入れた。心臓のところ。失いたくないものをしまう場所に。
「ホコリ」あいつは、声を詰まらせて言った。
「まだ廊下だぞ」
「すごくホコリっぽい学校なんだよ」
俺が後でノートに書いたのは、それだった。七十四点じゃない。あの壁だ。
そしてリストの五番に、チェックを入れた。
梅雨が来て、俺は図書館に行った。二周目。同じ窓際の机。今度は、そこで眠らなかった。背筋を伸ばして、目を開けて、初日の銀行の警備員みたいに座っていた。
一人の女の子が、入口で傘を振りながら入ってきた。黒い無地のゴムで束ねた髪。まくり上げた袖。三色のペンが一列、蛍光ペンのキャップを歯でくわえて。
図書館は満席だった。空席は、ちょうどひとつ。
俺のところ。一応。
「すみません、ここ、誰か使って——」
「よだれは垂らしてない」
「……そんなこと、言ってないけど?」
「よかった。最高だ。座って。どうぞ」
なめらかだ。非常になめらか。白い虚無のどこかで、ハゲが笑いすぎて座り込んでいた。
彼女は、俺を見つめた。それから肩が震え出して、手が口に上がって、笑った。本物の、秘密のほうの笑い。前の人生で、絶対に忘れないと誓った笑い。
忘れていた。
それが怖いところだった。すべて覚えていると誓ったのに、音の高さを間違えて覚えていたのだ。
「変な人ね」彼女は、座りながら言った。
「よく言われる」
火曜、木曜、土曜。彼女は物理、俺は古文。半分に割ったメロンパン、彼女の分はいつもほんの少し大きくて、二人とも気づかないふりをした。問題が解ける前に二回鳴るペン。「ハルトくん、見て見て、わかった!」
この映画は見たことがある。結末も知っている。
でも、それが二周目の問題だ。もう何も知らないふりはできない。俺は、あらゆることに気づいた。ペンの音。緊張すると結び直す髪ゴム。図書館の司書さんに、心からそう思っているみたいに「おはようございます」と言うところ。
彼女がどうやって図書館に来るのかも、気づいた。毎日、雨でも晴れでも、少し息を切らして、少し風に乱れて、いつも早い。
「なんでそんなに早く来られるんだ?」一度訊いた。
「運河沿いを自転車で走るの。それが一番近道なんだ」彼女は鼻にしわを寄せた。「お母さんは嫌がるけど。危ないって。でも私は、カモがいるからって言うの」
「カモ、いるのか?」
「二羽。一羽は失礼なの」
その夜、ノートに「運河」と書いた。なぜかはわからなかった。俺は、指をポキポキ鳴らす癖のある奴みたいに、物事を書き留めるようになっていた。
そして月曜、水曜、金曜は、シオンと自販機と、シャーペンは個性に入るのかをめぐる、至って真剣な議論。
「入るよ」とシオンは言った。
「ただのシャーペンだろ」
「ライフスタイルだよ」
俺の予定は、前の人生全体よりも埋まっていた。事務ミスじゃないかと、何度も確かめた。
学期が終わった。俺の成績:すごくはない、悲劇でもない。アカリの成績:予想より二十位上。彼女は廊下の真ん中で叫んで、先生に声を落とすよう言われた。俺は、くさいセリフを用意していた。「点数ってのは、遅れて届くもんだ」。必要なかった。
それでも、とっておいた。非常用のくさいセリフ。
夏休みは、一週間後だった。そして俺には、学期最終日の騒音の中に座っていても、振り払えないしつこい考えがひとつあった。
前のとき、彼女は来なかった。
カフェには、一度も。休みの間、ずっと。俺は、あらゆる言い訳を使い切った。家族旅行。塾。おばあちゃんの家。どれも、アイスコーヒーを頼み続けるために、自分に言った嘘だった。
ノートに書いた。彼女の名前の下、「会いに行け」の下に。
それから、その下に。カフェで待つな。
* * *
夏休みの初日、空は痣の色をしていた。
蒸し暑く、重たい。空気は、濡れたタオルの内側みたいだった。母さんが玄関で俺を止めた。すでに傘を手に持って。
「どこか沖のほうに台風が来てるの。早めに来るかもしれないって。遅くならないようにね?」
「図書館に行くだけだよ。アカリと勉強するんだ」
「アカリ?」
「友達」
「友達」母さんは、一段落ぶんの意味を込められそうな声で言った。
「母さん」
「何も言ってないわよ」
「顔が言ってる」
「私にも顔くらいあるでしょう」母さんは微笑んで、それに気づいて、表情を真面目なものに直した。「四時までには帰ってね」
「四時までには帰る」俺は間を置いた。「メッセージ送る」
母さんの眉が上がった。無理もない。俺は人生で、母さんにメッセージを送ったことが一度もなかった。
「……わかった」母さんは言って、壊れやすいものみたいに、傘を俺の手に押し込んだ。「いってきます」
「それは俺の台詞だよ」
「わかってる」母さんは言った。「……いってらっしゃい」
図書館には九時二十分に着いた。十分早い。俺の前歴からすれば、ほとんど奇跡だ。約束は九時半だった。窓際の机は空いていた。雨が窓ガラスを叩き始めていた。最初は柔らかく、誰かが水温を試すみたいに。
本を広げた。鉛筆を削った。携帯を確認した。
九時半。
アカリは、いない。
まあいい。誰だって、たまには遅れる。
ただし、アカリは遅れたことがない。アカリは早い。持病みたいに早い。六週間、週に三日、俺が彼女より先に着いたことは一度もなかった。三本のペンを並べて座って、俺のほうが遅刻者みたいな顔でこっちを見るのだ。
九時四十分。
雨は、さっきより強くなっていた。雨であることをやめて、性格になり始めていた。
携帯を手に取って、彼女の番号にかけた。呼び出し音。鳴る。鳴る。鳴る。それから、女の人の、とても丁寧な声。『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません』。
そこに座っていた。
この席は知っている。この感覚も、まさにこれを知っている。本当の話を見なくて済むように、自分に物語を語り聞かせるときの感覚だ。バスに乗ってる。傘を忘れた。別の図書館に行ってる。携帯の電池が切れた。おばあちゃんの家。
俺は四十日間、カフェに座って、その話を自分に語り聞かせてきた。
前のときなら、ここがアイスコーヒーを二杯目に頼む瞬間だった。
カバンの中のノートを見た。開く必要すらなかった。あの一行は知っている。
カフェで待つな。
本をカバンに突っ込んだ。あまりに勢いよく、鉛筆が部屋の向こうまで飛んで、司書さんに「しーっ」と言われた。
「すみません!」
俺は走った。
言っておくが、俺は走る人間じゃない。一度も走る人間だったことはない。二つの人生どちらでも、自分の意思でしたまともな運動は、コンビニまでの散歩だけだ。肺は二百メートルあたりで苦情を申し立てた。あれほど自慢していた膝は、正式に辞職した。
彼女の家から図書館へ行く最短ルートは、運河沿いだ。最短ルートこそ、彼女がいつも通る道だった。
「カモが二羽」俺は走りながら、自分に言った。「一羽は失礼。無事でいてくれ。無事でいてくれ。頼む、頼む、頼むから無事でいてくれ——」
駅の裏の運河は、きれいなものじゃない。深さ三メートルほどのコンクリートの溝で、上に金属の手すりがついている。普段は細い流れと、寂しそうなショッピングカートが数台あるだけだ。手すりの切れ目に、短い鉄のはしごが、壁に固定されている。市が人を送り込んで何かを点検させるときのためだ。
一時間、雨が降り続いていた。雨というより、空がわざと中身を空けているみたいだった。
道は、人影がなかった。分別のある人間は、みんな家にいた。ビニール袋が、幽霊みたいに俺の横を飛んでいって、そのまま行ってしまった。
手すりの切れ目を三歩過ぎたところで、自転車が目に入った。
道の真ん中に横倒しになって、後輪がまだゆっくりと回っていた。そのそばに、口の開いたカバン。教科書が水たまりの中でふやけていた。
そして手すりの上に、黒い無地の髪ゴム。
気づいたと気づく前に、わかっていた。
足が止まった。体全体が止まった。
「違う」俺は、誰にともなく言った。「違う、違う、違う——」
そのとき、雨の向こうから聞こえた。細くて高くて、恐怖でひび割れた声。
子供の、泣き声。
手すりの切れ目に駆け寄って、下を覗き込んだ。
運河は、満水だった。水位は、はしごの上にたった三段しか残らないほど上がっていた。茶色い水が、速く、壁にぶつかっている。
そして一番下の段にしがみつき、水が胸まで来ているのが、アカリだった。
片腕を段に引っかけて。もう片方の腕は、黄色いレインコートを着た小さな男の子を抱え込んで、壁に押しつけていた。その子の口は、大きく開いていた。叫んでいた。
彼女が顔を上げた。
「ハルトくん!?」
声は細かった。長いこと耐えていた人が、たった今、一瞬だけ手を離していいと言われたような声。
「落ちるところを見たの!」彼女は叫んだ。「誰もいなくて、私、どうしようも——携帯は水の中だし——」
「喋るな! つかまってろ!」
「つかまってるよ!」
「もっと強くつかまれ!」
素晴らしい助言だ、ハルト。まさにプロの言葉だな。
よし。ステップ一、助けを呼ぶ。サバイバルマンガは、どれもそう言っている。
俺はガラケーを持っていた。ついに、その出番が来た。
片手で開いた。親指が震えていた。「駅裏の運河! 子供が二人、水の中にいます! 急いでください!」パチン。ポケットに。
ありがとう、古代のレンガよ。
さて、俺が知っていたことはこうだ。女の子。子供。嵐。危険、水、助けを求めて泣く誰か。俺のジャンルのすべてが、四方八方から叫んでいた。あとはトラックがあれば、フルセットだ。頼む、トラックだけはやめてくれ。
肩越しに振り返った。トラックはいない。雨だけだ。
不幸中の幸い。
それから、自分を見た。数週間勉強しただけの、筋肉のない、痩せた十六歳の体。そして脳みそは、お前には無理だ、溺れるぞ、救急車を待て、と言っていた。正しかった。何もかも正しかった。
でも俺は、サバイバルマンガを十分読んでいるから、第一のルールを知っている。溺れている人を追って飛び込むな。それが、ひとつの救助を二つに変える方法だ。
だから、飛び込まなかった。
降りた。
手すりの切れ目に足を回して、はしごに足を乗せた。金属は、濡れた魚みたいにぬるぬるしていた。雨が、投げつけられた砂利みたいに首の後ろを打った。三段、一段ずつ降りると、水が足首を包み、それからすねを包んだ。
冷たい。夏の冷たさじゃない。個人的に俺に怒っているみたいな冷たさだ。
頭の中の声が、何か気の利いたことを言った、と言いたいところだ。
言わなかった。
戻ってきてから二度目、声は黙った。今度は、理由が違った。ジョークの入る余地が、ただ、なかった。
左肘をはしごに引っかけて、右手を伸ばした。
「その子だ! 先にその子を渡せ!」
「……無理、腕が——」
「アカリ!」彼女の名前を、こんなふうに呼んだことは一度もなかった。「子供が先だ、話は後だ!」
彼女は、その子を持ち上げた。どうやったのかはわからない。腕があまりに震えて、もげるかと思った。黄色いレインコートの背をつかんで、男の子を胸に引き寄せた。
「登れ! サルみたいに! 行け、行け、行け!」
あまりにも震えていて、その子の手は閉じなかった。だから俺は、肩を足の下に入れて、押し上げた。その子は、カーテンを駆け上る猫みたいに三段を這い上がって、切れ目を抜けて、縁を越えた。道に転がって、そこに座り込み、空に向かってわめいていた。
泣きやまなかった。
最高だ。今まで聞いた中で、一番いい音だ。
「アカリ、お前の番だ、早く——」
彼女は、俺を見ていなかった。手の中の段を見ていた。
曲がっていた。見えた。金属はひどく錆びていて、ボルトが力尽き、段全体が、ゆっくりと壁から傾いていた。
「ハルトくん」彼女は、とても落ち着いた、俺がまったく気に入らない声で言った。「先に上がって。壊れちゃう」
「手を貸せ」
「三人は無理だよ——」
「手をだ」
もう一段降りた。水は膝まで来ていて、冷たくて、濃くて、引っ張っていた。百本の手みたいに。肘をはしごにがっちり回した。手を伸ばし、彼女も伸ばしたが、俺たちの指は、濡れて役に立たず、すれ違った。
もう一度。
手首を掴んだ。
そして、段が折れた。
チン。小さくて、長い音。段全体が壁から外れ、彼女の体重が俺の腕にかかり、肩が悲鳴を上げ、膝がコンクリートに当たった。長い一秒、世界には何もなかった。雨と、水の轟音と、俺の手の中の彼女の手首以外は。
そのとき、記憶が来た。
虚無からじゃない。あの白い場所からじゃない。前の人生の、九月の、廊下から。ひとつの文。
「聞いた? アカリさん、休み中に運河で溺れかけたんだって。シオンくんが見つけたの。飛び込んで助けたんだって。毎日、病院に通ってたらしいよ」
聞いていた。
教室の外で、二人の女子が、また聞きのまた聞きで、ひそひそ話していた。他人の結婚式の話をするみたいに。彼女が俺に「いいよって言ってくれたの」と告げた、一週間後のことだった。どこに立っていたか、正確に覚えている。
よかったな、あいつ、と俺は思った。持ちうる限り一番苦々しい声で。
そして、ヘッドホンの音量を上げた。
手に、力が入った。
だから彼女は来なかったのだ。それが理由のすべてだった。四十日間、毎日、払えないアイスコーヒーを前にあのカフェに座って、ドアを見つめ、おばあちゃんと塾の話を自分に語り聞かせていた。その間ずっと、彼女は病院のベッドにいて、そのそばに、青いノートを持った少年が座っていた。
俺はまた、間違ったテーブルにいた。俺はいつも、間違ったテーブルにいた。
これはあいつのものだったと、奥のどこかで声がした。この嵐。この運河。この手首。これはシオンのものだった。お前は、その中に立っているんだ。
そして一秒後、もっと小さくて、意地悪で、ずっと正直な声が。
いいじゃないか。取っておけ。
言っておくが、俺は手を離さなかった。
そしてこれも言っておくが、ちょうど一秒間だけ、俺の中の醜い小さな片隅が、それが俺の手でよかったと思った。
「ハルトくん!」
「掴んだ!」俺は叫んだ。掴んでなどいなかった。腕は燃えていた。「蹴れ! 足で壁を蹴れ、俺が引く!」
引いた。
どうやったのかは覚えていない。彼女が出した、半分すすり泣きで半分笑いの声と、足が壁を見つけたときのことは覚えている。空いた手が、次の段を掴んだことも。それから膝。それから、二人で、酔っぱらった猫二匹みたいに、そのはしごを上っていった。三段。人生で一番長い、三段。
頂上で、誰かの手が俺の襟を掴んで、引き上げた。
彼女の手だった。
俺たちは、一緒に道に倒れ込んだ。
雨。雨。雨。
すぐ近くで、小さな男の子が、まだ空に向かって叫んでいた。
仰向けになって、灰色の空を見上げた。手のひらはすりむけていた。肩は燃えていた。胸は、誰かが強く叩きすぎた鐘みたいだった。
アカリが、咳き込みながら隣に起き上がった。俺は、顔を向けて彼女を見た。
彼女は、生きていた。
生きていた。
笑った。かすれて、間抜けで、濡れた笑いだった。彼女は俺が気でも狂ったかという目で見て、それから彼女も笑い出して、二人とも濡れたコンクリートの上に寝転んで、空に顔を洗われながら、どちらも止められなかった。
「今のは」彼女は、ぜえぜえ言いながら言った。「今までで一番恐ろしい——」
「わかってる」
「『子供が先だ、話は後だ』って言ったよね」
「言ったか?」
「……アニメみたい」
「顔の練習をしてたんだ」
彼女は、笑いすぎて泣いていた。あるいは、泣きすぎて笑っていた。どっちでもよかった。それから彼女の手が、俺のシャツの袖を見つけた。引っ張らなかった。ただ、俺がまだ実体があるか確かめるみたいに、つかんでいた。
「来てくれて、ありがとう」
ジョークを言おうと、口を開いた。
ジョークのライブラリがまるごとあるはずの、頭の中の声は、何も言わなかった。
「……どういたしまして」と俺は言った。
そのとき、一人の女の人が、壊れた傘を持って全力疾走で角を曲がってきた。黄色いコートの男の子の名前らしきものを叫びながら。水たまりの中で膝をついてその子を抱きしめ、その子が叫び、女の人も叫び、それから、雨の中に寝転ぶ俺たち二人を振り返って、お辞儀をした。もう一度。もう一度、さらに深く、額が地面につきそうなほど、泣き声にかき消されて聞こえない何かを言いながら。
救急車は、十分後に到着した。救急隊員は、アカリをアルミのブランケットで包み、男の子を車の後ろに連れていった。俺も診てもらうかと訊かれて、大丈夫だと答えた。肩は何ともないと言ったが、誰も聞いてくれなかった。
手すりから黒い髪ゴムを取って、彼女に渡した。
彼女は、その存在を忘れていたみたいに、しばらくそれを見つめていた。それから、まだ震える手で髪を結んで、救急車の後ろのステップに、俺の隣に座った。息をするたびに、アルミが音を立てた。
雨は止んでいた。雲の切れ間から、細い黄色い光が差していた。誰かが電灯を試しているみたいに。
「どれくらい、水の中にいたんだ?」俺は訊いた。
「十五分」彼女は言った。「数えてたの」
十五分。彼女は、見知らぬ子供を壁に押しつけて、嵐の中、一人きりで十五分耐えて、しかも数えていた。
「ハルトくん」
「ああ」
「どうやって私を見つけたの?」
「……お前が、遅れたから」
「……私が遅れたのは、一回だけだよ」
「お前は遅れない。お前は早い。持病みたいに早い」
彼女は笑った。濡れた、小さな笑い。「それで、探しに来てくれたんだ」
「新しい人生のステップ一だ」俺は言った。「カフェで待つな」
「何のカフェ?」
「長い話だ。まずいコーヒー」
彼女は訊かなかった。ただ、俺の肩に頭を預けた。痛いほうの肩に。言わないことにした。腕が取れるまで、そこに座っているつもりだった。
「すごく怖かった」彼女は、とても小さな声で言った。
「俺もだ」
「そうは見えなかったよ」
「内心では叫んでた」
「それも、内心のうちだよ」
俺たちは、そこに座っていた。救急車の後ろのステップに座る、二人の馬鹿。骨の髄までずぶ濡れで、嵐が屋根の向こうに流れていくのを見ながら。
昔々、白い虚無の中で、死んだ男が神様に嫁を百人くれと頼んだ。そして今、俺はここにいた。
ハーレムもなし、剣もなし、システムもなし。ただ、濡れた髪ゴムとしゃっくりを持った、一人の女の子。
俺が今までにした最高の取引だ。もう一度やる。
そして、一瞬だけ、澄み切った素晴らしい一秒、これが俺の人生で最高の瞬間だと思った。
確認はしてあった。確認する時間なら、何年分もあった。前の人生では、カフェのカツカレーを超えるものはなかった。
今、何かが超えた。
胸の奥で、何かが引っ張られた。小さく。素早く。暗がりで階段を一段踏み外したみたいに。
無視した。
幸せで、忙しかったから。




